37 ごく一部で崇められし、翡翠の方
洞窟は延々と続いた。
山神に指示されるまま、時折横道に入り、進めば進むほど高さも、幅も狭くなっていた。今や湊の体勢は中腰である。
「足腰……つら……山神さんの重さも地味に腕にくる」
「筋肉とれーにんぐなるモノと思えばよかろう」
思わず、噴き出した。
「筋トレっていえばいいよ」
「筋とれ」
どうしても外来語は拙くなるらしい。
余裕そうな山神だったが、鼻筋に皺を刻み始めた。軽くうなり、細かい振動が腕を通して伝わってくる。
「近いの?」
「うむ、そろそろだな」
「メモ帳の効果は切れてない?」
「問題あるまい。それで祓えよう」
しばらくいくと、前方に行き止まりが見えた。
その手前の片側が大きく深く抉れている。視線を落とすと、山神がじっとそこを注視していた。
湊は視覚では感知できない。しかし近寄るごとに、空気の層が変わっていくのを肌で感じた。
盛り土に長細い物が斜めに刺さっている。
それは元の形状が判別できないほど錆びついていた。
薄暗い中でも、山神自体の明るさによって、よく見えた。
「これは……?」
「元は剣であろうな」
「いわれてみないとわからない――」
口を閉ざす。一瞬、その元剣の周囲が黒ずんだからだ。
お怒りなのだろう。なぜか、胸が痛む。
ひどく悲しみを感じた。
「……もともとは、剣の神様だったってこと?」
「いや、人工物になぞ、神霊は自然と宿りはせぬ。これは、人間によって剣に降ろされただけの神霊よ」
「神降ろしっていうもので?」
「左様。昔は人工物に神霊を降ろせる力を持つ術者がおったからな。今では、ほとんどおるまい」
「もし今でもそんな力を持つ人がいたら、山神さんも人工物に降ろすこともできるってこと? ……それってすごい嫌なんだけど」
人間にいいように扱われるなど、許しがたい。
山神が鼻を鳴らす。
「あり得ぬ。人間程度に降ろされ、人工物に縛られるモノなぞ、神格の低いモノだけぞ」
瘴気の濃さが増した。小馬鹿にしたような言い草に怒り心頭なのだろう。
しかし湊のメモ帳、山神の周囲にその瘴気が届くことはない。
山神が湊を見上げる。
「どうする。消し去るか」
湊が躊躇する。
「この元神様が怒ってるのは、大事にされなかったからだよね」
「なぜ、そう思う」
「この錆びつき具合を見れば、嫌でもわかるよ。人に大切にされて祀ってあれば、こうはならないだろ」
よくぞここまで放置できたものだと憤りさえ覚えた。
「神降ろしは、神様の承諾は必要?」
「いや、無理やりだ」
湊の力は祓う力だ。いい換えれば、祓うしか、無に帰すしかできない。そこに救いはない。
己の力を遣い、消し去りたくはなかった。
あんまりだろう。どれだけ人間の都合に振り回されなければならないのか。尊い神霊という存在であったのに。
「我を降ろしてくれ」
いわれるまま地に降ろすと、スタスタと気負いもなく、盛り土に近づいていく。途中煩わしげに、向かってくる瘴気を視線だけで祓いつつ、剣のそばへ。山神の目線よりやや高い位置の剣がグラグラゆれている。
「我も他神の面倒をみるのは初になるゆえ、どうなるかわからぬが、今よりはマシであろう」
「……え、不安しかない」
山神が前足を振りかぶる。今度は狙いを外してくれるなと湊は内心で声援を送った。
無事その小さき前足がちょんと剣に触れる。あたりにまばゆい光が広がった。温度さえ伴う、真昼間の太陽もかくやの明るさ。咄嗟に両目をつぶった湊が、顔を背ける。
ほどなくして明度が下がり、目を開けた時には、すべて終わっていた。剣がない。よく見れば、土と一体化してしまったようだ。
神霊はどうなったのだろうか。
尋ねようとした時、山神が振り返った。
「よいぞ」
「……あ、うん。ん? よい?」
「急がねば、この空間は消滅しよう」
ハッと湊が気づく。直後、足場がゆれ、天井と土壁に歪みが生じた。
「緊張感ないから、忘れてたッ!」
語尾を強めざま、片腕を振り抜き、風を放つ。数多の小刃と化した風が前方の土壁を四方から斬りかかる。
だがしかし、やはり神による特殊な領域は頑強だった。かすりキズ一つつかない。つけられない。
次々に繰り出しても、弾かれ、砕け散った。
負けじと、風を放ち続ける。その色は翡翠。
蒼が乗っていない、神威は入っていない。
「荒い。乱暴がすぎよう」
「つい!」
縮まっていく空間。押し寄せる圧迫感。覚えのある感覚に、焦りが募る。風の威力は上がれど、小刃の色は変わらなかった。
グラつく足場ながらも、のんびり鎮座して待つ山神がちらりと湊の背中を見やった。
「神威入りの風を放ったのは、つい先日のことであろう。もう忘れたのか。大事なクスノキを斬り刻んだというのに」
ため息交じりの物言いに失望がにじむ。瞬時に、湊の頭が冷えた。
いったん風を止め、目を閉ざし、一度大きく深呼吸する。その身体はグラついていても、見る間に神域が狭まってきていても。
ただの風では、無意味だ。思い出せ、あの時の感覚を、クスノキを斬った時の神威の入れ方を。
開かれた瞼の奥からオリーブの瞳が現れる。
先までのブレはない、静謐なゆるぎない焔を宿していた。
そして繰り出された風の刃。一回り大きくなったその色は、うっすら蒼を帯びていた。数を増すごとに、蒼みも増していく。
土壁にわずかな斬り込みが入った。湊が腕を下方から振り抜く。今までよりも、大きさも色味の強い風の刃が放たれ、床、土壁を逆袈裟斬りで斬り裂いた。
一筋の光が差す。
そこを目がけ、いくつもの風刃を向けると、明かりが広がっていく。縦の光を受けた山神が両眼を細めた。
ふたりが通るのに申し分ない程度に虚空があいた。
「……うむ、よかろう。では参ろうぞ」
「……はい」
肩で荒い呼吸を繰り返す湊を従え、山神が界をまたいだ。
◇
時同じくして、湊たちのいるすぐ近場で、相変わらずの悪霊祭りに躍らされている者たちがいた。
そう、陰陽師一派である。
播磨一族、総勢五名。廃墟と化したアパートからぞろぞろと列になって出てきた。
花の乙女たちが気の毒なほど憔悴している。もう化粧ではごまかせないくらい、肌も髪も荒れに荒れ、服装もよれよれ。荒みきった、その足並みも非常に危うい。
「……ねぇ、この地獄はいつ終わるの? もしかして永遠に終わらないの? 私はもう二度と南の島には旅立てないの……?」
「毎年春が終われば、終わっているでしょう。それからなら好きなだけ渡航できますわよ」
「やだやだやだ、どこもかしこもきったないったらないわ。……汚いから悪霊も湧くのよ。もういっそ建物ごと壊しちゃえばいいと思わない? そうよ、そうすれば、心置きなくお風呂に入れるわ。ねぇ、誰かダイナマイト持ってきて」
「しっかりして。今日は帰りに温泉にいきましょうか」
「……あったかいご飯……食べたい」
「もちろん、あたたかくて美味しいお食事も頂いて帰りましょうね」
泣き言を漏らす血縁者たちを引率するのは、一番歳下の藤乃である。
最後に建物から黒一点である才賀が出てきた。
こちらも、雷神の気遣いによっていったん完全回復したものの、また疲労がぶり返していた。
『破壊すべし』の提案には、完全同意しかない。
できることなら、ダイナマイトの起爆スイッチは己が押したいと才賀は思う。
建物内の除霊は終えても、まだ敷地外が残っている。
さらには、近場の不法投棄場所にも赴かねばならない。疲労しきった親族でまだまだこなさなければならない。
ほかにいないのだから。
そのはずだったのだけれども――。
敷地外を覆っていた瘴気がみるみる晴れていく。
黒い霧状のモノが端から、逃げるように空へと広がる。
しかしその速度は遅すぎた。圧倒的光の塊によって滅ぼされていった。もはや蹂躙だった。
その情け容赦ない光の色は、翡翠。見慣れた色だ。
親族の三人が目を丸くし、ぽかんと口も開けた。
が、速攻で目を閉じ、両手で覆い、顔も背ける。
「今の色は、翡翠色! そこに、ひ、翡翠の方がいらっしゃるの!?」
「ま、まぶしすぎて目を開けてられない! あの光の塊って翡翠の方でしょう!? み、見えないっ、目がぁっ」
「目が痛いっ、や、やだ、ご、ご本人様が見えないっ!」
じたばたと大騒ぎである。
彼女たちが一目お会いしたかった方は、想像以上にまばゆかった。光の権化だった。
楠木湊は、ただ道を歩いているだけである。
けれども彼女たちは、神を見通せる目を持つがゆえに、メモ帳から放たれる光が視えすぎていた。
湊の足元に、翡翠色を凌駕する黄金が在るせいでもあった。おかげで彼女たちの視界は二色の光で埋め尽くされていた。
才賀にもその光景は視えているものの、親族たちほどではない。
「あちらの方が翡翠の方……そして山神様なのですね……」
いつの間にかサングラスを装着していた藤乃がつぶやいた。我が妹ながら、とことん抜け目がないと才賀が感心する。
藤乃は並外れて目が優れているため、日頃からサングラスを携帯している。
気の抜けた才賀がぼんやりと湊を眺めやる。
その足取りは遅く、猫背気味なのは疲れているのだろうか。珍しいなと思いながら、眼鏡を押し上げた。




