24 神は軽率に祟るという
黄金の景色の中、家屋を背に立つカカシと湊が対峙している。その距離、家二軒分。互いに戦闘態勢を取りもせず、突っ立ったままだ。
緊張感や緊迫感は皆無である。
「では、ワタシからいこう」
殺意も闘気もないかけ声と同時、カカシが回転した。
その速度が上がり、風の渦が生じる。その勢いに巻き込まれた数多の稲がカカシの姿を隠していく。
瞬く間につむじ風が形成されても、家屋はまったく影響を受けていない。
――ただの遊び。田の神はその言葉を守り、家内の裏島を巻き込む気は毛頭ないようだ。
むしろ彼女を守るべく、退場させたのだろう。
湊にしてもありがたかった。人の枠からはみ出した姿は、極力他者に見られたくない。
そう考える湊を中心に、翡翠の色を帯びた風が巻いている。至って冷静に自らを防御していた。それなりに守りの風は使いこなしてきており、危なげはない。
それに、つい先日荒々しいスサノオと一戦交えたこともあり、気負いもなかった。意図せず鍛えられたおかげともいえよう。
スサノオの面で襲いくる暴風は、厄介極まりなかったが、渦巻き状の風もなかなか手を焼かされそうだ。
なお湊は、特に意識せずに風を放つと翡翠色を帯びるのだと、自らの目で視認できるようになった。
むろん風のみならず、祓いの力を込めて書いた字も同様である。こちらはうっすらとだが、日増しに濃く映るようになってきている。
山神曰く。それらが視えるようになったのは、翡翠の色を実際に目にしたことで、その色が己の色だとしかと認識したゆえだという。
ならば、それは天狐のおかげであろう。
「ほいほいと」
気の抜ける声とともに風の渦をまとうカカシが、ゆらめきながら寄ってきた。今やその風の直径は家屋と同等に育っている。
少しの移動距離で、湊の風とぶつかった。翡翠の風が消失した途端、湊は後ろへ飛び退った。
「おや? すごく脆いね、キミの風」
湊は応えない。冷静に田の神の力を計っていた。
決して侮っているわけではないが、目前の神は武神ではない。神威入りの風でなくとも、応戦できるのではないかと試してみた。
が、結果はご覧の通り。
いとも容易く消されてしまい、まったく歯が立たないことが証明された。
――やはり神に対抗できるのは、神の力だけだ。
湊の両手――十指の先端が光を放つ。
どこまでも澄んだその蒼い光は、風神の色――神威をまとった証だ。
「いきますね」
相手に倣って声をかけざま、腕を振り抜いた。
蒼い軌跡が走り、風の大刃がつむじ風を二つに斬り裂き、カカシの一本足へ迫った。
当たる間際、とんとカカシが高く跳躍した。
湊の黒い頭のはるか上を越え、その背後へ。振り向いた湊が放った二刃目がその着地点を襲う。
「おっと、危ない」
宙で跳ねたカカシは、またも身軽に避けた。
地でトントン跳ぶカカシが首をかしげた。
「いやに対処が早い。戦い慣れてるようだね」
「そうでもないですけど……。田の神様と同じく風神様の力に興味を持たれた方に、長時間挑まれました」
「わかる。そりゃあキミに興味持つよ、皆」
「皆……?」
「神らだ」
我が国の神々はそんなに好戦的な御方ばかりなのか。
苦い表情を浮かべた湊の視線の先で、カカシが一本足を軸に左右へ大きく振れる。
やじろべえの動きは、余裕の表れか。
「やはり田の神なのだよ、ワタシは」
ゆれながらも、世の真理を語るかのように宣った。
いかんせん、その口調は羽根のごとく軽い。山神とは別の意味で自由な神である。
「はぁ、そうなんですね」
湊は他に言いようがなかった。
ピタッとカカシの動きが止まり、直立した。
「ワタシには、風は扱いづらいんだ。だから得意分野で遊ぶことにする」
「得意分野……田んぼですか?」
「そうだ」
カカシが回る。ゆっくり回転する速度に合わせ、カカシの顔が向いたほうから稲穂が刈られていった。
驚嘆すべき速さで稲刈りが終わり、野面には根株すら残っていない。
見渡した湊の眉尻が下がった。
「一気に寂しくなっちゃいましたね」
「ああ。やはり、田は稲穂がある姿がもっともいいよね」
「そうですね。でも、俺は水田風景も好きですけど」
惰性で回っていたカカシが、湊の正面で静止した。
表情一つ変わらぬものの気配が尖り、湊は片足を引いた。
「先ほど、とても不愉快な人間がいたんだ」
カカシのその声調はガラリと変わっていた。
低音のひび割れた声が響くや、大気がうねり、羊雲も散りゆく。湊の鼓膜をも激しく打った。
かといって、手で耳を塞ぐわけにもいかぬ。
固く握られた湊の腕に筋が浮いた。
「――どのような、人間ですか……?」
「田が臭いと喚き、あまつさえ田はなくなればいいとほざく輩だ。吐きそうな悪臭を己の魂から垂れ流しておきながら……!」
田の神が怒気を発し、その周辺の土埃がいくつも渦巻いて立ち上り、湊はさらに数歩下がった。
よほど腹に据えかねたのだろう。
身構えながらも、湊は相槌を打ちかねた。
人間性に難のある者の魂は悪臭がするのだと、今日、山神とツムギとも話題にしたばかりだ。
カカシがますます荒ぶり、跳ねるその足元からヒビが四方へ走った。
「よくそんなことが言えたものだよ……! ワタシがいるこの場でね……!」
「――たいていの者は、その場に神様がいらっしゃるか、わからないと思います……」
なんのフォローにもなりはしないが、いちおう告げた。いなければ、何を言ってもいいわけでもないけれども。
家屋五軒分は離れた湊へ向かい、カカシはやや上体を反らした。
「ここに田の神がいるのは、有名なのだよ。地元の者なら知らないはずがない。皆カカシさんと呼び慕ってくれる。この体も奉納されたモノなんだ」
「――そうだったんですね。存じませんでした」
湊は声を張った。なにぶん遠い。
ともあれ、裏島が田の神の御身に驚きもせず、親しみを込めて名を呼んでいたのに合点がいった。
地元民の彼女なら、あらかじめ田の神の存在を知っていたに違いない。
「無理もない。キミは地元民とほとんど交流しないからね」
カカシは淡々と言った。
湊はまったく気づけなかったが、楠木邸のそばに御座すのなら、知っているのは当たり前だ。
やや鎮まった田の神だったが、またもや荒れた雰囲気を醸し出す。それに呼応し、全域の野面が激しく波打った。
「それで、思ったんだ。そのふざけたヤツを二度と米が食えない身体にしてやろうかと――」
足場の危うくなった湊は、ちょこちょこ移動しつつ黙って拝聴した。
その間、かつて雷神から『神は軽率に祟るから気をつけなさいよ』と言われたのを思い出した。
至って軽い口調であったが顔つきは真剣で、その言葉になんら誇張はないと、否応なしに理解させられたものだ。
神はやると言ったらやる。
田の神も本気だったに違いない。他人事ながら湊の顔色は悪くなった。
それからなぜか、突然、田の神は荒ぶった気を鎮めた。
「――でも、今回は見逃してあげたよ。ワタシが祟る前に、山のモノたちが面白いことをしていたからね」
愉快げに嗤い、その身をメトロノームよろしくゆらした。




