12 クロは護り手
しかしほんの一瞬のことで、腕が伸びた状態で学ランが尻もちをついたときは、手のひらには何もなかった。
神気を感じたが、気のせいだろうか。いや、気のせいではあるまい。
現に、それを失ったのであろう学ランが「ちくしょう!」と悔しがっている。
眉を寄せる播磨の正面では、ブレザーを着た男子高校生の片腕が後ろへ回っていた。
背後で手首をしかとつかんでいるのは、葛木だ。
涼しい顔をしているが、その力は強い。
ブレザーの男子が「痛い痛い」と喚いているが、解放する気配はない。
「お前さんたち、なんで揉めていたんだ。なにを奪い合っていた?」
厳しい言い方から、葛木もまた学ランの手にあった光を見たのだろう。
否、聴いたのだ。
葛木は聴覚が優れている。悪霊が発する声・気配のみならず、神の立てる、常人には決して聴き取れない音すら聴きとることができる。
高校生たちはうつむき、黙したままだ。ただ手に力を込め、逃れようとしている。
ガシャンと突如、甲高い破壊音が響いた。
見れば、大通りの反対側の路地を疾走してくる作業服の集団があった。
店舗に挟まれた、狭い道だ。はみ出し気味の立て看板やプランターなどを蹴倒している。
背後から伸びるいくつもの手から逃れるべく、必死な形相の中年が先頭を駆けていた。
「いい加減にしてくれっ、おれはなにも持っていないと言っているだろう!」
その片手はジャケットの内側に突っ込まれたままだ。後ろの男ら誰一人として信じてはいまい。
同じ服装ゆえ、同僚だろう。
が、およそ仲間に対して向ける態度ではあるまい。その表情はことごとく欲望でギラついている。
播磨は顔が歪むのを抑えられなかった。
「どいつもこいつも欲にまみれた顔をしやがって」
口調も荒くなろうというもの。己の言葉でよりいっそう嫌悪もわいた。
あろうことか、男たちは怒号をあげ、殴り合いをはじめた。
常軌を逸してやがる。
吐き気がした。ゆえに男たちに割って入った。
突き出された拳をかわしざま、軸足を蹴りつける。横手の男を巻き込み、派手に転んだ。
大振りの拳を顎を引いて避けつつ、相手の襟首を掴む。力任せに投げ飛ばし、数人まとめてなぎ倒す。
右の男のみぞおちには拳を、左手の男には膝を叩き込んで地に沈めた。
数秒ののち、呻く作業服らの中心に立っていたのは、黒衣の播磨だけであった。
くいと眼鏡を押し上げるその肩に、クロは張り付いたままだ。ちょろっと落ちかけた後ろ足を乗せ直す。
先頭にいた男ものしてしまったが、致し方あるまい。
男らは何を奪い合っていたのか。
確かめるべく、地面に投げ出されたその両手を見るも、何もない。
前屈みのままでいると、つかつかと歩み寄ってきた葛木が呆れ声でいう。
「いやあ、まあ、しょうがなかったとはいえ、まだ昼間だぞ」
「手加減はしましたよ。それに顔は避けました」
悪びれもせずいうと、葛木が苦笑いする。
が、瞬時に顔色を変えた。
空気が動く。
打撃が甘かったか、打たれ強いのか。
起き上がった一人の若者が、殴りかかっていた。
播磨は振り向くことなく、足のみで反撃しようとした。
刹那、クロが跳ぶ。
中空で若者とすれ違いざま、尻尾で横っ面をしたたかに叩いた。
もんどり打って倒れた若者は呻いているから、命に別条はあるまい。
一方、クロはしきりに尻尾を気にして回っている。若者の汗や脂がついたのだろう。
「汚れたな。拭いてやるからこっちにこい」
跳ねるように駆けてきたクロを抱き上げ、そそくさと反対側の店脇へ移動した。
「いいか、汚れたくないなら顔面は狙うな」
といいながら、播磨は労いの気持ちを込めて、ウェットシートでクロの尻尾を丹念に拭いた。
葛木は空笑いしている。クロの世話焼いていてもからかってこないのは、見慣れているからだろう。
「懐かしいな。よくそうやって妹ちゃんやいとこたちの世話を焼いていたよな」
と案の定言われてしまった。葛木には幼少期から知られているため、恥も外聞もない。
ともあれ、尻尾が綺麗になってご機嫌になったクロを抱え直しつつ、目についたことがあった。
建物の隙間などをのぞいてうろつく者がいるのだ。しかも一人や二人ではない。
何かを探しているようにしか見えなかった。
ふいにスマホを耳に当てた小男が、路地に入ってきた。
「――なんかさ、こっち、例のブツを探してるっぽいやつがいっぱいいるんだけど。んで喧嘩までしてんの。あの噂を本気で信じちゃってるんだろうな。マジ、ウケる〜」
ケラケラ笑うその顔に影がかかる。立ちはだかった葛木が凄みのある笑みを浮かべた。
「お前さん、ちょいと面貸してくれるか」
「は、はい」
小男いわく、最近とみにケサランパサランの噂を聞くという。手に入れた者がことごとく幸運に授かったのだと。
恋が叶い、試験に合格し、病いが癒えたなどなど。
そんなケサランパサランが、街で頻繁に目撃されるという。ゆえに寝食を惜しんで探し求める者も多く、見つけた場合、奪い合いが起こっているとのことであった。
それだけ教えてくれた小男は、逃げるように去っていった。
ありがとさーんと葛木はにこやかに、視線だけで見送った播磨は疑問を口にする。
「おかしいですね」
「そうだな」
真顔になった葛木も同意見のようだ。その腕にいるペンギンも頷く。
一般的に、存在さえ危ぶまれているケサランパサランが実在していること事態は、不思議に思わない。
人ならざるモノと関わる者たちの間では、周知の事実だからだ。
むろん、神に関わるモノであることも知っていた。