4 庭の大池はよき遊び場
神の庭は今日も、大空を漂う雲のようにおだやかな時間が流れている。
それを堪能する面子は多い。
クスノキの木陰でまどろむ大狼、麒麟、鳳凰。その傍らであぐらをかく湊のそばには、霊亀と応龍。そしてセリ、トリカ、ウツギ、カエンが大池に浮かぶ四艘の小舟に乗っていた。
それぞれの体にジャストフィットのそれらは、湊のお手製である。
カエンも露天風呂に入りたそうにしていたのでつくったら、他の眷属たちがうらやましげに見ていたため、急遽彼らの分もこしらえたのだ。
眷属たちはただそれに横たわり、大池を漂っているだけで至って静かなものだ。
時折、風に吹かれた風鈴が鳴り、湊の手元からしゃこしゃこという磨く音だけが発せられているだけである。
湊は、ブラシで霊亀の甲羅を磨いていた。
たびたび行っており、むろんお約束のあの問いかけも忘れない。
「お客様、かゆいところはございませんか~?」
『前脚の付け根を頼むぞい』
そっちかと思いながらも、ひょいと上がった前脚の間へブラシを差し込む。
『おお、ええぞいええぞい』
ふひふひと笑いながら反対の前脚を上げる霊亀を、真正面から応龍が凝視している。
順番待ちである。
応龍もその体の構造上、背中に手も足も届かないせいか、たいそうブラッシングを好む。
バサリと蝙蝠めいた羽を広げた応龍は、ゆっくりと羽ばたいた。
『――どうにも羽の付け根がかゆうてたまらん』
暗に、霊亀に早よ代われと申されている。
むろん霊亀はわかっているだろうに、素知らぬ顔で首を反らし、喉を晒してくる。
湊トリマーはそこを素早くかつ丁寧に磨いていく。
「はいはい。――龍さんはもう少し待ってね」
『――うむ』
不満げだが、苦情を言ってくることはない。
霊亀の尻尾をブラシでこすりつつ、湊は今しがたツムギとメノウに会った時のことを思い出した。
クスノキに寄り添うように横臥する山神を見れば、まばたきをしている。起きているなら訊いてみてもいいだろう。
「山神さん、天狐さんのところのメノウは強いのかな」
「否、見た目通りの非力な赤子ぞ」
即座に返答があった。
「でも、自分のことをナイト――騎士だって言ってたよ。護られるモノではなく、護るモノって意味だと思ったんだけど」
「左様。あやつがそばにおれば、ツムギの最高の護りとなろう」
自信満々に言い放ち、尻尾をゆらめかせた。
解せない湊は下を向くと霊亀に、視線を上げると応龍にも深く頷かれた。山神と同意見のようだ。
「あれかな、かわいさは正義っていうやつ?」
ふざけて言ってみたら、左様、その通りぞい、いかにもと賛同されてしまった。
湊は真顔になってブラシの動きを止めた。
「でもかわいさだけでは、思春期の若モノには対抗できないと思う」
「いかなはねっかえりのあの小童といえども、生まれたてのモノにはたてつくまい」
鼻を鳴らし、山神は続ける。
「もしあの赤子に挑みかかるような真似をすれば、それを目撃した神らがおれば黙ってはおらぬ。いままであの小童がツムギに突っかかっていっても誰もなにも云わなんだのは、ツムギの方がはるかに歳上で桁違いに強いゆえぞ」
神や眷属は結構、そのあたりにいるものだ。今しがたも二神もいたし、何食わぬ顔で人間のフリをしているモノまでいる。
白い狐は至る所でツムギと衝突していたから、それなりの神々に知られているだろう。
「そういうものなんだ」
「むろん。人間かて、大人が赤子に無体を働こうものなら、殴ってでも止めるであろう」
「まぁ、そうだね。想像もしたくないけど」
「神らもぞ。そのうえ神の倫理観は人間とは異なる。問答無用で始末する過激なモノもおるぞ」
湊は青ざめた。
天狐はそれを承知でメノウを産み出したに違いない。なかなかどうして、かのお狐様は強かだ。
山神は前脚の間に顎を置く。
「あんの女狐め、性悪さをいかんなく発揮しおって」
天狐の高笑いの幻聴が聞こえてきたのは気のせいだろうか。
さんざん唸った山神は、横倒しになった。
「なれど、これでツムギは出先でのんびり過ごせるようになるであろうよ。子守りから逃れられなくなったろうが」
たしかにそうかもしれないが、ツムギはそれだけ天狐に大事にされているのだろう。
思いつつ、お次の応龍の背面と羽の付け根を磨く。羽そのものも細心の注意を払ってブラッシングを行った。
そのまま寝入ってしまった霊亀と応龍をそっと並べていると、肩にふんわりと苔玉めいたモノが落ちてきた。
「クスノキ、珍しいね」
両肩を足場にして転がるのは、クスノキの本性である。
湊が時折ここでうたたねをしていると、こっそり身体の上を転がったり、寄り添って寝たりとしていることがある。
いつも夢うつつの状態のため、あまりまじまじと見たことはなかった。
よく見ようと腕を前へ伸ばすと、伝い転がって手のひらに乗ってきた。
まあるい体に、針のごとき細い手足が生えている。
体表はまさに苔のようだが、ふわふわでやわらかい。
それが被さる眼は半分も見えていないが、煌めく緑色なのだとはっきりとわかる。そこまでは知っていた。
「あれ? 頭に葉っぱが生えてるんだね」
二枚の葉はまだ小さく、よくよく見ないと気づけない大きさである。
これはまだ、クスノキが成長途中だからなのかもしれない。
「頭に葉っぱがついていると、いかにも木の精って感じがするね」
笑うと、クスノキも楽しげに手のひらで跳ねた。クスノキは言葉を発しないが、その動作で心情はわかりやすい。
とんとんと胸にぶつかってくるのは、寝ろと言っているようだ。
「今日は、昼寝はできそうにないよ。もうすぐ播磨さんがくるからね」
護符の取引ではなく、個人的に相談したいことがあるらしい。まだ時間はあるが、うたた寝するほどではなかった。
クスノキは不満げに身体の上を転がる。
「大丈夫だよ、今日はそんなに疲れてないから」
なだめると、クスノキが飛んで自らの幹に溶けるように消えていった。
その時、歓声があがった。
「負けませんよ! 我が一番です」
「いや、我だ!」
「違うもんね。我だよ~」
大池で小舟に乗るセリ、トリカ、ウツギが競争をはじめたようだ。むろんカエンも。
「否、麿がこのレースとやらを制すのじゃ!」
それらの様相はやや変わっている。テンは自ら泳ぎ、鼻先で小舟を押しやって進み、エゾモモンガは小舟の上に伏せ、前脚で漕いでいる。
一見、カエンが不利そうである。が、そんなことはない。前脚の動きが見えず、小舟の後方に高い水柱が立つほどの速度だ。まさに神速で大池の外周をぐるりと回っている。
「なかなかよき勝負になっておるではないか」
あくび交じりに山神が言うように、接戦である。
やや前に出ているのは、トリカだ。
そこは、こんな騒ぎであろうと眠っている霊亀の棲家あたりである。
「どうだ、我が一番――」
ドボン。トリカが話している途中、水中に没した。荒波に揉まれながら小舟だけが前へ進んでいく。
「トリカ……?」
異変を感じ、湊が腰を上げる。時同じくして、ウツギが小舟を押すのをやめて叫んだ。
「トリカが竜宮門に吸い込まれちゃったよ!」
顔色を変えた湊が立ち上がり、パチリと霊亀と応龍が瞼を上げ、山神も瞬きを繰り返す。
すべてが同時に起こった時、ざばりとトリカが水面を割って出た。
その顔はやけに疲労の色が濃い。
トリカは小舟にしがみついて全体重をあずけている。その姿はまさに溺れる人がすがりつくようであった。
まさかあちらへ行っただけで、老け込むのかと湊は戦慄する。
「トリカ、大事はありませんか!?」
セリが問うと、トリカは深くため息をついた。
「は、派手すぎて眼が潰れるかと思った……」
「なんだ、それだけか。びっくりしたよ~」
拍子抜けしたようにウツギが言うと、トリカが半眼になった。
「そうはいっても質素な我が家を見慣れていると、あれは度肝を抜かれるぞ」
そんな会話を交わせるのなら、問題ないのだろう。
湊はいまさらながら、霊亀に問うた。
「――俺も竜宮門に近づきすぎたら、吸い込まれるのかな?」
『それはないぞい』
真剣な表情できっぱりと否定してくれた。安堵の息をつこうとしたら、霊亀が付け足してきた。
『一人ならそういう事態は起こらん。だが、そばに動物体のモノがおった場合、一緒に吸い込まれる恐れはあるぞい』
「な、な、な」
言葉が続けられないほどたまげた。




