25 福の神々に見送られて
ついっと竹竿がしなると、山側の塀に丸い穴が空く。次に竿先で水面をちょんちょんと叩くと、さざ波がたった。
一番波が大池の端に達すると、水が帯状に浮き上がり、塀の穴へと流れた。
ゆるやかな弧を描く水の橋のできあがり。
湊は思わず手を止め、まじまじと見た。水の橋も驚きだが、何より穴の中だ。
真っ暗である。真の闇だ。
あれが神界なのかと呆然としていると、大きな手に視界を遮られた。
「よし、無事神界とつながったぞ。ほな、いこか」
ひょいとえびす神が舟ごと持ち上げた。
「うわ!」
ぐらつき、舟のヘリにつかまる。
「おっと、すまんすまん」
と詫びたえびす神は平行にもち、丁寧に水面に浮かべてくれた。
多少左右にゆれるも、すぐに安定する。
「ちゃんと浮いてる……!」
まずそこに感動した。カエンたちにつくった小舟も問題なく浮かんでいたし、彼らが漕いで遊ぶのも見ている。
が、やはり身をもって知るのは、格別であった。
櫓を漕ぐと、やや前進する。
えびす神が機嫌よさそうに笑う。
「ええね、ええね。これで神界にもいけそうや」
やはりいくのは確定らしい。
覚悟を決めた湊が櫓を握る手に力を込めた時、にこやかに笑みを浮かべていた大黒天が、あごひげを引いた。
「けどあれじゃないか、見送りが儂ら太ったおっさんらだけでは、寂しいだろう」
「せやね。なら、べっぴんさんらを喚んだろか。ちょお待っとき」
えびす神がパンと柏手を打ち、竜宮門の方へ向かい、念じはじめた。
『鯛や……。あれ、鯛? おーい、鯛ちゃ〜ん!』
念話で話しかけているようだが、応えてくれないようだ。
苛立ったのか、えびす神は糸目をかっぴらいた。
『おい鯛ッ、返事をせぇ! ――なんや、ご馳走に夢中やったんか……。ごめんやけど、ひと泳ぎしてべっぴんさんら呼んできてくれんか』
よしよしと、えびす神が満足げな息を吐いた。
しばらくして、大池の一角が七色に光り輝いた。
ざばりと水面から宝冠が載った人型の頭が出てきた。そのまま上昇し、全身があらわになる。
貴人服に、天衣をまとい、琵琶も抱えている。
水も滴るいい女なのだが、白皙の美貌を朱に染め、酒気をまき散らしている。酔っぱらいなのは疑いようもない。
天衣や服の裾からタイやヒラメを落としつつ、よたよたと水面を歩き、クスノキの部屋を目指していく。その余波に翻弄される舟の上で、湊は必死である。
そんななか、えびす神が訝しげに女性に問うた。
「――弁財天、ひとりか?」
「そうですけどお〜?」
「乙姫さんはどうしたん」
「いまちょっと手が離せないみたいよ〜?」
「ほんなら、イチキシマヒメかタギツヒメかタギリヒメを連れて来たらよかったやん」
かなりの有名神を呼ぼうとしてくれたようだが、結局のところ、来てくれたのは弁財天のみらしい。
そんな唯一の綺麗どころは、えびす神に非難がましく言われたせいか、クスノキの部屋に踏み込んだとたん怒気を発した。
裾が舞い上がった衣装は即座に乾き、眉のつり上がった憤怒の相は一つ位が上の明王のごとく。
「なによ、私だけじゃあ不満だとでも?」
ビビンッとバチで琵琶をかき鳴らし、宝冠から水鉄砲をぶっぱなす。それをモロに食らったのは、えびす神のみであった。
烏帽子をむしりとり、えびす神はキッと湊を見やった。
「どや!? ごっついべっぴんさんやろ!?」
「ですねー! とびっきり美しい女神様でむちゃくちゃうれしいです!」
楠木湊、空気は読めます。
ハキハキと答えると、パアッと弁財天は光を発し、片頬を押さえて笑顔になった。
「そうお? ありがと。さんざん言われるから慣れてるけどうれしいわぁ〜」
お気に召してくれたのか、弁財天が琵琶の演奏をはじめた。
その妙なる調べに誘われたのか、竜宮門からぞくぞくとやってきたイカやタコが宙を踊る。
それを背後に、にこやかなえびす神と大黒天が同時に送る言葉をくれた。
「なら、気をつけて神界へいっといでぇ~」
「しっかり舟の出来を確かめてくるといい」
「ちと待て」
山神の制止の声は、やけに響いた。
弁財天の演奏が止まり、魚たちもダンスをやめた。
唐突に訪れた静寂のなか、大狼が身を起こす。鎮座し、他神を見下ろした。
「ぬしら正気になれ。ぬしらが神界に送ろうとしておるのは、生身の人間ぞ」
「あっ」
えびす神、大黒天、弁財天が同時に短音を発し、焦り出した。
「せ、せやったな。小さくしても人身は人身やったな。こりゃあかんわ」
「やってもうた。このまま送ったら、魂が飛び出るところだったわ。いやはや、うっかりうっかり」
「や、やだ、殺しちゃうところだったわね」
うっかりで殺されそうになったのだ。
舟に乗ったまま、湊は身震いした。
舟に夢中で湊もド忘れしていたが、神界には、魂の容れ物である肉体をともなってはいけないのである。いくとするならば、魂のみとなっていくしかない。
通常、それは死を意味する。
それを回避する術があるにはあるのだが、播磨家のような特殊な家にしか伝わっていない。
湊が恨めしげに見上げると、床の上から山神が顔を出した。
「おぬしの身のままでは、神界へはいけぬぞ」
「――そうだったね。まあ別に、この池の中だけでいいよ」
なにがなんでも神界にいきたいわけでもない。
が、山神は自信ありげに言った。
「なあに、案ずるな。我がともにいけば、問題ない」
その頭部がくいっと上がると、見る間に体が縮んでいく。そうして、床から跳んだ。
とんと身軽に乗船してきたその身は、小人となった湊よりも小さい。頭部の位置が膝ほどしかなかった。
「中型犬くらいかな?」
「舟のさいずに合わせたのよ」
むろん山神自身が窮屈ゆえだろう。
とはいえ、中型犬サイズでもその体毛は輝かしい。
そのうえ、「ぬん!」と気合が入ると、満身から金の粒子が放たれた。それが湊、さらに舟をも丸く覆い、風が吹こうと流れてもいかない。
つかめるようでつかめない金の粒を軽く手でそよぎつつ、湊は訊いた。
「山神さん、これはなに?」
「神域の簡易版である。この中にいる限り、おぬしの魂がその身から離れることはない」
「おお、ありがとうございます」
「うむ、ゆえにこの中から決して出ぬことよ」
「――気をつけます」
果たして、そこまでして神界へ行かねばならないのだろうか。
まったくもって納得できないが、そわそわと足踏みする狼を見てしまえば、口に出すのは気が引けた。
乗り物好きの山神は、いく気まんまんである。
「ならば参ろうぞ」
と言って身を翻した山神は、堂々と舟先に立った。
「いざゆかん、神界へ!」




