1話
木々の緑が濃くなる頃、王都の屋敷では様々なパーティーが催される。貴族階級だけでなく資産家の屋敷でも開かれ、人々の交流が活発に行われる季節だ。若い未婚の男女もこの時期に社交界にデビューすることが多い。
ここケーブ邸でも新しくデビューした若者たちをメインにしたパーティーが開かれていた。
すでに多くの客が到着し、会話が弾んでいる。音楽隊が楽器の音を確認している音も聞こえ、じきにダンスがはじまるのだろう。
チェルナ・ビスコーテは賑わう階下へ向かおうと大階段に足を踏み出した。この季節独特の新しい顔ぶれを迎えるパーティーの雰囲気は明るく、チェルナの足も軽い。
チェルナはもうすぐ二十歳になる。独身貴族女性としてはギリギリ適齢期という年齢で、社交界に新鮮味はない。
彼女も四年前の今ごろに社交界デビューを果たした。その年にあらぬ噂を立てられ、チェルナは婚約者や恋人がいる男性を好む悪女として騒がれ散々な年となった。
しかし、数年経った今は当時の噂を口にする人はほとんどいない。チェルナを知って、噂はただの作り話とわかってくれる人も増えた。足が軽いのも当然だろう。
チェルナが機嫌よくフロアーへの階段を降りていると、その前方で男女が揉めているのに気づいた。
「早くマドウェック邸のパーティーに行きましょうよ。こんな下々のパーティーに出席しても、時間の無駄だわ」
「勝手についてきたのは君だ。君一人でマドウェック邸に行けばいいだろう?」
男性は背を向けているので誰だかわからないが、女性の方はチェルナが知る人物だった。
上位貴族クインソー家の娘テレーサ。身分が低いとあからさまに見下す、会って楽しい人物ではない。
チェルナは聞きたくもない話を耳にしながら足を進めた。彼等の声がだんだん大きくなる。
「貴方のエスコートなしに出席するわけにはいかないわ」
「僕のエスコート? そんな約束はしていない。それに、君は勝手に僕を婚約者だと言いふらしているそうじゃないか。今後、僕は君をエスコートする気はないよ」
「こんなところに連れてきて、私を一人にするつもり? あんまりだわ」
「僕が連れてきたんじゃない。君が勝手に馬車で後を付けてきただけだろう」
男性はキッパリと彼女に告げ、彼女から一歩引いて身を離した。
パーティー会場であるここケーブ邸の主人は資産家で、出席者は同じ資産家の人々つまり平民やチェルナのような下位の貴族が多い。つまり、テレーサが出席するような身分の高い人限定のパーティーではない。
どうして彼女がここにいるのか不思議だったが、どうやら彼を婚約者として別のパーティーに連れて行きたくてついてきたようだ。馬車で後を付けたというのだから、テレーサは彼によほどご執心なのだろう。
プライドの高いテレーサがぞんざいに扱われている様子は面白いが、揉め事はせっかくの快い気分を曇らせる。
こんな会話を聞かれて恥ずかしくないのだろうかと思っていると、やっと彼女がチェルナに気づいた。
「何を見ているのよ。さっさと消えなさい」
近づくチェルナに、テレーサは冷ややかに命じた。
彼女にとって下々の者は同じ人間ではないので、彼との諍いを聞かれても何とも思わないらしい。
「テレーサ・クインソー嬢、お久しぶりですわね」
チェルナは彼女への挨拶を述べた。彼女が使用人に対するような態度だったとしても、挨拶くらいしなくてはチェルナがこのパーティー主催者に顔向けできない。一応の礼儀は示しておかなければ。
テレーサがギリッと歯を噛んでチェルナを睨むのを横目に、彼等の横を通り過ぎようとしたところで。
「探したよ、チェルナ!」
男性がチェルナの腕を掴んだ。
え? 彼がチェルナに話しかけてきたが、その顔に見覚えはない。
がっしりした強く大きな手と、彼女をのぞき込んできた笑顔にドキリとする。
「勝手に君が広めた嘘は、君がどうにかするんだな。さあ、行こう、チェルナ」
「私を放っておく気? お父様に言うわよ、それでもいいの!?」
「好きにすればいい」
チェルナは彼が誰だかわからなかったが、彼はテレーサの父クインソー卿を恐れなくてもいい立場にあるらしい。
それならばと、チェルナは彼の誘いに乗ることにした。彼女がよく口にする父親の権威を振りかざした幼稚な脅しが大嫌いだったので、彼女から逃れたい彼に協力する。
テレーサの前で彼の差し出した腕に手を預けた。そして、
「では、ご機嫌よう、テレーサ・クインソー嬢」
チェルナは彼女へにっこり笑顔を振りまいてから、再び階段を降りるべく足を踏み出した。そのまま男性と二人で広間へと降り立つ。流れる音楽やフロアの中央で踊る人々の足音、熱気を肌に感じる。
テレーサが二人の後を追ってくることはなかった。
チェルナはいけないと思いつつ胸がスッとした。
テレーサが『お父様に言う』という言葉は強烈な効果があり、その言葉に刃向かえる人は少ない。上位の貴族であるクインソー家にはそれだけの影響力があるのだ。
チェルナは姉がクインソー卿よりも身分の高い男性に嫁いでいるので『お父様に言う』の言葉の効果はないが、刃向かえるわけではない。
だから、さっきのテレーサの悔しそうな顔にはスカッとしてしまった。
テレーサを悔しがらせたのは、チェルナの隣を歩く男性が言うことを聞いてくれなかったからだが。彼は一体どういう人物なのだろう。
テレーサが彼を婚約者だと言いふらしているとの言葉から、彼女が彼と結婚したいと望むくらいに身分が高いとがわかる。彼女と同じ上位の貴族家の跡継ぎで、それでいて『お父様に言うわよ』という言葉が使える相手。
そんな人物が知り合いにいただろうか。
チェルナはあれこれ考えてみたが、全く思い当たらない。
上位の貴族家というのは国内にほんの一握りしかおらず、そういう人達はチェルナとは社交場が異なる。姉の夫君は別として、身分の高い人と知り合う機会は非常に少ないので、チェルナがそのような人物を忘れるとは思えない。
もしや、知り合いではないのでは? テレーサから逃げるために、とっさに親しいふりをしたのでは? チェルナの悪女の噂を知っていれば、親しいふりをするのに都合がいいと考えても不思議ではない。悪女なら礼儀をし損ねても構わないと考える人は案外いるのである。
チェルナは馴れ馴れしく彼女の手をとった彼に尋ねた。
「ところで、貴方は誰なの? どこでお会いしたかしら。私には覚えがないのですけれど?」
チェルナも下位とはいえれっきとした貴族女性だ。知人の紹介を経ずに、面識のない相手に話しかけるのは失礼な行為にあたる。さっきのテレーサへの行動にはスカッとさせてもらったとしても、利用されるのは御免だ。
ところが、彼は呆れたような顔で答えた。
「知らずに僕について来たのかい? 君が変わっていないようで嬉しいよ」
大きな溜息をもらす彼に、チェルナはムッとするも反論できなかった。
彼とすでに既知の間柄であるなら、彼は知人に声をかけただけ。それに対して、チェルナは知らない男性に声をかけられて行動をともにしているということになる。軽率な行動と呆れられるのは当然であり、彼に覚えがないチェルナの方が圧倒的に分が悪い。
「踊らないか? 君はダンスが好きだったろう?」
彼は名乗らないまま小さく笑ってチェルナを誘った。
「ええ、そうね」
素直に従うのは癪だったが、ダンスは好きだし、彼が誰かの紹介を経て知り合った(身元確かな)人物らしいとの安堵もあり、チェルナは彼と踊りの中に加わった。
流れる音楽に合わせて、列に並んだ男女がクルクルと回り、ステップを踏む。
踊りながら彼をチラ見して、誰なのかを推測してみた。
薄い金髪の人が多い中、彼は茶瞳で茶髪かなり目立つ存在だった。身体を鍛えているようで筋肉がしっかりついており、肌が日に焼けているので日常的に屋外で過ごす時間が長いと推測される。
テレーサが彼を婚約者といいふらしていたのだから、彼が彼女と同じくらい身分の高い貴族家の人なのは間違いない。しかし、彼の風貌はどこか日常的に肉体労働を行っている人達のような逞しさがあり、チェルナの知る貴族男性達とは少し違っていた。どちらかといえば貴族位を持たない地方領主に雰囲気が近いのだが、テレーサがこだわっていたことを考えると……。
考えても考えても、彼が誰なのかどこで知り合った人なのか、チェルナは全く思い出せなかった。