29 あの頃、湊は未熟であった
その日、湊は珍しく庭で一人であった。
威風堂々たるクスノキと、その枝にぶら下がる風鈴もいるがそれはさておき。
世間では、膨らんだ稲の周囲でスズメやバッタが飛び、夕方以降はコオロギも鳴く。そんな風に、日に日に秋の色が濃くなってきたが、神の庭はいつもと変わらない。
落ち葉を一心に掃いていると、汗ばんでくるほどの陽気である。
湊は塀沿いで箒を動かしつつ、渡り廊下を見やった。
その両脇に並び立つイチョウは、半分ほど黄色に色づいている。
「いい色。いかにも秋色って感じ」
応えてくれたのかはわからぬが、イチョウから音もなく葉が舞い落ちる。廊下と池に触れた途端、淡雪のように消えてしまった。
「ホント、不思議仕様だね。楽でいいけど」
おかげで廊下の掃き掃除はいらない。
むろん通常の木はそうはいかないのだけれども。
敷地外の木の枝が庭へ張り出してきていた。木としても、好きに枝を伸ばしたいことだろう。
わかってはいるが、庭の景観を守らねばならぬゆえ、処理するしかない。
「ごめんね」
ひと言断りをいれ、風で枝を飛ばした。
むやみやたらではなく、小さな風の刃で鋭角な切り口になるように。
立て続けに放つ風の刃は、人差し指の第二関節を曲げるのみで放てる。同時に反対の手から風の塊を送り、枝を敷地外へ送った。回収はあとからまとめて行えばいい。
「我ながら横着だと思うけど……」
風がことのほか便利というのもあるが、腕を鈍らせないためには、日常的に遣うに越したことはないからだ。
おかげで、風の威力や温度の異なる風も両手から一緒に出せるようにもなった。
湊は切断した枝から飛散する葉を空へ舞い上げ、一回転させる。
「――最初は全然こんなことできなかったのになぁ」
しみじみとつぶやき、湊は過去へと思いを馳せた。
それは、風神から力を与えられた翌日のことだ。
昨日、少しだけだが風を出せたにもかかわらず、一夜明けたらまったく出せなくなっていた。
縁側に座した湊は、両の手のひらをじっと見た。
「なんで出ないんだろう……」
「さてな」
背後で横臥する山神はそっけない。
くわりと大あくびをし、組んだ前足に顎を乗せた。
いかにも気がなさそうな態度に見えるが、その視線はこちらから一切逸れない。
しかと観察されている。
それを背中で痛いほど感じるため、緊張もしていた。
しかしそんなことで、できないなどと弱音を吐くわけにはいかない。だいいち昨日できたのなら、できないはずはなかろう。
「昨日はどうやったっけ? こう? 手を振ってだったかな?」
なにせ無我夢中だったうえ、風神の風遣いを見てまもなくだったこともあり、さほど時間もかからず風が出せたのだ。
「風神様みたいにやればいいんだよな……」
指先一つで風を操っていた、かの神の風遣いを思い浮かべる。
指先だけでなく、手そのものに力を込めると、甲に筋が浮き、指も無駄に曲がった。
そんな風にあれこれ模索している間、山神はひと言も助言はくれない。
山神はもとより、率先してものを教えるタイプではない。その者が、自身で気づくことをただ見守るだけだ。
それに不満はない。
山神は神であって、師ではないのだから。
そのうえ、悠久を生きるモノゆえか、気が長いのだ。
湊が奮闘をはじめて一時間以上経つが、最初から片時も離れずそばにいてくれている。それだけでもありがたいことだ。
なにせこの力は、得体の知れないモノだ。
監視であろうとただの興味本位であろうと、心強かった。
と思っていると、背中の一点に強い圧を感じた。
山神がみている。
胸のあたりだ。
風神から力を与えられた時、一瞬だけ熱を帯びた場所であった。
湊は顎を引き、真下を見やった。おそらく心臓の位置だろう。
そこに意識を向けてみた。
「なにかある。――ような気がする。これなんだろう? 気のせいかな」
「己が感覚を信じるがよい」
「うん……」
はっきりとはわからない。
まずはあると仮定すればいいのではないだろうか。胸に手のひらを当て、しばらく呼吸を整え、意識を集中する。
「――あ、やっぱりなにかある」
じんわりと熱を感じた。
その熱を移動させてみよう。
湊は想像を膨らませ、熱を小さな塊と見なした。
それを心臓部から胸を通って肩、二の腕、前腕をへて、手のひらへ流してみる。
ぶわっと風が吹き出し、前髪がはね上がった。
「出た! ちょっと勢いがありすぎたけど!」
「うむ、よき」
喜びをあらわにすると、山神も幾度も頷いてくれた。
「この方法でいいんだ」
「左様、間違っておらぬ」
力強く言われ、気持ちが上向いた。
いまさらながら、この力は魔法みたいだと思う。漫画やアニメ、ゲームなどで当たり前に行使されるそんな力と同じことが、現実にできるのだ。
「じゃあ、俺にも空気銃みたいなことができるってことかな……?」
できたとしたら恐るべき武器となるだろう。
積極的に使いたいとは思わないが、いざという時、役立つのではあるまいか。
やってみようと意気込んだものの、風の吹き出し量の調整がうまくいかない。
「うーん、弱い。――今度は強すぎる!」
前髪がややなびく程度の次は、オールバックになった。
「なにゆえ、己が顔面に向けて風を放つのか」
山神に呆れられ、湊はようやく手を下ろした。
「こうすれば、風の出具合がダイレクトにわかるからね」
「だいれくと?」
横文字に疎い山神がたどたどしく複唱し、視線を流してくる。
意味はなんぞ、と暗に問うてきた。
「モロに、直接」
意味を理解した山神は、すぐさま使用したがる。
「うむ。かようにだいれくとに風を浴びては、思う様風を放てまいよ」
「それもそうだね。結構、おっかなびっくりだったかも……」
湊は腕を伸ばし、手のひらを地面へ向けた。
そして風を出すと、今度は強すぎた。
「うわっ」
地面で反発した風で腕が上がり、出続けている強風がクスノキへと向かう。
このままでは、幼いクスノキが倒れてしまう、いや下手をすれば折れかねない。
青ざめた湊は、腰を浮かせた。
が、風はクスノキに届く寸前で何かに阻まれ、四方へ散ってしまった。
のんきに自ら若葉をゆらすクスノキを見て、「よ、よかった」と湊はため息とともに座り直した。
振り返ると、山神が前足から顔を上げていた。
ついと鼻先を横へ流す仕草から、山神が風を消してくれたのだと知れた。
立ち上がって、深々と一礼する。
「山神さん、ありがとうございました」
「なあに、礼には及ばぬ」
殿様気質の山神は、尻尾をゆらめかせながら鷹揚に応えた。顔を上げると、真正面から見つめてくる。
「おぬしは、まだまだ初心者である。風の扱いが拙いのはしごく当然ぞ。暴走するようならば、我がいかようにでもしてやるゆえ、好きに風をぶっぱなすがよい」
とっても頼もしいことを言ってくれたが、今しがたかいた冷や汗の感覚がすぐさま忘れられるはずもない。
「とりあえず、風の調整をできるように頑張るよ」
もっと少なくしないと。
周りにも迷惑をかけないようにしないと。
そう自身に言い聞かせて励んだ結果、手のひらから微風を出し続けることに成功した。
「これはいい……! ドライヤー代わりになりそうだ」
ふわふわと髪を膨らませていると、山神が半眼で見てきた。
「神の力をかように遣うか……。まあ、おぬしがよいならよかろうて」
呆れているようだが、口にはしないらしい。笑っていると、山神が後方へちらちら視線をやる。
「疲れたであろう。そろそろ休まぬのか」
クスノキを見ると、その木陰が長くなっていた。
「あ、結構、時間が経っていたんだね」
「左様。はなから根を詰めすぎるのもいかがなものか。適度に休憩は取るべきぞ」
言われて意識すると、身体が重だるい。手と腕が特に。
気がついてしまうと、どっと疲れを感じた。
「――そうだね、ちゃんと休むことにするよ。甘い物をとるのもいいかもね」
山神の尻尾が盛大に振られるのは、期待からだろう。
キッチンカウンターにある本日用のおやつは、むろん山神の好物である、こし餡だ。
山神は口に出して要求はしない。だが、態度で求めてくる。
そんな妙にわかりやすい人ならざるモノがおかしくて、口角を上げたまま湊は腰を上げた。
「じゃあ、午後のお茶にしますか」
「うむ!」
やけに活きのいい山神の声が、庭にこだました。




