30 いざゆかん、風神のもとへ
回想を終えた湊は、手のひらをじっと見下ろした。
「あの時は意識しないと風を出せなかったけど、いまじゃ、呼吸するのと変わらないくらい自然に出せるからな」
自身でも成長を感じた。風の扱いはほぼ会得できたのではなかろうか。
しかし湊は手を固く握りしめ、強く自身を戒めた。
「――気をつけないと」
外界――人前では決して、遣わないようにしなければならない。
鳳凰が捕らわれた折、怒りのあまり我を忘れ、人に対して風を行使してしまった。その時、暴風も吹き荒れたが、周囲に被害は出なかった。
それは、風神が力を調整してくれたからだ。
運がよかっただけに過ぎない。
なぜなら神は、人間と時間感覚が異なるからだ。いったん眠ってしまえば、数日あるいは数年、数百年と寝続けるものである。
たまたま風神が起きていたからこそ、気を遣ってもらえたのだろう。
「次はないかもしれないし」
胸に手のひらを当て、風の力の源を意識する。
ふと思った。
「源とはいっても、ここから力が湧くっていうのもなんか違うんだよね……」
枯渇どころか、減るという感覚すらない。
魔法だの魔術だのそういう系統の力には、たいがい容量があるものだろう。霊力も同様らしいのだが、この力は違う。
いずこからか脈々と力が流れてくるような感じがするのだ。
「紛れもなく、風神様だろうけど」
その力の根源たる風神は、自身の力を与えたために湊がどこにいてもわかるという。
「これといって意識をしたことはなかったけど、逆に言えば、俺からも風神様の居場所がわかるってことか……」
風神様は今、いずこに。
ちょっとした好奇心から、胸に意識を集中させてみた。
背中から細く長い、糸めいたモノが伸びている。
と気づいた時、上空に風の精の気配を感じた。
かなり多いと思った直後、ちりーん! と風鈴が警鐘をかき鳴らし、珍しく声を発した。
『敵襲でござる!』
その声が終わるやいなや、冷たく重い風が吹き下ろしてきた。面で叩きつけてくるそれは、地面に当たると四方へ広がる。
まさにダウンバースト。それを発生させる積乱雲もないというのに。
屋根の上に一列縦隊を組んだ風の精が、口で吹いているからだ。
風の精はいたずら好きである。
このあたりを通る際に毎度、あいさつ代わりに風をお届けしてくる。迷惑なことだ。
もちろん、ただされるがままなはずもない。
即座に湊も風を吹き上げ、対抗する。風は軒下の位置でぶつかり合い、せめぎ合う。やや押され気味である。
湊は手をかざしたまま、叫んだ。
「今日は、ちょっと強すぎでは!?」
風の精がどんどん増えるせいだ。
数体がこれをやりはじめると遊んでいると思うらしく、わざわざ遠くから馳せ参じ、参加するモノが後を絶たないのだ。
クスノキの樹冠も前後左右へ傾いているが、葉は一枚たりとも飛んでいかない。
涼しい顔をして、爆風を受け流している。頼もしい限りである。
ともあれ、いい加減疲れてきた。
渾身の風を放つと、風の精にとってはそよ風程度なのか、ケラケラ笑って風の渦に巻かれている。
「キリがないよ……」
笑い声がする所を恨めしげに見やると、うっすらその姿が浮かび上がってきた。
「うわー、視えちゃったよ。――楽しそうだ」
回転して遊ぶ風の精たちが確認できた。
人型なのも驚きであったが、何より――。
「風神様をちいさくしたみたいだ」
とはいえ風神は、外見に反して子どもらしく喜怒哀楽をあらわにすることはない。
加えて、人の噂話を勝手に届けてくれることもないのだけれども。
風の精は今日も耳元で、商店街で耳にした湊に関する話を嬉々として話してくれる。
『あのお、すみません、ちょっとお伺いしたいんですけど。鳥遣いさんっていう人は、何時くらいにくるんですか?』
『なんだいアンタ、わざわざよそから来た野次馬か? 残念だったな、鳥遣いさんは休日はこねぇんだよ』
『ねぇねぇ、おかあさん。なんであのノラネコちゃんはずっと商店街の入り口に座ってるの?』
『たぶん仲のいい鳥遣いさんを待ってるんだろうね。健気だねぇ』
やけに期待されているようだ。
どういう顔をしたらいいかわからず、湊は口をムズつかせた。
「悪口じゃないだけよしとすべきなのか」
正直、知りたくない情報の時もある。かといって、情報自体をいりませんともいえない。
風の精に悪気はないのはわかっているうえ、いま、その表情も視えてしまった。
得意げな顔をしている。
『どう? わたし、ヤクに立つでしょ!』
と言って、二の腕を鉄棒代わりに回る。
「まあ、うん、ありがとう」
礼を言うと、ぴたりと動きを止めた風の精が弾けるように笑った。赤く色づく顔から高揚しているのは明らかだ。
幼い子どもそのものである。そう痛感していると、風の精は山の方へと飛んでいってしまった。
その代わりのように、一陣の風に乗った二体がやってくる。
他の精霊と外見がやや異なっていた。
額に小さなツノをもつ小鬼という外見は同じだが、肌の色が濃く、顔に隈取りもある。腰に小さな風袋も持っていた。
いつもちょっかいをかけてくる二体だろう。
「北風と南風だよね」
勝手につけていた名で呼びかけると、二体は周囲をくるりと一周回った。
『そうだぞ~』
『ようやく視えるようになったかー』
高らかな笑い声をあげるその様は、やけにうれしそうだ。
この二体は受け答えに難がない。他の精霊と比べて知能が高いのだろう。
ふいに頭の両側に静止した二体は、突如、凄まじい音を口から発した。
『ガガガガ、ガッキン、ゴッツン!』
激しく衝突する甲高い金属音。
『バッチ〜ン、ドッカーン!』
肉体同士がぶつかり合うような打撃音。
どう聞いても戦いの音にしか思えず、湊は息を呑んだ。
誰だ。
誰が戦っている。
より耳をすませて、わかった。
神同士だ。
音の中に、山神が天狐や伊吹と戯れた時と同じ、やや変わった音が交じっている。
神々は、ただその身を動かすだけで音を発するものだ。
それは声や神気と同じで、固有のモノなのだと湊も判別できるようになった。
山神であれば、しゃらしゃらと硬めの布がこすれる音。
天狐であれば、雨だれの音。
そして風神ならば、渦を巻く風の音。
いま風の精が口で真似する音の中に、その風神の音が入っている。もう一つ、鼓膜をひっかくような方の音は一度も耳にしたことはない。
つまり、風神と見知らぬ神が戦っているということだ。
風神と雷神は強い。
そのせいで、好戦的な神に戦いを挑まれることが多いという。かのスサノオも風神と出会うたび、挑むとも聞いている。それはともかく。
「いったいどこで戦っているんだろう……」
気になるところはそこだ。
応えるように南風が、唸る風音、葉擦れの音、地面をバウンドして転がる音を出した。
「現世……?」
もしそうであるならば、これだけ激しい神々の戦いなら、甚大な被害が出ていてもおかしくはあるまい。
最悪の事態が頭をよぎり、顔を強張らせると、北風が極めつけに人々の悲鳴を発した。
「現世じゃないか! なにをなさっているんだ……!」
確定である。
風神が負けるなど万に一つもなかろうが、人間たちに頓着はしないだろう。
音を出すのをやめた二体と、向き直る。
「神様たちが戦っている場所はどこ? この国じゃないよね」
人々の言語が異なっていたからだ。叫び声で、あまりよく聞き取れなかったが、他国なのは間違いない。
だが、それがなんだ。
言葉が違う、肌の色が違う、目の色が違う。
どうでもいいことだ。同じ人間であり、同族だ。
とはいえ、いかにして外国へ駆けつければいいというのか。
『任せとけ~』
『われらが連れていってやるぞー!』
南風が腰の風袋を空へ放り投げた。
湊の頭上で方形に開き、二体が端を持つ。
ばさりと頭からかぶせられ、視界が真白に染まった。袋の端々が地面についた途端、ふっと足元が軽くなったのであった。
布お化けと化した湊ともども、南風と北風がかき消えた。
あとには、見分けのつかない無数の風の精だけが残された。ハイタッチしたり、手をつないで回転したりしながら、三々五々に四方へと散っていく。
ひゅるりとイチョウの葉が舞い上がったあと、庭は無風になった。
ちり~ん。
風鈴の音だけが敷地内に鳴り渡る。
その音はいつも通りだ。微動だにしないクスノキも、感情を荒立てる様子もない。
湊は連れ去られたわけではなく、自らの意志で出向いていったのだから――。




