9 無事お肉好きになったとさ
「山神さん、ダメじゃないか!」
鬼の形相で文句を言うも、山神は意地悪く嗤う。
「猫舌とは、哀れよな」
と言ったものの、己の水鉢をクロの方へ前足で押し出した。
「ほれ、この水に舌をひたすがよい。さすればすぐに冷えよう」
これまたクロはためらうことなく舌を伸ばした。
「ギャ!」
今度は炭酸水の刺激にたまげたようだ。なんとクスノキの樹冠まで跳んでしまった。
器用に枝の上に乗っているが、湊はため息をついた。
「はじめての食事でこんな痛い思いばかりしたら、飲食すること自体がトラウマになりそうだよ……」
山神は不遜に鼻を鳴らす。
「あやつは無謀である。学ばねばならぬと申したであろう。そのうえ、飲食そのものを嫌いになりはせぬ。ほれ、いまだ煮込み料理への興味は失っておらぬぞ」
クロは首を下へと伸ばし、鼻をうごめかせている。湊はためらうことなく浅鉢に手をかざし、冷風を浴びせかけた。
「あんまり冷ましすぎるのもよくないよね。ひと肌くらいかな?」
顔を上げた山神が半眼になった。
「おぬしは甘い。甘すぎるわ。放っておけばよかろう、それも学びぞ」
「――だって、いやな思いをしたまま待たせるのもいやだし」
とことん呆れられようが、湊も折れない。さっさと浅鉢をほどよい温度まで下げ、見上げた。
「クロ、もう食べられると思うよ」
たんと、床に飛び降りてきた。その眼前に浅鉢を置くと、今度は慎重に鼻を寄せた。
「もうヒゲに湯気はかからないよね?」
ネコ科のヒゲは感覚器官とつながっていると言われている。温度まで感知できるかは知らないけれども。
「ぎゃお!」
たしかに、とクロは納得したようだ。
そしてぺろりと赤い汁を舐めた。鶏肉も粉々にはせず、ほどよい大きさを残している。
クロはまず汁を舐め、次に小さい肉片、そして大き目の肉片を食べた。
「ちゃんと段階を踏んでる。えらい!」
湊は褒めて伸ばすタイプである。
浅鉢に顔を突っ込んだまま、クロは尻尾をゆったりと振った。
しかと食べられるのを理解したクロは、それから他の物にも興味を示すようになった。馬刺しも山神の横で大人しく食べていたのだが、焼いた大きな牛肉の時は違った。
いい感じで冷めたところで、湊が細かく切ろうとナイフを手にした時、クロが横からかっさらったのだ。
そしてあろうことか、クスノキに登ってしまったのである。
あ然とするしかなかった。
「まさか、野生の血が騒いだのかな。野生の豹は仕留めた獲物を枝上に持っていって食べるよね。でもそれって、横取りされないためだったはずだけど」
「誰も盗らぬというのになぁ」
山神も呆れている。
一方、クロは枝の上に伏し、両前足で肉を挟んで、肉と格闘している。
ぢぢぢぢ。その直下にいる風鈴が微弱に震え『某の頭上で物を食うとは、なんたる行儀の悪い獣であるかっ……!』と憤っていた。
風鈴には申し訳ないが、クロを引きずりおろすわけにもいかない。
「風鈴、もうちょっと我慢してくれるかな。食べ終わったら降りるだろうから」
と言う他なかった。風鈴は不満げだが、大人しくなった。
クロを誘うには、匂いが効果的だろう。
自身もしかと食べつつ、湊は赤い牛肉を網の上に並べる。
その時、パチャリと鯛が大池から躍り上がり、宙を泳いでそばにきた。鯛から発せられる熱気が上腕に伝わってきた。
「温泉を満喫できたみたいだね」
ならば、次にやることは決まっている。
しゅぽんっと瓶ビールの栓を開けた。
むろんそのラベルに描かれているのは、えびす神である。
その小脇に抱えられた鯛とよく似た鯛が、大きな口を開けて待ち構えている。
「はい、どうぞ」
ドボドボと鯛の口へ豪快にビールを注ぎ込むと、魚体の喉とすべてのヒレが動いた。一本空けると、湊の周囲を回る。魚体をひねり、各所のヒレを広げながら。
愉快な踊りを披露してくれるのは、毎度のことである。
とはいえ、かのビールを切らして別のビールをあげた時は、まったく踊ってくれなかったうえ、缶ビールでは踊りのキレが悪くなる。瓶でなければダメらしい。
「瓶にこだわるのは麒麟さんもなんだよね」
頑固一徹なかの霊獣は今、仲間たちと竜宮城にいるはずだ。毎度へべれけになってご帰還あそばされるということから、かの夢の場所を呑み屋扱いしているのかもしれない。
「あやつは今時分、向こうでえびす神と鉢合わせしているのではないか」
ぶちぃと牛肉を噛みちぎりつつ、山神が言う。
「そうかもね。仲よくビール談義でもしているならいいけど」
それな、と同意するように鯛が後方宙返りをキメてくれた。
その刹那、またもふんわりと竜宮門の場所が光った。
即座にその真上の水面に、魚の口が飛び出た。チョロリとヒゲもついたそれは、大きな金鯉のものに違いない。
隣町の神の眷属である。
池が川と滝であった頃、幼い鯉たちを修行させるべく、彼らを引き連れ、頻繁に訪れていた。ゆえに改装以来となる。
「お久しぶりです」
わざわざ近くへ寄らずとも、神の類はしかと聴き取ってくれる。
金鯉は、水上に躍り出て応えてくれ、こちらへ泳いできた。その後方にぞくぞくと続く背びれがある。そのサイズは金鯉と変わらない。
鯉の大群がクスノキの部屋を中心に、くるくると回遊する。
すべて成魚であった。
錦鯉の特徴をもつ彼らは一つとして同じ柄はない。幼い姿だった時に幾度も見た模様ばかりだ。
成長した姿をわざわざ見せに来てくれたのだろう。
実際は竜宮城へ遊びに行き、たまたま楠木邸へつながっていることを知り、ひさびさにちょっくら行ってやるかと気まぐれを起こしただけかもしれないけれども。
ともかく湊の脳裏には、彼らが滝を制覇すべく何度も何度も挑戦していた姿がよみがえり、感動でうち震えた。
「みんな、立派になって……!」
気分は完全に近所のおっさんである。ぜひとも滝を昇る勇姿も拝みたかったが――。
「滝はなくなっちゃったんだよね」
苦笑していると、クロが水面を叩いた。鯉たちがからかうように口を開け閉めしているからだろう。
クロもムキになっているようだが、うっかり池に落ちないよう、床に身を伏せている。
その背中を見やる山神が鼻を鳴らした。
「ちぃっとは成長しておるわ」
つぶやき、馬刺しに嚙みついた。




