2話
「一体誰なのよ…」
チェルナが呟くと、彼は悪戯っぽく笑った。
「僕のことがわからないのかい? ひどいね」
「ええ、ごめんなさい。だから、貴方が誰なのか教えてくださらない?」
「そうか。では、名前も知らない僕を好きになってもらおうかな」
「私が貴方を? そんなことをして、私がつきまとって貴方の評判を落としたらどうするつもり?」
「僕が君の評判を落とすのではなく、君が? おかしなことを言うね」
彼は本当に不思議そうに尋ね返した。まるでわからないといった風で、嘘を言っているようには見えない。
そこでチェルナは彼の正体のヒントを掴んだ。彼はチェルナの不名誉な噂を知らないらしい。社交場の噂には疎いようだ。テレーサが認めるほど身分が高くて噂に疎い、そんな人物にはますます覚えがない…。
「そんなことを言うなんて、貴方こそ、本当に私の知り合いなのかしら」
チェルナはそう返した後、会話を拒否するように視線をそらした。それを察してか、彼も会話をとぎらせる。
お互いが黙ったまま、ダンスの列を乱さないようステップを踏み、回って、擦れ違う。そうしても黙って踊る人の方が多いので二人が目立つことはない。少し気まずい空気は、ダンスの明るい音楽に紛れた。
チェルナは彼の正体追求よりも、ダンスの後、いかにしてさりげなく彼のもとを去るかに考えを切り替えていた。噂に疎いのであれば、これ以上関わらない方が互いの被害を避けられるはず。
しばらくして曲が終わり、人々の動きも止まる。踊っていた相手と互いに挨拶を交わし、ダンスの列が散り散りに崩れていく。多くの男女がフロアを移動している今が一番紛れやすい。
チェルナが彼に立ち去るための挨拶を告げようとした時、
「こんにちは、チェルナ・ビスコーテ嬢。貴女も来ていたのですね」
横からチェルナの知人であるヘンス・バレッリが話しかけてきた。彼もダンスの列に加わっていたらしい。踊り終えて頬が紅潮した女性を伴なっている。
チェルナが絶好と考えた機会は、声をかけやすいタイミングでもあるので、こうしたシチュエーションはありがちだ。チェルナが人混みに乗じて彼から離れる作戦は、ヘンスの行動の前に敗れた。チェルナは息を整えるふりをして一息吐くと、気を取り直してヘンス達に笑顔を向ける。
「あら、ヘンス・バレッリ。ご機嫌よう。可愛いお連れが一緒なのね。ご紹介いただけるのかしら?」
「もちろんですとも。彼女は私の婚約者マリア・ベルテです。マリア、こちらは、ビスコーテ嬢だ」
「マリア・ベルテと申します。お会いできて嬉しいです、ビスコーテ嬢」
「紹介ありがとう、ヘンス。マリア・ベルテ、私はビスコーテ家のチェルナ。チェルナ・ビスコーテよ。ヘンスとは仕事仲間なの。これから仲良くしてくださると嬉しいわ」
チェルナは彼等と挨拶を交わす。こうした知人の紹介で知人が増えていくわけだが。ヘンスの連れの紹介が終わったところで、今度はチェルナが自分の連れについて紹介する番となる。
名前も知らない彼をどう紹介したものかとチェルナが言い淀んでいると、彼が口を開いた。
「僕はチェルナと親しくしているリオール・ダンフォードです。よろしく」
彼はいともあっさり名を告げた。
会話の流れとしては自然で何もおかしなところはない。しかし、挨拶をされたヘンスとマリアは顔を強張らせた。
彼が口にしたダンフォード家は非常に裕福な上位の貴族であり、庶民のヘンス達からすれば全く縁がないほど身分が高い人物だったからだ。同じ貴族でも下位のビスコーテ家とは比較にならない。
ヘンス達もチェルナが貴族であると知っていたが、まさかダンフォード家ほど高い身分の人物と一緒とは思わなかったのだろう。
強張るヘンス達の前で、チェルナの驚きはそれ以上だった。
「チェルナ?」
はっと我に返ったチェルナは、ヘンスとマリアに笑みを浮かべて見せる。そして、
「それでは、またお会いしましょう」
と言って、彼の腕に置いていた手をさっと引き、一人で歩きだした。人前でこのような態度をとるのは彼に対して非常に失礼なのだが。チェルナはそれどころではない。
「チェルナ、いきなりどうしたんだい?」
すぐにリオールはチェルナを追いかけて来た。
チェルナは何か言い返したかったが、考えることが多すぎてそれどころではない。
誰かわからないと思っていた彼は、リオール・ダンフォード、二十二歳。ビスコーテ家の次姉エティナが嫁いだダンフォード家次期当主マクオルの弟である。
彼がリオールだとわからなかったのは、彼と会うのが七年ぶりで、身長も体格も大きくなっており、当時の容姿とは雰囲気があまりにも変わってしまっていたからだ。言われてみれば面影が残っているが、ひょろりとした上品な貴族子息だった十五歳の彼と二十二歳の今の彼ではあまりに違いすぎる。
そもそもダンフォード家とビスコーテ家の家格に大きな差があったため、チェルナが彼と会う頻度はそれほど多くはなかった。七年前の彼を詳細に覚えているはずがなく、こうまで変わると思わない。
チェルナが彼と知り合ったのは、彼女が十三歳の時。彼は良家の次男として外国に数年間留学することが決まっていた。チェルナは貧乏なビスコーテ家を建て直すために勉強に奮闘しつつ、将来は自分の美貌を武器に、頭がよくお金持ちで立派な男性を捕まえようと考える女の子だった。彼女の理想にぴったりなリオールに、将来美人になるから結婚の予約をするべきと迫り、彼が留学する前に結婚の約束を取り付けた。
チェルナが思い返すたびに赤面するほど強引なアプローチだったが、彼との関係は良好だった。二人は手紙を送り合い、穏やかに関係が続いていけそうだったのだが。
十六歳になり、チェルナはビスコーテ家を継ぐ身として社交界にデビューを果たした。
しかし、歳若い娘の相手をする男性は結婚を目的としている人がほとんどである。そうでもなければ、デビューしたての世慣れない娘と話をしようなどと思う者はいない。
当然、チェルナもそうした男性達に囲まれることになった。彼女の容姿は王都で注目されるほどではないとしても綺麗であったし、貴族家跡取り娘と結婚したい男性も多かったので、彼女に言い寄る男性は少なくなかったのだ。
チェルナはリオールと結婚の約束をしていたが、それは二人だけの口約束でしかない。ダンフォード家の家格を考えれば、安易に婚約者はリオール・ダンフォードだと公言することも憚られ、チェルナは婚約者がいると言って彼女に言い寄る男性を断っていたが、婚約者の名は明かさなかった。しかし、名も明かさない姿も見せない婚約者では、男性達が納得するはずがない。男性達に囲まれてチヤホヤされるチェルナを嫉む人もいて、チェルナは高慢、嘘つきなどの陰口が叩かれるようになる。
そんな時、ある男性が、チェルナに婚約者がいるというのは嘘で彼女がしつこく結婚を迫ってきたのに断ったら男性の恋人に危害を加えようとした、と嘘をあちこちで喋った。チェルナに振られた腹いせである。チェルナの存在を面白くないと思う人達がその嘘を一斉に取り上げ、チェルナを批難した。恋人がいる男性を奪うために嘘をついて近づき、罠に嵌める恐ろしい女性。ひそかに毒を盛ったり、怪我をさせようと謀った、など、話はどんどん創作され膨らんでいった。
結局、チェルナにフラれた男性は貴族社会に出入りできなくなったのだが、彼女の嘘の噂は広がったまま真実がそれを打ち消すことはなく。チェルナ・ビスコーテは恋人がいる男性を好み、落とすためには手段を択ばない悪女として名を馳せてしまったのである。
社交界を騒がせてしまったチェルナはリオールやダンフォード家に迷惑がかかることを恐れ、リオールに結婚の約束はなかったことにしてほしいと手紙を送り、連絡を絶った。その年と翌年は社交場に出ることも控えた。
長く国外にいた彼が一時期社交界で騒がれたチェルナの噂話を知らなくても当然である。深く考えずにチェルナに声をかけたとしても不思議ではない。
しかし、チェルナとしてはとても喜べる状況ではなかった。
四年が過ぎているので、悪女の噂はすでに薄れている。しかし、そういえるのは社交界でも身分が低い下層の話だ。ダンフォード家のような身分の高い層の社交界では話が違う。一度貼られたレッテルはいつまでも蔓延り続けるのである。
テレーサとリオールが揉めていた時、確か、リオールは彼女が勝手に婚約者だといいふらしていると言ってはいなかったか。
テレーサが婚約者だと主張するリオールをチェルナが奪うという設定は、嘘の噂を思い出させるだろう。社交界でチェルナの悪女話を再び再燃させ、リオールやダンフォード家をも悪評に巻き込みかねない。今度はどんな噂を立てられることになるのか……。
リオールを騒ぎの渦中に巻き込み、ダンフォード家に嫁いだ姉エティナに肩身の狭い思いをさせたくない。いつも実家のビスコーテ家を気遣って、毎年チェルナのために自らデザインしたドレスを贈ってくれる優しい姉を悲しませるような真似はしたくなかった。
どうしてよりにもよってテレーサとリオールが諍っているところに通りかかってしまったのか。
チェルナは軽率な行動に走ってしまったことを、しみじみ後悔した。