26 神界へどんぶらこ
いってらっしゃ~い、と豪華メンバーに見送られ、いざ水の橋を渡る。
「なぜ上れるのか……」
湊は遠い目になった。
櫓を動かさずとも、舟は勝手に前進し、あげく舟先が上を向く。とっさに屈み、舟のへりをつかんだ。
「細かいことは気にするでないぞ」
軽い口調で言う山神は、ゆるぎなく舟を踏みしめたままだ。山神が舟を操っているのであろうから、その言葉通り気にしなくてもよいだろう。
とはいえ、やはり緊張する。
舟が平行になった途端、湊は魂が離れないよう腕を交差させ、己が身を抱きしめた。
山神は振り返ることもなく、喉を震わせて笑う。
「かような真似をしても、無駄ぞ。離れる時は容赦なく離れてゆくわ」
「そうかもしれないけど、気持ち的にどうしてもね……」
話している間も舟は順調に進み、塀にぽっかり空いた丸い穴へと吸い込まれるように入った。
「うわっ、真っ暗だ」
後方の庭の明るさが届かないそこは、闇夜のようだ。
そのうえやけに寒く、鳥肌が立つ。
春の陽気から一転、冬の朝に変わったような気温であった。
「恐ろしければ、目をつぶっておくがよい」
山神の威厳のある声もまったく響かない。
音が闇に吸収されていくようで、湊は肝を冷やしながらも、軽く首を振った。
「いや、ちゃんと見ておくよ」
「おぬしはいつもそうであるな。好奇心は持ち合わせていないのかと思えば、そうでもない」
「せっかくだから、という気持ちが強いかな。普通に生きていて、まず体験できないことばかりだから」
「うむ、たしかにそうであろうな」
山神はそれ以上、止めることはなかった。
ふいにその後ろ姿が見えづらくなった。
振り返ると、入ってきた穴が閉じかけている。自ずと前へ這い寄り、山神にしがみついた。
「――あの、山神さん、ここが神界なの?」
こんな何もない所が神界ならば、拍子抜けというより、落胆が大きい。
「否、まだ神界ではない。そこへ通じる道である」
「そんなものがあるんだね――」
ぞわりと背中が粟立ち、言葉を切った。
視線だ。強烈な視線を感じる。
すばやく四方を見渡すも、気配はない。
「誰に見られているんだろう……」
「案ずるな。境の神である」
予想外の存在に、「おお」と無意識に感嘆の声が出た。
神ならば、やはり上から見ておられるのだろうかと、見上げるも、墨で覆われたような黒色しかない。
「――なんかどうも観察されているような感じがするんだけど」
「左様、それがやつの役目ゆえ。が、我がともにおるゆえ、文句なぞ云うてくるはずもない」
いつも通りの不遜な声がその身を通しても伝わってくる。
そのぬくもりと普段通りの山神に安堵していると、突然、前方に光の穴が見えた。
豆粒サイズとはいえ、希望の光のように感じられて、目が離せなくなった。
「山神さん、あそこから先が神界?」
「左様」
舟は水を切って、滑らかにその穴へと直進する。
近づくにつれ、あまりのまばゆさに目を開けていられなくなった。
やがて光とあたたかさに包まれる。
「ほれ、神界ぞ」
山神の明るい声にそろりと目を開けた。
そこは川の真ん中であった。
ゆるやかな蛇行を描く川は果てしなく続き、山間へとのびている。川幅は広く、両岸の土手から上が見えないのは、小人になったゆえだろう。
舟の下側をのぞくと、水の透明度が高く底まで見えた。
空気も清浄で、静かだ。
神の気配はおろか、生き物の気配すらしない。
何かしら生き物はいないのかと、舟のヘリから頭部を出し気味に眺めていると、舟が岸へと流されはじめた。
尻尾を振った山神が、叱咤してくる。
「ほれ、いつまでぼんやり眺めておる。櫓を漕がぬか」
はいよ、と素直に離れ、立ち上がって櫓を握った。
「これはちょっと扱いにくいな。櫓腕が太すぎたかも」
両腕を引き寄せ、伸ばして返す。また引いては返す。
「うわ、結構な全身運動だなこれ」
「なれど、まっすぐ進めておらぬぞ」
山神は苦情というより、からかってきた。
「しょうがないよ。俺、初心者なんだから」
「まあ、この舟に乗るのは、櫓の扱いになれたモノゆえよかろうて」
「そうだね……。でもこのままでは渡せないよ。もう少し、舟体と櫓も改良しようと思う」
「うむ、納得のいくまで弄り回すがよい。ともあれ、いまのところ水漏れもなさそうぞ」
山神は舟底を眺めている。湊も同じように確認する余裕はなかった。
舟が岸に引き寄せられるからだ。
櫓はしかと漕いでいるのだが、舟体は思うように動いてくれない。
「全然まっすぐ進まないっ。櫓は、難しすぎる!」
「昔の漁師らの中には、片手一本で扱う者もおったぞ」
「それはすごい」
感心しつつ、試行錯誤しているうちに、なんとか川の真ん中へ戻れた。
「いい感じ、慣れてきたっぽい」
「うむ、よき」
風に体毛をなびかせる山神は機嫌がいい。
湊もようやく景色を楽しむ余裕ができた。
きぃきぃと断続的に鳴る櫓の音と、舟に当たる水音しかしない。はるか頭上の紺碧の空には刷毛で引いたような雲が流れ、Ⅴ字編隊を組んだ鳥が飛んでいる。
生き物はいるようだ。
そうすれば、現世となんら変わらないように思えてきた。
ここが神界とは信じられなくなってくる。
川を下るにつれ、土手が低くなっていった。
川に枝葉を伸ばす並木の向こうは、草原が果てなく続いているようだ。
ただ並木の間に時折現れる、こんもりとした土盛りが気になった。
「山神さん、あの土のかまくらみたいなモノはなに? 家っぽい気がするんだけど」
「左様、まさに家である。神が住んでおる」
「それはそれは……」
のっぺりとした表面に、出入口はなさそうだ。反対側にあるのかもしれない。
ともあれ、とうてい人型の神が住んでいるようには見えない。好奇心はあれど、あまり見つめない方がいいだろう。
なにせ、相手は神である。
おそらくこちらの気配にも気がついているに違いない。
湊はただ川の先を見ながら、櫓を漕いだ。いたずらに髪や頬をなでていく風もあたたかかった。
「櫓もいいけど、やっぱり舟は、帆があった方がいいよね」
「風任せで楽であるからな」
「そうそう。風が吹かないことには話にならないけど」
いまなら、自身で起こせるから自在に動かせるかもしれない。と思いつつ、以前つくった舟が頭をよぎった。
「前の舟は、元気に航海できているかな」
「うむ、常に順風満帆であろうよ」
「だといいけど」
「四霊の加護付きぞ。逆風など吹くはずがない」
訳知り顔で言った山神が鼻を天へと向けた。すんと一度深く嗅ぎ、視線を流してきた。
「ほれ、我が云うた通りぞ。見るがよい、応龍丸の勇姿を」
山神の鼻先が向いた方は、川の合流地点であった。そこへと流れ込む川の流れに乗る一艘の舟があった。
大きく風をはらむその帆が、燦然と輝いている。
青みを帯びた銀色は、応龍の色だ。
「本当だ、追い風に吹かれてる……!」
風は正面から吹いている。
にもかかわらず、その帆だけが、後方から風を受けているようにしか見えない摩訶不思議な仕様となっていた。
とはいえ、それは乗船している神々のおかげなのかもしれない。
舟には、三柱の姿があった。
煌びやかな和服をまとう、女神たちの黒髪がたなびいている。顔を見合わせ、華やぐ三柱の乗った舟と合流地点で隣り合った。
「方丈殿、お久しぶりです~」
真ん中の女神が山神にあいさつをすると、他の二神も同じ言葉を口にする。
そして一斉に湊を見た。
「はじめまして、船大工さん」
と真ん中の女神が笑いかけてきた。
「イチキシマヒメ、この者は舟づくりの専門家ではないぞ」
山神がいったその名は、先ほどえびす神も言っていた名であった。




