20 新たなる迷い(?)神
今日も今日とて管理人たる湊は、朝から庭の掃き掃除に勤しんでいた。さして落ち葉もゴミも散らかりはしない庭だが、毎日の清掃は欠かせない。
さっさっさっ。庭に竹箒のこすれる音が響く。
川流れに沿って、湊は移動する。
大きな弧を描く場所――竜宮門のそばまでくると、ついそこに目が吸い寄せられ、手も足も止まってしまう。
さざなみの立つ水面の向こう、なびく水草の合間に、圧倒的な存在感を誇って佇んでいる。
薄緑の瓦屋根の真ん中――七色の宝珠は、光を放っていない。アーチを描く白い門には、何モノの姿も見えない。
にもかかわらず、気づかぬうちに湊は前のめりになってのぞき込んでいた。
「なにをしておる」
「うおっ」
突然、山神の声がかかり、湊は姿勢を戻した。
顔を上げると、大狼が裏門から歩み寄ってくるところだった。
昨夕、自宅に戻っていたのだが、お帰りになったようだ。
「おかえり、山神さん」
「うむ。して、なにをしておった」
「――最近、竜宮門から誰もお越しになっていないな、と思って」
「そうさな、どこぞの鯛と一緒の神が迷い込んできて以来、誰も来ておらぬぞ」
「……なら、いいけど」
川を挟んだ位置で足を止めた山神は、竜宮門をさらりと流し見ただけで、そっぽを向いてあくびをした。
まったく興味がなさそうだ。
時折、いずこから竜宮門を通って迷い込むモノがいる。
先日そこからえびす神が出てくるのを目撃した湊は、初めてその旨を知ることになった。
山神曰く。竜宮門を通ってここ、楠木邸の庭にこられるのは、神の類いのみだという。
とはいえ、たとえありがたい存在であろうと、不法侵入者であることに変わりない。
庭を荒らすような真似をされることもなかろうが、管理人たる者、相手のことはしかと把握しておかねばなるまい。
その都度、教えてくれるよう山神に進言したところ、適当にあしらわれたが、いちおう覚えていてくれたようだ。
山神を見ていた湊の視界の端で、ちかっと七色が瞬いた。
それに気づいた湊が視線を落とす前、山神が半分閉じかけていた瞼を開いた。
「――まさか……」
案の定、宝珠が七色に光り、川面にドーム状の光ができる。
膝を起こした湊が、距離を取った。
相手がどのようなモノかまったくわからぬ。用心に越したことはあるまい。
荒ぶる神の可能性は、絶対にないとは言いきれぬ。
山神は警戒することもなく、ただ下を向いている。やや顔をしかめ、かなり面倒くさそうだ。
その反応から、そこまで危険な相手ではないと予想していた。
さほど待つこともなく、ざぱりと川から何モノかが上がってきてしまった。
人型の若い男だ。
湊と変わらぬ外見年齢。身体の線が出るモノトーンでまとめた現代服。
一見、その辺で行き合ってもなんらおかしくない人間にしか見えない。
だが、人ならざるモノ、男神である。
濡れて張りついたその黒髪をかき上げた瞬間、髪の毛はすぐに乾いた。長い脚が川を縁取る石を越え、芝生に下ろされた。
その身体から、水は滴ることはない。
若い男神が湊と対峙する。
視線がぶつかると、口角を引き上げた。彼の背後に後光が差す。
そのまばゆい光を背負う面持ちは、ひどくやんちゃそうで、悪戯が好きそうだ。それもかわいらしい類いではなく、人が嫌がるタチの悪そうなものを。
一瞬そう頭に浮かんだものの、湊の関心は違うモノに向いていた。
男神の胴体にくるりと巻きついた大蛇に。
その体から一体のようだが、男神の顔周りにある蛇の頭部は八つ。
それぞれあらゆる方向を向き、庭を眺めている。
いずれの眼も輝き、地面近くまで垂れている八つの尾もリズミカルにゆれている。
好奇心旺盛なのだろう。恐ろしい見目なれど、意外に愛らしい。
物怖じも遠慮もない若い男神、そして頭部が八つもある大蛇。
三貴神の一柱たる建速須佐之男命、そしてヤマタノオロチだろう。
あまり日本神話に詳しくない湊でも、わかりやすい特徴から正体に気づいた。
スサノオは一度ぐるりと庭を見回し、湊に視線を戻した。
「ジャマするぞ」
その物言い、態度を見るに、うっかり迷い込んだようには思えない。
「はぁ、どうもこんにちは」
ゆえに無難にあいさつするだけに留めた。
「どこにつながっているのかと、気まぐれで来てみたが、まさかこんな所に出るとはな……。それに、お前――」
スサノオが湊の頭から足の先まで眺めやり、ニヤリと嗤った。
不穏な気配を感じた湊が半歩下がる。
素早く山神をうかがうと、大あくびを連発していた。
眠くてどうでもいい。そうありありとわかる態度で、欠片も警戒なぞしていない。
それに風神雷神の時にはあった、旧知の間柄らしき空気感はまったくない。
どちらも相手にまるで関心はなさそうだ。
「と、まぁ、勝手に入って悪かったな。詫びの印に、コレやるよ」
スサノオが片手を軽く振ると、その足元に酒樽が現れた。
ある説によれば、かなりの暴れん坊だったようだが、意外にも礼儀正しいのかもしれない。
ともあれ、遠慮して断ろうものなら、相手がどう出るかもわからない。
神の類いからの施しはありがたくいただくのが吉だと、湊は経験から学んでいる。
素直に感謝の言葉を口に乗せた。
「ありがとうございます」
それにしても、立派な酒樽だ。
きっと霊亀、風神、雷神が喜んでくれるであろう。
そう思っていると、ヤマタノオロチがスサノオから降りる。飛びつく勢いで、酒樽にくるりと巻きついた。
鎌首をもたげる八つの頭部が酒樽を囲い、二又に裂けた赤い舌をちろちろと出している。
相当呑みたいらしい。
確かヤマタノオロチは、酒でその身を滅ぼされたはずではなかったか。懲りていないのだろうか。
湊がやや呆れていると――。
「この酒は、オメェにやるんじゃねェ!」
怒号が庭に轟いた。ビリビリと鼓膜を打つ苛烈さだった。
とっさに両耳をふさいだ湊の前で、スサノオがヤマタノオロチの尾をひっつかむ。そのまま力任せに引き寄せると、ベリッと音がする激しさで酒樽からはがれた。
それにつられ、酒樽が倒れかける。
すかさず湊が風を放って立て直す。川底からホッとした霊亀の気配が放たれた。
スサノオはそれらに見向きもせず、大手を振って大蛇を青空に向かい、ぶん投げた。
その程度のこと、ヤマタノオロチにはなんのダメージにもならない。
中空でくるりと身を翻した蛇体が、八つの頭部を扇状に広げる。さりとて宙に浮かぶその八対の眼は吊り上がり、憤っている。
それぞれうねうねと首を動かし『おう、おう、おう! 俺様とやんのか、小僧ォッ!』と威嚇していた。
ガラ悪し。
見事にあおられたスサノオが憤怒の形相へと変貌する。
こちらも、オロチに引けを取らず大変活きがよろしい。
「あ゛あ゛ん!? 誰が小僧だ、ゴラァッ! いっつも舐めた名で呼びやがって! 今日もやんのか、テメェー!」
というか、こちらもガラが悪い。
「――沸点が低すぎる」
こそっと湊がこぼした。
そこそこ永く存在しているだろうに。
呆れる湊の視線の先、スサノオが両腕を前へと伸ばし、手のひらで何かを受け止めるような格好を取った。
そこに、金の粒子が弾ける。
次第に数を増し、やがて光の棒状になった。
スサノオが片手でその端を握り、横薙ぎに一閃し、残滓を払う。
その手に残ったのは、剣だった。
装飾の凝った、細身の両刃。
その剣先が、ヤマタノオロチへと向いた。陽光を乱反射するその剣身は、素晴らしく切れ味がよさそうだ。
本物の剣なぞ初めて目にした湊が、あ然と軽く口を開けた。
このご時世、美術館等に足を運ばない限り、見ることはまずもって叶わない希少品だ。
しかも神剣である。
状況が状況でなければ、さぞかし喜ばしかったかもしれない。湊も男であるからして。
剣を構えるスサノオの周囲を、ヤマタノオロチがひらひら舞い、その身を躍らせる。
八つの頭部はそれぞれ大口を開けていたり、舌を出したり、引っ込ませたり、小馬鹿にするようにシャーシャー鳴いていたり。
まるで遊んでいるかのようで、仲がよいのか悪いのか判断に迷うコンビである。
ここにくるまでひっついていたのなら、そう悪くもあるまい。ヤマタノオロチは何もその蛇体でスサノオを締め上げ、息の根を止めようとしているわけでもなさそうだった。
「今一度、その首一つ残らず斬り落としてくれる」
と思いきや、闘気を放つスサノオの台詞は物騒極まりない。
スサノオが剣を上段に振りかぶる。
ヤマタノオロチが奇声をあげ、尾を鞭のごとくしならせた。
なんということだ。戦闘が始まってしまった。
湊が頭を抱える。
このままでは、神の庭が血で染め上げられてしまうだろう。
断じて管理人として見過ごせぬ。
「ここで刃傷沙汰はやめてください!」
鋭く苦言を申し立てた。
スサノオが剣を振り回しながら振り向く。
「なんでだ? こいつを斬り刻んだら、尾から剣が出てくるぞ。おもしれェぞ。見たくねェ? オメェも男ならそういうの好きだろォ?」
「見たくないです!」
心底解せないという表情をされても困る。
それに、その剣というのは、かの有名な草薙剣ではないのか。
――正直興味はある。
が、スプラッタショー必要不可欠なら御免被る。
いっそひと思いに、まとめて敷地外に風で吹き飛ばすか。やるしかないのか。
しかし相手はおそらく相当強い神だ。なんと言っても、我が国の国生みたる神のご子息である。
迷う湊は、唐突に思い出した。
確かスサノオは、暴風の神の側面もあったはずだ、と。
ちょうどその時、スサノオが振り返りざま、湊へと剣を振るった。
互いの距離は離れている。その剣の間合いに湊はいない。
が、その剣から風が放たれた。
荒々しい風は、まさに暴風の名に相応しい。
ゴウッと音を伴う風が湊に迫る。近場の庭木が倒れそうになびく。
しかしすぐさま逆方向――湊の放った風によって、その身が起こされる。
瞬時に相殺された風は上空に逃された。
表情を引き締め、身構えた体勢の湊へと向かい、スサノオはピュウッと口笛を吹く。
先ほどまでの殺伐とした雰囲気は消え去り、剣の腹で自らの肩を軽く叩いている。
スサノオはひどくうれしげに嗤う。
「へェ。風神の力、結構遣いこなせてるなァ」
「――まだまだ、ですけど」
湊は苦い気持ちになった。おそらく、試された。
先ほど、湊を見て嫌な嗤い方をしたのは、風神の力に気づいたからに違いない。
湊はスサノオの様子から警戒を解けない。
まるで、獲物をどういたぶって遊んでやろうかと舌なめずりする肉食獣のようだ。




