13 悪霊に同情するなかれ
二番目の門を抜ける時、やけに身体に力が入ってしまったが、特別変化は起こらなかった。
ざりっと土を踏み、湊は周囲を見渡す。
左手に池泉庭園があった。
大きな池の中央に中島があり、二本の橋が架かっている。こんな時にもかかわらず、見慣れた風景を目にし、湊は少し肩の強張りが取れた。
ともあれ気は抜けない。
右手を見やると、高床式の大きな家屋があった。
屋根の付いた通路が左右へ伸びており、片側が対屋へ、もう片側はすぐに直角に曲がって池へと張り出している。
「こういう建物って、寝殿造というんでしたっけ?」
「ああ、そうだろうな。なぜわざわざこんな古い造りの建物にしたんだ――」
唐突に口ごもった播磨は、実に嫌そうに顔を歪めた。
「どうしました?」
「――祖の神と先祖が出会った時代の物なんだと思ってな」
「じゃあ、お二方が出逢われたのは、平安の頃なんですね」
「ああ、そう聞いている。それで、ここは思い出の建物なのかもしれないなと思ってな……」
「あー……。なんかこうむずがゆくなりますね」
「わかってもらえて助かる」
そろってしょっぱい顔をしながら、もっとも広大な寝殿に近づいた。正面に数段の階段があり、廊下を隔てて蔀戸となっている。すべて閉ざされ、内部はうかがえない。
「やっぱり、一番大きなあの部屋に脱出口があるんですかね?」
「そうだろうか。一番奥の部屋にあるのが定石じゃないか?」
「あ、言われてみればたしかに。じゃあ、北側にあるのかな。そういう造りでしたよね?」
「ああ、そうだったはずだが……待て。祖の神のことだからお約束の場所は避けて、そのへんの廊下にでも置いたかもしれない」
「――常に気を張っておかなければなりませんね……」
「ああ。とりあえず、寝殿からいくか」
はいと答えた湊であったが、ぎょっと目をむく。播磨が革靴のまま階段を上がり、そのまま板敷きの廊下を踏んだのだ。つい反射的に叫んだ。
「播磨さん、土足であがるんですか!?」
なにせ現実の世界では、こういう歴史的建造物の管理は厳しく行われており、保存の観点から裸足で歩くことも禁止されているものだ。
振り向いた播磨は呆れ果てた顔をしていた。
「当然だろう。こんな時にそんな些末なことは気にするなと何度言えば、貴公は理解するのか――」
そんなこと、一度も言われたことはない。
虚をつかれると、なぜか播磨も同じように瞠目していた。ややうつむき、眼鏡に触れる。
「――い、いや、なんでもない」
手で隠れてその表情は見えないが、ひどく動揺しているようだ。
おそらく誰かと勘違いしたのだろう。特に言及はせず、湊も靴を脱ぐことなく廊下にあがった。
寝殿内は、丸い柱が林立するだけの広大な空間であった。
梁がむき出しの天井も相まって、余計殺風景さが強調されている。
播磨の肩越しに湊はそれを見た。
「これといって目立つものはないですね。というより、悪霊もいない……ですよね?」
「そう見えるな」
と同意してくれた播磨であるが、その目、雰囲気から緊張感が伝わってくる。その足が一列に並ぶ柱の間を通り過ぎた。
その時、左右に突然調度品が現れる。屏風、衝立、置き畳、和櫃、円座。今の時代で見かける物も少ないが、やはり年代物だと感じる。
そうして、実際に人々が暮らしていたであろう息遣いも。
それらが、播磨が進むごとに増していく。
その後ろに立ち尽くす湊は、改めてここは播磨のために用意された神域なのだと痛感した。
ハッと我に返り、室内に踏み込んだ。
播磨から離れすぎたら、どうなるかわからない。
なるべくそばにいるべきだ。
数歩の距離を保ってついていく間も室内の様相は変わっていった。
物と色にあふれた左右へと播磨は油断なく視線を走らせている。湊も感覚を研ぎすませ、異質な所はないか、異分子はないかを探った。
悪霊は播磨に任せておけばいい。己は脱出口を捜すべきだ。
普段から方丈山を歩き、四霊の声を聴こうと視覚以外の感覚を鍛えているため、おそらく何かしらに気づけるはず。
そう思っていると、突如行く手に正方形の御台が出現した。その天井部と側面を隠すよう、ふさりと帳が垂れ下がった。
「あれは御帳台でしたっけ。いままでと明らかに雰囲気が違いますよね?」
「ああ、ここだろう。間違いなく」
「あれですかね、あの帳を開けたら、わっと悪霊が飛び出してくるとか?」
「どちらかというとその方がいい。わかりやすいからな」
「そういうものですか?」
「ああ。どうもここの悪霊は外界のモノとは違ってやりにくい」
嫌そうなその言い方から推し量れはしないが、この寝殿の居心地の悪さは理解できる。
音は一切ない。けれども、人々の気配だけは感じるから、気味が悪くてしょうがない。
正直なところ、一秒でも早くここから退散したかった。
ならば、いかにもといった様相の御帳台を見ぬわけにはいくまい。
ぴたりと閉ざされた帳の奥からは何も気配は感じ取れなかった。
「――あそこは、身分の高い人の寝所じゃありませんでしたっけ?」
「そうかもな」
一般的に踏み込むのはためらわれる場所であろうが、播磨はお構いなしであった。その足は止まらず、躊躇することもなく帳をまくり上げた。
途端、瘴気があふれ出す。火山の噴火めいた勢いで、周囲の景色が黒一色に塗りつぶされた。
顔色をなくした湊は、鼻周りを腕で覆う。必死に目を凝らし、播磨を見た。
帳をつかんだまま、中を凝視している。何かしら術を行使する様子はない。
ただ何かを見据えている。
悪霊が襲いかかってくる様子もなく、湊もおそるおそる近づき、帳の隙間から内部をのぞき見て息を呑んだ。
二人の妙齢の女性がいた。
片方が褥に横たわり、もう片方がその枕元に座っている。病人とそれに付き添う者ではないのは、明白であった。もがき苦しむ襦袢姿の者を、幾重にも衣を重ねた和装の女性が底冷えのする目で見下ろしているからだ。
和装の女性が目を光らせた。直後、下の女性が悲鳴をあげて七転八倒した。
「もっと、もっとじゃ。もっと、苦しむがよい。うぬが盛った毒で死んだわらわの苦しみはその程度のものではなかったぞ。もっと苦しむがよい……!」
和装の女性の血を吐くような呪いの言葉に合わせ、その長い髪の先端が四方へと広がる。その女は生者ではないのだと今さらながら湊は気づいた。
呪っている。
霊魂のみとなってなお怨敵を呪い殺そうとしているのだ。
そんな凄惨な光景を受け入れがたく、湊は自ずと半歩さがった。
和装の女がちらと播磨を見上げた。
「うぬも見ていくがよい」
その言動から認識できるようだ。
とはいえ声をかけられた播磨が反応を返すことはない。
ただ見下ろされているだけにもかかわらず、和装の女は眼下の女を指さしながら事情を語る。
「こやつはな、餓鬼にも劣る下郎なのじゃ。己が恋い慕う相手の想い人たるわらわに毒を盛りよった。信じられぬであろう? なんの罪もいわれもないわらわを殺しよったのじゃ。ゆえにこの下郎は死してしかるべきと思わぬか? 苦しみぬいたあげく死ぬのが妥当じゃ。うぬもそう思わぬか?」
己が行為を正当化すべく肯定してほしいのだろう。憐れみを誘うような表情も浮かべている。
やけに人間くさいと湊は思う。その思考は人間のままだ。それもそうだろう、死んだところで急に変わりはすまい。
湊が痛ましげに見つめるその身は、まだ人間の形を保ったままだ。しかしその身からは絶えず瘴気を発し、その量、濃度は徐々に増していった。
播磨はただ印を結んだ。
悪霊へと変貌してゆく者への情けの言葉をかけることもなく、眉一つ動かすこともなく、呪を唱えた。
和装の女が達磨のように膨れ、はじけ飛ぶ。
ほどなくして、横たわっていた女性も半透明になり、煙のように消えた。
時同じくして、すべての調度品も消えてしまった。
がらんとなった室内の中央で、棒立ちの湊は思う。
これが陰陽師なのだと。
容赦なく悪霊を祓える者なのだと。
己とはまるで種族が異なるような黒衣の男が、あたりを見渡したあとこちらを向いた。
「次にいくか」
「あ、はい」
寝殿を出ていく後ろ姿に引っ張られるように、湊はついていった。