16 誰だってトクベツになりたいもの
その昔、山神が南部に足繁く通っていた頃、人間をともなってくることなどただの一度もなかったという。
うちのご先祖様が、もっとも山神と親しかった。
幼い頃からそう聞かされて育った社長にしてみれば、山神の隣にごく自然に並んでいた存在は受け入れがたいのだろう。
社長はまるで、ではなく明らかに嫉妬にまみれた表情をしており、十和田はなんとも言えない気持ちになった。
が、あの青年に関する噂も仕入れてきていたため、惜しみなく提供する。
「山神様との正確な関係性はわかりませんが、あの青年は北部の商店街界隈でものすごく有名な人物でした」
「ほう?」
「ですが、誰に尋ねても本名は知らないというちょっとミステリアスな感じでしたね。あだ名で〝鳥遣いの人〟や〝鳥遣いさん〟と呼ばれていました」
「鳥遣いとはなんだね?」
「いつでも数多くの鳥を従えているから、そう呼ばれるようになったと聞きました。今日はやたら鳥が多いなと思ったら、あの青年がやってくるんだそうで。時々彼が商店街にいる間、鳥が増え続け、商店街の空が鳥で埋まることもあるらしいです。ちょっとしたホラーのような気もしますが……。そして人によると鳥だけでなく、猫や犬、果てはアライグマまで彼の言うことを聞くと言ってました。ごく一部では、神様扱いされているみたいです」
わなわなと社長が震え出した。
「あれかね!? 山神様の近くにいるから神がかっているんじゃないのかね!?」
その語気の荒さに、ちょうど席の横を通った店員が肩をビクつかせた。十和田が視線のみで詫びると、作り笑いをし、そそくさと去っていった。
しかしながら、社長はそんなやりとりすら目に入っていない。握り合わせた手に視線を落とし、影の落ちた顔面で呪詛を吐くようにブツブツつぶやく。
「あの青年が羨ましい、羨ましい、羨ましい、羨ましい……!」
十和田は幻視した。社長の背におどろの暗雲が立ち込めるのを。
――こいつぁ、やべぇ。
あまりの状態に十和田は視線を窓の外に向けた。縦格子の隙間越しの空は澄み渡り、のぼり旗がひらめいている。
かの山神がいっとう好む、こし餡の原材料である小豆と同じ色だ。
それを見つめながら、十和田は願った。
――山神様、どうかお願いします。あなた様を好きすぎる社長にご慈悲を!
その時奇しくも、のぼり旗の向こうに山神がいた。
しゃらり、しゃらり。
鈴の音とは異なる、やや金属的な音が鳴った。
それが聴こえるのは十和田だけでなく、社長もだ。
垂れ流されていた恨み念仏のごとき言葉が途切れ、その涼やかな音に導かれるように顔を窓の外へ向けた。
虚空が歪む。のぼり旗がより激しくバタつく。
そして、じわじわとにじむように、白き狼がお出ました。
社長ともども十和田は息を呑む。
「山神様、ちっちぇ!」
つい思ったまま口をついて出てしまった。
巨軀であった山神が、子狼のごときサイズで現れたからだ。
だがしかしその御身は、山神以外の何モノでもないのだと、本能で理解できる。
むんと山神が胸をそらすと、むせかえるような濃い神気が押し寄せてきた。
肌がひりつくほどのそれは以前、出版社まで赴いて見せてくれた時と同じ――。
いや、あの時よりまとう神気の量が増しているように思え、十和田は自ずとひれ伏しそうになった。
山神がまっすぐに社長を見るや、神圧で押されたのであろう、社長が弾かれたように上半身を引いた。
そして山神の小さな口が開き、脳内にその声が届く。
『――我はいま禁酒中の身である。許せよ』
ぬしとは呑めぬ。
そうお断りをされているのだと、十和田は解釈した。
が、社長は違ったようだ。
熱に浮かされたような顔で、必死に山神を凝視し続けている。体をのけぞらせたまま。
おそらく言われた言葉は耳に入っていない。
ただただ山神の御身をその網膜に、脳に焼き付けるべくやっきになっているようだ。
――なんつー残念さだよ。
思う十和田の視界の端で山神が踵を返した。その向かう先に、鳥遣いと称されるあの青年がいるのが見えた。
苦笑している彼の存在に、社長が気づかなければいい。
十和田は、ただそう願うばかりであった。
ぽてぽて。歩幅の狭い小さな山神の歩みは鈍足である。
通りを進むその後ろをゆっくりついていきながら、湊は尋ねた。
「山神さん、禁酒なんかしてたっけ?」
「あの眼鏡の家から戻ってから一度も呑んでおらぬぞ」
「そういえばそうだね。でもまぁ、山神さんってもともと呑まないから、数ヶ月あくこともザラだよね」
ふふんと山神が鼻を上げ、尻尾を振った。
湊も気づいていた。
山神と武蔵出版社に行って以来、地域情報誌の特集記事がやけに居酒屋関連が増えたことを。
おそらく、武蔵社長が山神と呑みたがっているのだろうと思っていたが、その通りであったようだ。
しかし残念ながら、社長の望みは叶わないらしい。
とはいえ、かの山神に心酔している社長ならば、山神がただ御身を見せるなり、声を聴かせるなりするだけで満足しそうである。
この先も地域情報誌に山神専用ページがもうけられ続けるかは、社長の一存にかかっている。
ぜひともこれからも、社長とは付かず離れずの関係でもいいから、続けてほしいものである。
そう考えていると、ふいに山神の耳が後方へ倒れた。
こもったような声で唸り、その御身を覆う神気もゆらめく。そんなに神気を出したら、体を小さくした意味がないではないかとは思うも、山神のただならぬ様子に湊も眉を寄せた。
だが、一瞬にしてその状態はなくなり、山神が胴震いをする。
まるで何かを振り払うような動作であった。
「――うっとうしい」
ただひと言そうつぶやいた山神は、何事もなかったように歩みを再開した。




