21 山神、仕事中の湊をとくと観察する
クスノキにぶら下がる風鈴が軽やかに音を奏でた。
その音が広がる大池で霊亀と応龍がのんびり泳ぎ、扇状に広がる二つの波紋がぶつかるのを縁側で、伏せた麒麟が眺めている。その上――屋根の上を歩む鳳凰は、時折、むずがるように羽を広げた。
新しい景観になった庭で、みな好きな場所で思い思いの時間を過ごしはじめた。
一方カエンは、自らの神域にこもった。
その様子は、山神には鮮明にみえている。
クスノキの根元に寝そべる御身はいまだ小さいままだが、ピンと立った三角耳の間――脳内にカエンの神域が映し出されている。
そこは、小粒なカエンの身に相応しいせせこましさだ。
ようやく輪郭の定まった神域を神界に固定することに成功し、中で過ごせるようになると、カエンは鉄をつくり、金物の製作に励みだした。鍋などの鋳物や刀剣などである。
自らものづくりをするのは、職業神ならではであろう。
没頭する様子は、つくらずにおれぬのだと無言で語っている。そのおかげで、ただでさえ狭小な神域は金物でひしめいており、いまもカエンは汚れることもいとわず、ごそごそと動き回っていた。
『コマネズミのようぞ』
誰に聞かせるわけでもなく、笑い混じりにつぶやくと、風鈴のみが短冊をひるがえした。
笑っているのだ。
ことあるごとにカエンが風鈴にちょっかいをかけるゆえである。とはいえ、そこまで仲が悪いわけでもない。
『あんの鍛冶の神は、まっこと忙しないやつでござる』
風鈴はやや悪口を言っているけれども。
この風鈴は話さないが、脳内はたいそうやかましいのである。
神ならば、ちょいと耳をすませばすべて聴こえるということを知らなかったようで、遠慮なくしゃべり倒していた。
カエンがそのことを暴露してから、やや大人しくなるかと思いきや、まったくそんなことはなく。
『鬼のいぬ間になんとやらでござる。山神様、ぞんぶんにお寛ぎなさるとよろしい』
『左様か』
風鈴はもともと小生意気な性格をしているが、山神には感謝の念を抱いているため、丁寧に接してくる。
山神が風鈴を救ったようなものだからだ。
風鈴は付喪神として目覚めた頃、所有者が亡くなり、遺品を整理した人間によって山に捨てられた。その者への復讐を果たすべく息巻いていたところを山神が止めたのだ。
大事にしてくれるであろう人間に心当たりがあるゆえ、そこへいかぬかと。
むろん、湊のことである。
風鈴は悩んだ。
しかしもともと人に大事にされていたこともあり、首を縦に、ではなく、ガラスに描かれた二匹の金魚に泡を吹かせて了承したのだ。
そうして昨年の初夏、楠木邸の軒下にぶら下げたのである。
湊に断りなく。
早朝、寝起きに風鈴とご対面した湊は『なぬっ!?』と目ん玉をひんむいていたのは、愉快な思い出である。
とはいえ、何も説明せずとも湊は風鈴を大切にしてくれた。経年劣化が著しかった短冊を新調し、毎日のように労いの意味を込めてガラスを磨いている。
『たしかに我が磨いてやれば喜ぶと云うたが、さして汚れておらんなら磨かんでもよかろうて』
ため息と一緒に本音を漏らすと、風鈴が短冊をまっすぐに立てた。
『山神様、湊殿にいらんことを吹き込まんでくだされっ! 某はそれを楽しみにしておるのでござる!』
キンキン頭に響く声に、山神は目を眇め、頭を振った。
それはともかく、湊である。
ここ数分、座卓に向き合った状態で唸っていた。
護符を書くぞと意気込み、いざはじめようとしたものの、いま座卓に並んでいる和紙には、何も書かれていない。
腕を組み、悩ましげに眉を寄せている。
「どうしようかな……。いつものように和菓子の名前を書いていいものかな」
「大いに結構。それがよき」
さりげなくつぶやくも、湊の眉間に刻まれた皺は一向に浅くならない。
「――実は、変えたいんだよね。やっぱり図かな? いかにもそれっぽいのを描いてみようかな」
以前にも同じことを言っていたのだが、その時は播磨に『変えなくていい』と言われ、諦めた。
にもかかわらず、またぞろ言いはじめた。
山神は顔が歪むのを抑えられなかった。
湊が和菓子の名を書くのは、播磨が手土産を迷わぬようにという配慮からである。大変よき心遣いではないか。
播磨は困りも迷いもせずにすみ、湊も好まぬお菓子をもらわずにすむ。
何より、山神は労せずして求めていた和菓子を手に入れられるのだ。
みなが幸せな図式である。そのままでいいに決まっている。
だいいち、恰好など気にしていかにする。
むろん思ったことをそのまま伝えてしまう山神は、尻尾で床を叩きつつ言った。
「どのみち跡形もなく消え失せるゆえ、ようわからぬ図だの粋がった字だの描いたところでさして意味はなかろうて」
「そうだけどさぁ……。まあ、いいじゃない。よいしょと」
と湊は座卓の下から書籍を取り出した。
先日、珍しくネットで買った物だろう。ぱらぱらとめくるその紙面には、朱色の図柄の符が並んでいる。
「なんぞそれは」
「鎮宅霊符っていうみたい。道教由来のものらしいんだけど、昔から陰陽師の人も使ってたっぽいからこれにしてみたんだ。家の壁とか宅地とかに貼ったり置いたり埋めたりしてたみたいだけど……」
「そんなものわざわざ買わんでも、あの眼鏡に持ってこさせればよかったろうに」
「さすがに二度も頼めないよ。これなら、ちょっと難しそうだけど、真似できそうだと思ってね」
湊は苦笑する。以前、湊が他者の符を見てみたいといったら、播磨は座卓に並べられない量を持ってきたのだ。
ともあれ鎮宅霊符は、ほぼ線と丸で構成された図柄である。たしかに山神でもちょちょいと描けそうではあった。
湊は、それが載った書籍を横に置き、筆を手に取った。
「俺は朱墨は持ってないけど。練習だからいいでしょ」
すぐさま描きはじめた。
さして気負ってもいないように見えるが、筆先からにじみ出る祓いの力はいつもと変わらず、翡翠色を放っている。
書き出しこそやや乱れたものの、半ばごろになると通常通り、細く長く途切れることはない。
安定した様子をしばし見つめていた山神は首を伸ばし、霊府の横に書かれた説明書きを見た。
湊がいま描いているものは、悪霊・怨霊を祓う符のようだ。他にも、金銭や財宝が集まるだの、子孫繁栄を願うだの、胡散くさいことこの上ないことが記されている。けれども――。
「おぬしが描けば、どれも悪しき霊を祓うのみにしかならぬぞ」
にやりと笑って言えば、湊も半笑いになった。
「だよね。詐欺にしかならないだろうから、描かないよ」
湊の力は陰陽師や退魔師が有する霊力とは異なるため、悪しきモノを祓うだけしかできない。
それは、湊の魂に刻まれた固有の力である。
心臓部から胸、腕を経由し、筆先までつながる一本の翡翠の流れがある。その流れは今まで、右側のみであった。
先日、播磨邸へ赴いた際、播磨の姪にそれを指摘されて以来、左手も意識して使用するようになり、かすかに通りはじめた。
やがて左手も右手と同様に使えるようになるであろう。
「よし、できた」
と快活につぶやいた湊は筆を置き、出来栄えをとくと眺めた。
以前なら、仕上がりを見てやらねばならなかったが、今ではしかと視えるようになり、頼んでくることはない。
「――うーん、普通にできちゃったよ……」
湊は、拍子抜けしたようだ。
当然のことだ。
湊が器用なのもあるが、播磨とともに武神の神域に赴いた際に、かつての記憶が呼び覚まされたおかげでもある。
山神は、魂がほんのり灯ったのを見逃さなかった。




