26 特別なペンダントは持っていません
どうして、今日も戦っているのだろう。
湊は胸中で嘆きながらも、低層のビルの屋上から隣り合うビルに飛び移る。
自力でどれだけ助走をつけようと跳べない距離でさえ、風を噴射するように放ち、移動し続けた。
四方はビルに埋め尽くされており、足場に困らぬ。
低層から高層まで各種取りそろっており、下方に張りめぐらされた道路には人っ子一人いない。乗り物すら一つとして存在しない。
奇妙なその空間に響くのは、高層ビルを足場にして湊と並走するスサノオが立てる物音のみだ。その手に握られた剣が、陽光を弾いて煌めいた。
ここは、スサノオんちである。
合掌造りの家が点在する里山風景から、近代的なビル街に模様替えしたらしい。
なぜ、こうなったのかというと、昼前に敷地外の清掃を終えた湊が裏門をくぐったら、ここに踏み込んでいたからであった。
神域への入り口は、どこにもなかったというのに。
ニマニマ嗤って出迎えてくれたスサノオは、いらん御業を身につけたようだ。
避けることも逃げることもできず、スサノオの戦闘の相手をする羽目になっていた。
昨日、田神と遊んだから、その動きは精彩を欠くも、常人離れしつつあるのは否定できない。
今日は午後から、御山の登山道を見にいく予定であった。
が、いけないかもしれぬ。精根尽き果てそうだ。
ビルの屋上を駆ける湊は、胸の内で盛大なるため息を吐いた。その間も、スサノオが剣から放った暴風を風の刃で斬り捨てた。
スサノオが高層ビルの屋上から高く跳ぶ。その両の手が握る神剣が、荒々しい風を放った。
振り下ろされたその剣の真下には、湊がいる。
剣が届く前に、爆発的な気流が低層ビルの表層を割り砕き、ガラス窓も粉砕し、地表へ降り注いだ。
その頃、湊ははるか先の屋上を跳んでいる。冷や汗を流しながら。
「容赦なさすぎる……ッ」
昨日はかろうじてあった余裕は一切ない。ひたすら逃げるしかない。
それを追う破壊王は、新調した景観も喜々としてぶっ壊していく。
「せっかく足場用意してやったんだ。そんな低いとこばっか移動してんなよッ、と」
後方のスサノオが剣を片手なぐりに薙いだ。湊が足場にしていたがビルに横一文字の線が入る。跳躍した湊の靴が離れた途端、スライドして滑り落ちていった。
白煙が覆う地表へ、湊は飛んだ。
「高い所を飛び回るなんて慣れないんだよ! こっちはただの人間なんでね!」
ハーハハハハ! 喉を晒したスサノオが、高らかに笑い飛ばす。そのご尊顔が湊に向いた時には、真顔になっていた。
「じゃあ、慣れるまでここで遊べばいい」
「無茶を言う……ッ」
視界を塞ぐ煙の中を疾駆する湊が、跳ねる声で応えた。
ビルからビルへ飛び移るのはやれないことはないが、決死の覚悟がいるうえ、肝も冷える。
固くゆるぎない地面に靴底がついた瞬間の安堵さといったらなかった。
が、それはほんの一瞬で強制終了となる。
鉄塔の横をがむしゃらに駆ける途中、後方の煙を割ったスサノオが迫りくる。その剣尖は湊の心臓部に定まっていた。
実際に刺す気はなくとも、あえて向けてくるのだから意地が悪い。
かえりみた湊が手刀を振り抜く。蒼い筋を引いて風の刃が大気を走った。
それは鋭利でも、大きさはさほどない。
けれども、放つごとに色の濃度は上がってきていた。神威の量も増加しているということだ。
スサノオは、向かってくる風の刃が間合いに入る直前、立ち止まった。
剣を体の正中線にまっすぐ立てて構える。
剣身に触れた風の刃が真っ二つに裂けた。
片やビルを掠め、片や鉄塔を斬り裂き、ガラス片が派手に舞い散った。
スサノオの頭髪、衣服をかき乱すだけで、傷一つ与えられなかった。
倒壊による爆音が轟く中、スサノオは剣を肩にかついで顎をさする。
「まァ、風の威力は悪くはねェが――」
言いかけた途中、その頭上に光る網が広がっていた。
目を見張ったスサノオを包み、急速に閉じていく。
その網に、実体を締め上げる力はない。
しぼむように閉じた網は身体――心臓部の中へ入っていった。
スサノオは動かず、ただ成り行きを眺めている。
ややあって、その胸から長く伸びた糸を剣で斬った。
まったく通用しなかった。一秒ですら動きを止めることもできなかった。
悔しげな湊をスサノオが見やる。
「姉さんの力を扱えるようになったのは進歩だ。でもなァ、ガッタガタなんだよ。ぜんッぜん俺を閉じ込めきれてねェ。編み上げた六角形もバラバラだったしよォ」
「――俺、疲れてるんだけど」
言い訳かもしれないがいちおう言った。スサノオはただ湊の心臓部――魂をじっと見つめた。
「それもあるかもだが、姉さんの力が少ねェせいでもあるなァ」
「少しだけとは言われたね。俺的には十分だけど」
「何言ってやがる。滅多に貸すことなんざねェんだ。どうせ貸すならもっと景気よく与えりゃァいいんだよ。ケチくせェ」
湊は答えない。服を叩いて埃を払っている。
下手なことは言うものではない。罰が当たりそうだ。代わりに質問を投げた。
「スサノオさんは、たくさん貸し与えたりするってこと?」
「いんや、一度もねェ。人間になんざ、貸すわけねェだろォ」
ひどい渋面である。本気で嫌そうだ。
「他人様じゃなくて、他の神様をどうこう言えないと思う」
「おし、そろそろ引き上げようぜェ」
聞こえないふりをしたスサノオは、剣を空中に放って粒子に変えた。
傍若無人な神が剣さえ手放せば、戦闘は終わりである。
これで楠木邸に戻って休めると、ようやく湊は気が抜けた。
それしか頭にない彼の横に、つかつかと軽い足取りで寄ったスサノオが立った。
――なにゆえ。
不可解げな湊に向かい、スサノオはその顔をのぞき込むようにして告げた。
「なァ、知ってるか? 人間ってやつは、極限状態になると思いもよらない力を引き出せるってこと」
「はぁ、火事場のなんとか力みたいな、そういうの?」
「ああ、それだそれ。知ってんじゃねェか。んじゃ、またなァ」
湊の背中がバシンと叩かれた。
景気づけのようなもので、ちょっと片足が前へ出たくらいだ。
が、その靴底が踏むはずであったひび割れたアスファルトも、目に前にそびえていたビル群も、一つ残らず消失してしまった。
「は?」
理解が追いつかないまま、湊は真っ逆さまに落ちていった。
なぜか、楠木邸の上空――ビル十階相当からスカイダイビングとなった。
信じられぬ。もう風を打つ力もほとんど残ってないというのに。
無理やり首を回して見上げると、超絶笑顔のスサノオが遠ざかっていった。
スサノオは厳しい。
その容赦のなさは、獅子が己の子を千尋の谷に突き落とすかのごとく。
ともかく、スサノオはあえて湊が疲れている時を狙ったのだろう。神の力のさらなる向上を促すために。
戦闘狂はこれだから困る。
苦い気持ちがわき上がってくるも、そんなことより、加速度的に楠木邸が迫ってくる。落下先はちょうど庭になるあたり、暴風の神も小憎い。
力を振り絞るしかあるまい。
湊は、伸ばした片手の手首をつかみ、手のひらから風を放とうとした。
瞬間、バフッとあたたかな風の繭に包まれた。
相次いでいくつもの風の塊が身体の前面に当たってくる。急激に落下速度が衰え、ゆるやかに下降していく。
風の精たちだ。
いつもはちょっかいだけかけてくる彼らだが、今回は助けてくれたらしい。
「みんな、ありがとう」
わさわさと頭髪をかき混ぜられた。
――そのほんのわずか前、御山の山神家本宅にて。
そこは御山の中腹に位置し、うっそうとした木立に囲まれた大岩群である。
その中央で山神が寝そべっている。
楠木邸であろうと自宅であろうと変わらず、怠惰に過ごしていた。
うとうととまどろんでいたが、セリの念話で無理やり意識を叩き起こされることになった。
『山神! 空から湊が!』
やけに焦った大声であった。
たちまち視覚が共有され、映像も見えた。
楠木邸の裏門あたりから見上げた先、中空に浮かぶスサノオの神域から、湊が落ちてくるところであった。
四肢が広がったその身は、昨日以上に疲弊しているから、ろくに風は放てまい。
楠木邸の露天風呂は肉体的な疲労は取れるが、神々の力と祓いの力は回復しないようになっている。
あえてそうしていた。地道な努力を惜しまない湊は、力を行使し続けるからだ。
走り続けられる人間など、この世にいやしない。休むことも肝要だと身をもって学ぶべきだ。
そうでなければ、湊の魂そのものが疲れ切ってしまう。
だというのに、周りが放っておいてくれない。難儀な星回りの男である。
「――セリよ。いざという時は、受け止めてやるがよい」
『わかりました!』
山神は深々と息を吐き出し、緩慢に起き上がった。
そんな山神家の懸念をよそに、風の精たちの働きにより、湊の両足は無事敷地内に降り立った。
強めの風を吹かしつつ、風の精たちが上空へ舞い上がっていく。湊は、片手を振って見送った。
頭髪と服のバタつきが収まったあと、背後を見やる。
「あ」
シュッと石灯籠の火袋に白い塊が入っていき、すぐさまガラス窓が閉ざされてしまった。
詳細は知れなかったが、神霊である。
「素早い……」
昨日、湊と山神が楠木邸に帰ってきた時も同様であった。神霊は湊が不在の間は、火袋から出ているのだと知ってしまった。
顔を合わせたくないかもしれぬが、火袋に収まるのなら、湊を嫌悪してはいまい。
神は己に正直な存在だ。
本気で嫌ならさっさとここを出て、御山にいっているだろう。
そうしてもう一つ、昨日、火袋の前に夏みかんも置かれていた。
神霊にあげたそれは、砕かれたと表現するしかない惨憺たる有り様になっていた。
決して、腹いせに八つ裂きにしようとしたわけではなかろう。手や爪で引っかき、突き刺し、ほじって食べようとしたのだ。
湊は、察した。神霊は、皮がむけなかったのだと。
というわけで、神霊が起きているうちに交流を図ってみることにした。
夏みかんを持った湊が、火袋の真正面に立った。
無言で夏みかんをむいていくと、あたりに甘酸っぱい香りが拡散した。
すっとガラス窓がわずかに引き上がった。
それは、シャッターの構造をしている。
コトコト、コトコト。鼻先でガラス窓を押し上げたり、下げたりと忙しない。
見え隠れするその鼻は、かなり小さい。
フゴフゴとひくつく小鼻の横に、ピンと長く伸びる黒いヒゲがある。
リスに似ているが、少し違うかもしれぬ。ネズミであろうか。
脳内で見当をつけながら、湊は丁寧に白いスジを取っていった。ジリジリしている神霊を視界の端で捉えつつ、オレンジ色の身を割る。
ちょろっとガラス窓の隙間から手――前足が出てきた。
ちょうだい、ちょうだい、と宙をかくその先は枝分かれして、指がある。
やはりリスかもしれぬ。
思いながら湊は、そっとその前足に一房近づけた。
さっと掠め取られ、紗の掛かったガラス窓の向こうに持っていかれてしまった。甘酸っぱい芳香が強くなる。
むさぼり食っておられる。
想像した湊の表情筋がゆるむ。
湊は、動物のお食事シーンが大好きである。
ぜひとも、見たい。観察したい。
だが、焦りは禁物だ。次を催促されるまで、ただ待った。
それからいくらもしないうちに最後の一房となった。
それを手渡すとガラス窓がさらに上がり、ようやく神霊の全貌があらわになった。




