12 山神にとって、方丈町南部は忌まわしい地でもある
りぃんりぃんとどこからか風鈴の音が聞こえる。
平地で赤トンボが飛ぶようになっても夏は去っておらず、いまだ軒先にぶら下がっていてもおかしくはなかろう。
目抜き通りを往来する人々も和服をだらしなく着崩し、もろ肌を脱いでいる男も少なくない。
たとえ暑さ寒さをさして感じない身であっても、町民らの格好と覇気のない歩き方を眺めていれば、こちらまで暑苦しくなってくる。
りぃんりぃんと鈴虫めいた風鈴の音は、その不快さを和らげてくれる気がするから不思議だ。
しかしその音色がよく聞こえない。
間近で金切り声をあげ続ける娘のせいで――。
「どうしてもっと頻繁に来てくださらないんですか!」
いつからであったろう。
この娘がこちらの都合などお構いなしに、己の云いたいことばかりを云ってくるようになったのは。
「わたし、いつもずっと待っているんですよ!」
いつからであったろう。
この娘が和服をきちんとまとい、髪を結い上げることをやめたのは。
ざんばらなその頭にあった赤珊瑚のかんざしは、いつから見なくなってしまったのか。
「わたしの願いをもっと叶えてよ! いままでさんざん山神様に貢いであげたんだからッ」
こんなに醜い表情を浮かべるようになったのはいつからであったろう。
幾度も転生を繰り返し、数多の試練を乗り越え、磨き上げてきたその魂が臭い出したのはいつからだ。
「我が御自ら甘味を所望したことなぞ、ただの一度もないわ!」
ちり~ん。
聞きなれたガラス風鈴の音色を耳にし、山神はパカリと眼を開けた。
ここは楠木邸の神の庭であり、傘のごときクスノキのもとだ。
決して、いま夢にみていた方丈町南部ではない。ましてや江戸時代でもない。
それを思い出した山神は忙しなく瞬き、ため息をついた。
「いま寝言で云うていかにする……」
あの時、あの娘に直接云えなかった――云わなかったことを後悔しているのか。この我が。
そう悩む時間はほんの一瞬で終わった。
黒豹のクロが、前脚に噛みついているからだ。痛くもないが気にはなる。
クロは前脚を咥えたまま得意げに見上げてきた。
「ギャオ~!」
「悪夢から救ってやったぞ、とな? ――片腹痛いわ」
ぺいっとその口から前脚を取り上げ、クロを転がし、その胴体に噛みついた。
◇
青空に浮かぶ鰯雲を見上げる湊は、時の流れを実感した。
半袖の腕に感じる湿度の高い空気はいまだ夏でしかなくとも、赤トンボも行き交っているから、確実に季節は変わろうとしている。
行く手の店舗の入り口で、店員が打ち水を放った。半月を描くそれをひょいと華麗に大狼は避けた。
ここは、方丈町南部の商店街である。
早朝から山神と訪れていた。
普段通り、自ずと通行人が避けてできる道をゆく山神の足取りは軽い。それを眺めていれば、湊も笑みが浮かんできた。
「山神さん、きび団子楽しみだね」
「うむ。あの貧乏くさい味が時折、無性に食べたくなるのよ」
言葉は悪いが、楽しみで仕方ないのは、その尻尾が巻き起こす風で通行人がやや傾くことからわかった。
「な、なんか風強くないか!? いや、圧か!? よくわからんが、変だぞ!」
「――おいおい、なに言ってんの? そんなのオマエだけだろ」
周囲を見回しつつ焦る者の隣の人物は何も感じていないらしい。神とは摩訶不思議な存在だと思いながら、湊はその二人と通り過ぎた。
「とはいえ、とりあえずいづも屋にいくよ。これを持っていかないといけないからね」
掲げたバッグには、木彫りが入っている。
一つでもいいと店員に言われてはいるものの、さすがに恰好がつかないため、三つ彫ってきた。
すべて山神である。
それぞれに小粒なテン――セリ、トリカ、ウツギをつけた。
知らぬ者からすれば、オオカミとテンの組み合わせは変わっていると思われるだろうと、製作中はほくそ笑みがとまらなかった。
今度はエゾモモンガとのセットにするつもりだ。
「ふむ、よかろう。しからばさっさと済ませるぞ」
「山神さんがそんなことを言うなんて珍しいね。なんか急いでない?」
「――いや?」
否定した山神であるが、その歩調は目に見えてゆるやかになった。
妙に気が急いているようだ。どうしたのだろう。
前回山神とこの地を訪れた折、湊がはじめてだったこともあり、散策と洒落込んだ。その時は遅いくらいの速度であったというのに。
訝しさを拭えないながらも歩み続けていると、店舗に挟まれた鳥居に差し掛かった。
短い参道の先に小ぶりな社殿がある。
「場所柄、商売繁盛を祈願する神社かな?」
とつぶやいたと同時、行く手の方向から腕を組んで歩いてくる二人組が見えた。
彼女と思しき者が、鳥居を見上げた。
「ねぇ、この神社って、ご利益があるって有名なんでしょ? ちょっと寄っていこうよ」
「やめとけ。ご利益なんか爪の垢ほどもねぇから」
男が吐き捨てるように言い、女は戸惑っている。
「えっ、そうなの? みんながそう言ってたんだけど……」
「みんなってのはどこの誰か知らんが、俺が一万も賽銭あげたってのに、なんのご利益もなかったのは確かだぞ。やらなきゃよかったって後悔してる。マジで損したわ」
視界に入るのもいやだといわんばかりに肩を怒らせた男と、その腕にひっついた女が行き過ぎていった。
湊の足は止まっていた。
そして、山神も。
軽やかにゆれていた尻尾もだらりと下がり、無言で前を見つめている。
やけに神気も硬い。なんと声をかけたものかと迷っていると、その御身が小さくなっていった。
見る間に小型犬サイズになり、神気も薄くなってしまった。
自らそうしたのだ。
気を悪くしたゆえだろう。
通常の大きさであれば、神気を抑えようとしても完全に抑えるのは不可能で、敏感な人間に気づかれてしまう。
ここまで小型化したら、その神気に慣れ親しんだ湊でも気を抜いたら、見失いかねない。
気をつけようと思いつつ、湊はあえて明るい声で促した。
「山神さん、早いところ用事を済ませて、きび団子屋さんにいこうよ」
「――うむ!」
山神がどこかまぶしげに見上げてきたのは、なぜだろうか。
疑問に思うも、綿あめめいた尻尾が盛大に振られ、山神の機嫌が元通りよくなったことを知らせてくれた。
だったら、いいかと湊は考えるのをやめた。
ちょこちょこ歩く山神とともにしばらく道なりにゆくと、りぃんりぃんと風鈴の音が聞こえてきた。
「うちの風鈴と音色が違うな。鈴虫みたいだから、南部鉄の風鈴かな?」
音の出所を探れば、一軒の店舗の軒先に下がっていた。
案の定、鉄製の風鈴であった。
店は木造二階建てで、紺地の水引のれんが印象的な呉服屋であった。
「いかにも昔ながらの呉服屋さんって感じのお店だね。風鈴も似合ってる」
返事のない山神に視線を戻そうとした時、店舗脇にある物が見えた。
「あれ、なんだろう?」
妙に気になり、それを拾い上げた。
河原にありそうな角の取れた平たい石であった。
手のひらほどの大きさで、裏を返すと三本の筋が入っている。
「これ、爪痕みたいだ……」
湊は山神の足元を見た。
いまは小さくなっているが、通常サイズの山神の爪痕と似ているような気がした。