21 山神の後始末
その光景は、湊の目には映っていないだろう。
ゆえに今しがた山神のもとへ這い寄ったモノと同一のモノだと気づけない。
山神は、懇切丁寧に説明をした。
「いづも屋の生臭坊主が云うておったろう」
「鞍馬さんね。街によからぬ念が渦巻いているって言われてたモノのこと?」
「左様。あれが、その出所である」
顎で石祠の下部を指し示した。
湊はそこをじっと見た。それから視線を落とす。そろった靴の先端は、境界線の向こうにある。
そこから一歩でも踏み出せば、土の部分――呪物の威力が渦巻く領域に入ることとなる。
入ろうか入るまいか、と迷っているようだ。
湊は幾度も転生を繰り返し、数多の試練を乗り越えてきたがゆえに、人間的な欲を削ぎ落とすことに成功している。
おかげで特定の物や人物に執着することもほぼなく、その手の感情も理解できない。
ゆえに、とりわけ他者に向けられる利己的かつ傲慢な強すぎる感情に激しい忌避感を覚えるのだ。
いまも逃げ出したくてたまらないに違いない。
だが、できない。
欲は薄くとも、逃げるのはよしとしない性質ゆえであろう。
それで構わない。湊はただそこで見ていればいい。
湊には関係ないことなのだから。
山神が石祠に視線を戻した時、湊の硬い声がした。
「俺の目で視えるかどうかわからないけど――」
境界を越えたのであろう途端、うめき声を発した。
「う゛っ!」
一面赤黒い世界で、度肝を抜かれたに違いない。
この領域は赤黒い膜がドーム状に覆い、幾本もの管が縦横無尽に走っている。なおかつ息苦しいほどの湿度と、鼻孔を突き刺すような悪臭が漂っていた。
まるで強大生物のはらわたの中のように感じていることだろう。
「まさかここまではっきり視えるなんて……!」
湊は身体をくの字に曲げてえずいている。
その様子はあえて見るまでもなく、気配で知れた。ついため息が漏れた。
「なにをしておる。あちら側で、のんびり眺めておけばよかったろうに」
「で、でも、慣れるにはいいかもしれないよね……ッ。いつかのためになるかと思って。いや、こんな状況にはなるべく出くわしたくないけどッ。それに山神さんがどう後始末をつけるのか見届けたいと思って……! うう、気持ち悪いっ」
「あほよな……」
湊は普段あまりに清浄な場所に住んでいるため、耐えがたいのだ。
それにしても、まさかこの邪念渦巻く領域が視えるようになったとは。湊が望んだからこそだろうが、それが今後、吉と出るか凶と出るか、なんともいえない。
ともあれ、早く片付けた方がいいだろう。湊をこの中に長居させるのは忍びない。
山神は頭を振り降ろす。鼻先から光の槍を放ち、石祠の下部に突き立てた。
途端、頭上のはらわためいたモノがはじけ飛ぶ。
爆風が吹き荒れ、己が体毛がなびき、湊も腕で顔面を庇っている。風が弱まる頃には、膜も匂いも湿度すら一掃されていた。
ついでに己が身から神気を放ち、放射状に広げる。そのせいで髪がゆらめこうと、湊は整えることもなく、ある一点を見つめていた。
石祠から、白いもやが立ち昇り、徐々に形をとりはじめた。
和装の女だ。
その昔、幾度も見た顔は見る影もなく老いさらばえ、ざんばらな白髪に、あの赤珊瑚のかんざしはない。
――わたし、ずっとずっと、山神様を待ってたのに……。
恨みがましい声であった。黒い眼孔の中で赤い灯火がゆれている。
幽霊とは異なる。
ただの思いの残滓にすぎない。
呪物を破壊したゆえ、もうその思いすらこの世に残すことはできない。
女の醜い姿が少しずつ消えてゆく。それを山神は、ただ見つめ続けた。
『山神様が喜んでくださるだけで、わたしも幸せ』
彼女が生前言っていた台詞だ。その言葉通り、心からの笑みを浮かべていた頃もあった。
だが、山神が願いを叶えてやってから、豹変してしまった。
『山神様、もっとわたしの願いを叶えてよ!』
欲に溺れ、己が要求ばかりを言うようになった。
そして眼前にいても、その目に映すことも、神気を感じ取ることもできなくなってしまった。
『山神様、どこ!? どこにいったの!? どうして姿を隠してしまうのよ!』
身を隠していたのは最初からだ。
女は魂を磨き上げてきたからこそ視えていたのだ。
幾度もの転生の果てに得られたその能力がなくなったのは、女自らの所業のせいだ。その目も魂同様、濁ってしまった。
人間は簡単に堕落し、実にあっけなく欲に溺れてしまう。
――己と関わらなければ、己が願いを叶えてやらなければ、女はそうはならなかったかもしれない。
と思わないこともない。
しかし、たとえ超常的な力をもつ神と接し、その恩恵を受けたとしても、何も変わらない者はいる。
いま、背後で青い顔をしている湊のように。
山神は振り返り、その魂を見やった。
凹凸などどこにもない、完全なる球体。
澄んだ翡翠色。
そして、微塵も臭わない。
出会った頃から、何一つ変わっていない。
そのうえ湊は、神の力を手に入れたにもかかわらず、驕ることすらなかった。
それはやはり、今生で転生を終えるところまでこれた魂ゆえであろうか。
かの女も欲に目がくらまなければ、あと数度の転生で同じ境遇になれたかもしれない。
ともかく、今しがたまであった女の残留思念は、もうない。
かの女だった魂の方は今時分ふたたび魂の研磨をすべく、転生を繰り返していることだろう。
むろん、振り出しに戻って。
終わりに近かった魂の旅路が、また果てしなく長く――数百回は転生しなければいけない羽目となったのだ。
物憂げな山神を湊も見つめていた。
後世に残るほどの執着をされてしまえば、南部に足を向けなくなったのも当然だろうなと思いながら。
◇
さて、当初の目的を果たそうぞ。
と山神が宣い、ともにきび団子屋――周防庵へ向かった。
建て替えられた店舗は真新しい和風建築の佇まいである。
その店頭にはテラス席があり、赤い敷布がかかった長椅子に、赤い番傘が優しい影をつくってくれている。
その中で湊は、山神と並んで座っていた。
湊が一人で店内に入り、注文は済ませたから、あとは待つばかりである。
「ご店主、お元気そうだったよ」
「左様か」
かつて山神の御用達であったこの店の初代は、山神と懇意であった。むろん山神の御身が視え、会話もできる御仁だったという。
しかしながら、その初代によく似た容姿の老齢の現店主は、その稀有な能力は持ち合わせていない。
山神も店内をあえて見る気もないようで、表の通りをただ見つめている。
ほどなくして、盆を手にした白衣の男性が戸口から出てきた。
三十代であろう。店主に似てはないが、先日見た孫娘と目鼻立ちが似通っているような気がした。
店主の息子――若旦那だろう。
その人物がまっすぐ山神へ向かっていくのに、湊は気づいた。
山神が視えている。
そう思った時、若旦那は山神の眼前に立った。
「山神様、今日はなにをお求めで?」
視線を合わせ、茶目っ気たっぷりに言われ、山神は一瞬呆けたようになった。
そうして、店の戸口を流し見る。
そこには、身体を半分だけのぞかせた孫娘がいた。
その顔の上に店主、顎の下に狼のぬいぐるみもある。
縦に並んだ三つの顔が、そわそわと動いている。
ふっと雰囲気をやわらげた山神は、若旦那を真正面から見た。
「むろん、ただのきび団子ぞ」
かつて幾度も繰り返された、お約束のやり取りであった。
孫娘がぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、見上げる。
「おじいちゃん、ヤマガミさまホントにあのセリフ言ったよー!」
「そうだなぁ。けれども、おっしゃったと言えるようになろうなぁ」
親子三代に声を聞かせてあげたようだ。
給仕を終えた若旦那がにこやかな笑みを浮かべる。
「山神様、はじめまして。どうか今後もうちをご贔屓に」
「うむ、来てやってもよかろう」
とんでもなく不遜な言葉を吐いてくれた。
そんな山神に苦笑していると、けたたましい犬の吠え声がした。
通りのすぐそばで、シーズーが飼い主の脚にジャンプしつつ、必死にすがっている。
「なあに、抱っこのおねだり? 散歩中になんて、珍しいじゃない」
飼い主の女性は不思議そうだ。その間もシーズーは吠え続けた。
なかなかのお洒落さんで、フリルのスカートをはき、首輪をつけている。それについた赤珊瑚色の玉がキラリと光った。
はいはいと仕方がなさそうに飼い主が抱き上げると、シーズーはそれでも落ちつかないようで、暴れ続ける。その前足の肉球があらわになった。
もっとも大きい肉球の部分――掌球に斜めに入った線が見えた。
「傷跡のアザみたいだ……」
思うままに口にしたら、山神もそのシーズーを見た。
瞬間、キャンキャンと盛大に吠え出し、飼い主の懐に潜り込もうとがむしゃらになった。
「どうしたのよっ、なにをそんなに怖がってるの!?」
飼い主の困惑した声が通りにこだまする。
澄み渡った青空が広がる、午後の一幕であった。




