13 山神のむかし話 前編
気のせいかと思いながら山神に見えるようにすると、つぶらな金眼が丸くなった。
「それは……」
「知ってるの? というか、これ山神さんの爪痕と似てるよね」
盛大なるため息が返ってきた。
「察しがよすぎるのも考えものぞ」
「お、当たったんだ」
ほくほくと笑っていると、山神は石に鼻を寄せ、すんすんと嗅いだ。
「これは以前、人間にやった物である」
「へぇ、もちろんただの石じゃないよね」
「左様。切なる願いを三回叶うようにしておったのだが、もうその効力はなくなっておる」
「ああ、だから山神さんの神気をまったく感じないのか。山神さんもそんな物を人にあげていた頃もあったんだね」
「――ただの気まぐれぞ」
「でも、もらった人はすごく喜んだと思うよ。ところで、願いを叶えてくれるアイテムって、なんでたいてい三回なのかな」
古今東西の神系のみならず、怪しげな猿の手もそうだと思いながら尋ねると、山神は小さな胸を張った。
「他のモノはよう知らぬが、我は一回では少なく、五回では多すぎる。ゆえに間をとって三回にしただけぞ」
「そうなんだ。――それにしても、そんな石がなんでこんな所にあったんだろう」
今一度石をつぶさに観察していると、山神はそっけなく言った。
「――用済みになったゆえ、捨てたのであろうよ」
「それはないと思う。いつ効力が切れたのかはわからないけど、そのあとも大切にされてたんじゃないかな。――ほら、すごく綺麗だ」
手を広げ、その石を再度山神に見せた。
落ちていたにもかかわらず、まったく汚れていないうえ、艶めいている。
「たぶんしょっちゅう磨いてるんだよ。――きっとうっかり落としたんだ。いまごろ、必死に探してるかもしれない」
あたりを見回すと、異様に下を見ながら歩んでいる若者がいた。頻繁に中腰になり、店舗の隙間までのぞいている。
その若者を山神がじっと見た。
「あやつによう似ておる……」
小さくつぶやいたと同時、若者が顔を上げ、こちらを見た。
湊がわかりやすいよう石を見せると、破顔して駆け寄ってきた。
「すみませんその石、オレが落とした物なんです。――返してもらえますか?」
至って愛想はいいが、その目に浮かぶ焦燥が見て取れた。よほど大切な物なのだろう。
――ただの石だとしても。
湊からそう思われ、変人扱いされかねないと危惧しているのかもしれない。
湊は焦らすことも、疑問をぶつけることもなく、渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます!」
腰を直角に曲げ、礼を述べられた。
ここまで大切にされている様を見せられると、まったく関係のない湊でもうれしくなった。
前回、南部のきび団子屋に行った折、初対面の店主を見た山神は『あやつによう似ておる』と言った。かつて親しかった初代と瓜二つだったからだ。
先ほど山神は、同じ台詞をつぶやいた。
ならば、この若者も山神のかつての知り合いの子孫なのだろう。おそらく山神を認識できて、深い交流があったのだ。
だがしかし、この若者もきび団子屋の店主同様、山神を認識できないようだ。
湊の後方にちんまりと鎮座している小さな狼に目もくれず、ただ己の手元に戻ってきた石を見つめている。
「よほど大切な石なんですね」
湊が感心したように言うと、若者は照れくさそうに笑った。
「単なる石におかしいって思いますよね?」
「いえ、そんなことは。思い入れのある石なんでしょうし」
「――はい。ただこれは俺じゃなくて、ご先祖様が後生大事にしていた物なんですけどね」
若者は少し言い淀んだあと、信じられないかもしれないけどと前置きし、静かな目を向けてきた。
「この石は、ご先祖様が山の神様にもらった物なんです。いろいろ便宜を図った礼だったそうで。願いを三つ叶えてくれるという話だったんですけど、ご先祖様はずっと願うのをためらっていて、臨終間際まで願わなかったんです」
「そうだったんですね……」
さすがにその願いの内容は訊けなかった。
叶ったかどうかは訊く必要もない。なにせ、神が与えてくれるご利益は身をもって知っている。
子孫である若者も今なおその石を大事にしているのも、その霊験を実感しているからこそだろう。
「もうこの石が願いを叶えてくれることはないのはわかっているんですけど、いつも持っています。――お守りなんです。なんてったって、神様がくれた物ですから!」
両手で石を包み持った若者は誇らしげに言った。
その若者を、山神はただ眺めていた。
ふいに強く吹いた風に呉服屋の暖簾が翻り、鉄の風鈴が鳴る。
その重なり合う音と往来の人々のざわめきが、山神の思考を過去へといざなった。
◇
それは湊が生まれるうんと前、江戸の頃の話である。
真夏のある日、全方位にひらけた野道を輝かしい大狼が歩んでいた。
その後方に、どこまでも続くような田の果てに、自らの山がそびえている。それを振り返ることもなく、山神はただひたすらに前へ突き進んだ。
その力強い四肢が踏む野道は草がぼうぼうである。だからこそ、照りつける陽光を吸収し、地面はさほど熱くもなかった。
とはいえ、やはり己が山の居心地のよさと比べたら辟易する。
だが、贅沢はいえない。この先にある町もそれ以上に味気なくとも。
なぜなら、山神が求める甘味はそこにしかないからだ。
『さて、今日の甘味はなんにすべきか』
眼光鋭く、たらりとよだれを垂らす様は、完全に飢えた狼そのものである。
この時代、まだ野生の狼が生息している。
時に山から人里へ降りて作物を荒らす獣や家畜をむさぼり食い、時に人間をも食い散らかす。
ゆえにいくら神であろうと、その御身が視えてしまう者には殊の外恐れられる場合もあった。
「ヒィ!」
ばったり出くわしてしまった哀れな子羊、否、農民が鍬を取り落とした。
後ずさるその農民に、「ウオン!」と山神はひと声吠えた。
さすれば、尻餅をついた農民にしがみついていた悪霊も掻き消えた。
『これからうまい甘味を食うというのに、汚らしいモノなぞ視るのも不快ぞ』
不機嫌極まりない口調で言い捨て、山神は歩みを再開する。
身動きもできない農民に代わり、その後方から駆けつけてきた者に「山神さまー! ありがとうございましたー!」と叫ばれ、尻尾を振って応えてやった。
ほどなくして、南部の目抜き通りに至った。
多様な飲食店が軒を連ね、屋台も多い。雑多な匂いが立ち込めるそこを往来する人々も多かった。
しかし山神が歩けば、その身から放出される神気から逃れ、人間たちは無意識に道を開ける。
「おっと、すんません」
中にはこの棒手振りのように、自ら避ける者も少なくなかった。
山神はあえて反応を返すこともなく、そよぐ風に体毛をなびかせつつ歩む。
『今日は風の精らがおらんな』
と思っていたら、横っ腹に体当たりをされた。とはいえ、一体や二体程度では大した威力なぞあるはずもなく。
ペイペイと尻尾で風の精を散らしつつも、山神の頭は別のことでいっぱいであった。
『ぬぅ、いずれも気になるわ』
むろん甘味である。
そこかしこから甘い香りがしてくるおかげで、その鼻は忙しなく、右へ左へと動きっぱなしである。
『ぬぬ! この香りがよき……!』
そうして、もっとも惹きつけられた店へ近づく。
木造の店舗と店先に置かれた長椅子から、真新しい木の香りがしている。新しい甘味処なのは紛れもない。
いかなる未知の甘味をつくっているのであろうか。
『うまそうぞ』
自ずと鼻が戸口へ向き、よだれが盛大に垂れる。それはあえて止めない。
なぜなら、こういう風にしておけば、勝手に甘味にありつけるからだ。
「山神様ー!」
ほらきた。




