19 気になるご様子
退魔師たちは、和室が続く間から一歩も出られない。
さんざん暴れ、襖、障子を引き裂き、外した彼らであったが、最奥の四枚の襖だけには手をつけなかった。
そこから先にも、和室が延々と続いているかもしれない。
もしそれを目の当たりにしてしまえば、何かが確実に壊れてしまいそうで、近寄ることもできなかった。
威勢のよかった短躯の男は今や、八畳に寝転んだまま動かず、諦めの悪かった長躯の男も引き戸にもたれ、膝を抱えていた。
その戸も庭に面した窓もまったく開かなかった。
しかし、それだけだ。
とりわけ、恐ろしいことが起こるわけでもない。
そう気づくや、彼らは無気力になっていた。
面倒なことは嫌いで、いかに楽をして金を得ることしか頭にない人間たちが根気、やる気を継続させることなど、できるはずもなかった。
「……腹減ったっスね」
視線すら動かさず短躯の男がつぶやいたら、ある匂いが香った。
夏みかんではない。それは――。
「みそ汁の匂いだ……!」
跳ね起きて、匂いが漂ってきたほう――最奥の襖へ駆け出した。
ここに閉じ込められてから数時間経過しており、どうしようもなく空腹であった。
同じ境遇の長躯の男もあとに続き、最奥に到達した短躯の男が襖を引き開ける。
十四畳の和室だ。中央に座卓のみが置かれており、二人分の和食が用意されていた。
白米、みそ汁、煮魚。至って質素な一汁一菜だが、浅く盛られたご飯、青菜満載のみそ汁、味が染みた金目鯛の煮付けから、湯気が立ち上っている。
「スゲェうまそう!」
歓声をあげてさっそく席につき、豪快にみそ汁をすすった。
「うっま! みそ汁がゴゾーロップに染み渡る!」
うまいうまい。さかんに絶賛しつつ、青菜をむさぼり食う。
同じく席についてた長躯の男が白米をかき込んでいると、ふわり。
――夏みかんの芳香が、二人を包んだ。
ゴトッ。短躯の手から落下した汁椀の中身が、座卓にぶちまけられた。
「……ッ!」
両手で自らの首を縊るように握り、真後ろへ倒れた。変色した口から泡を吹き、のたうち回る。徐々に動きが鈍っていき、やがて痙攣も止まった。
それを長躯の男は、呆然と眺めていた。
「――お、おい……どうしたんだよ……!」
呼吸を止めたその喉が返事を返すことはない。
「ま、まさか、し、死んだのかッ!?」
長躯の男が壁に後ずさった。その拍子にゴロリと転がった汁椀が、白目をむく横顔に当たる。
ぴちゃん。座卓からしたたり落ちたみそ汁が畳で弾けた。
◯
楠木邸の玄関前に、二人の退魔師が立っている。
遠慮の欠片もない短躯の男は、玄関扉を叩いた。ドアノブを回しつつ、声を張り上げた。
「楠木さーん、いい加減起きて、出てこいよって……。あれ?」
玄関扉が開いた。
――一度目と同じように。
「マジか。門だけじゃなくて、玄関まで開けたまんま寝てるんでやスかね」
「無用心極まりねぇな」
「っスね」
せせら笑いながら、玄関扉を開いた。
さわやかな香りがまたも彼らの鼻をくすぐって通り抜けていった。
「スゲェみかんの匂いしやスね」
「ああ……。けどすぐ消えたな……」
――不届き者たちは気づかぬうちに、二回目を繰り返す。
家宅侵入した彼らがそれからたどった過程は、一度目とさほど変わらなかった。短躯の男が頓死して終わった。
死因は、毒である。
眷属三匹の名の由来であるドクゼリ・トリカブト・ドクウツギの毒成分を上げて、ぜ〜んぶ混ぜたみそ汁が原因だ。
とはいえ実際、死んではいない。
眷属たちが神域内の時間を操り、短躯の男が毒死したら、玄関前――振り出しに戻していた。
記憶も元通りにしているが、完全にではない。
恐怖体験の記憶に蓋をしただけで、繰り返せばするほど、その記憶は無意識領域に蓄積されていく。
それが、あるモノをきっかけにその蓋がゆるむように仕向けていた。
夏みかんの芳香である。
嗅覚は脳の扁桃体と海馬という記憶と感情を処理する部位に接続されており、特定の香りが記憶を想起させるトリガーになる。
夏みかんの香りを嗅ぐたび、身の毛もよだつ恐怖体験がよみがえることになる。
退魔師たちは、知らぬ間にそんな仕込みを施されていった。
繰り返す回数が上がるにつれ、少しずつ変化が生じ、夏みかんが香れば、情緒不安定になった。
いつの間にか、夏みかんの皮がインテリアの顔をして和箪笥の上に積まれていた。
むろん中身はない。眷属たちが食べた残骸である。
一念岩をも通す。為せば成る。
それらを信条とする眷属たちが執拗に繰り返し続け、百八回目。
長躯の男が玄関扉を開いた瞬間、濃厚な夏みかん臭が二人を取り囲んだ。
結果、劇的な変化が起こった。
一挙に顔色をなくした二人は、身を翻した。
肩をつかみ合い、腕を引き合い、ぶつかり合い、我先にと表門を抜けていく。
先に短躯が砂利道を踏んだ。
その肩を後ろの長躯がつかんで押しのけ、ふっ飛んだ短躯が顔面スライディングで砂利をかき分けた。
むき出しの手足にさらに擦り傷がつくも、ひた走る朋輩は頓着しない。
「ちっくしょおッ」
乱れきった服装の男たちが細道をこけつ転つ遠ざかっていった。
それを数寄屋門に並び立つ眷属三匹が見送り、同時に前足で空を一閃。音もなく格子戸が閉まった。
ふっと楠木邸敷地を覆う空気が変わる。
眷属たちによる神域を解き、普段の山神の神域に戻した。
敷地外のクスノキたちがさわさわゆれる中、軽く息をついたセリが前足を屋根におろした。
「これに懲りて、ここら界隈に二度とこないならよいのですが……」
「だな。楽観はできないが」
「だよね。かなりしつこく香りを覚え込ませたけど、人間って時間が経てばすぐ忘れちゃう生き物だからね〜」
うんうんと三匹がしかめた面で頷き合った。
退魔師たちは夏みかんの芳香を嗅いだ時だけ、とてつもない恐怖に駆られる。
けれども、理由はわからない。
原因に心当たりがないのは、より心胆寒からしめよう。
加えて、夏みかん以外の柑橘類でも同じ効果が期待できる。
「またやつらが来た時は、みかん攻めにしてやりましょう」
セリが告げたら、他二匹も大きく頷く。
「だな。そうしよう」
「もっちろん皮だけでね!」
「玄関にみかんの芳香剤を置くよう、湊に提案してみましょうか」
「神の実のほうがいいじゃないか? 人工の物と違って半永久的に香りが続くだろうからな。――ただ、どこから入手するかが問題だが……」
「ツムギに訊いてみようよ。そっち絡み詳しそうだしね!」
そうしましょう、だなと明るい声をあげる眷属たちは、屋根を伝って御山側の塀を渡っていく。
その下方、神の庭では何事もなかったように――実際何もなく、普段通りの風景が見られた。
軽やかな音を奏でる滝を昇る応龍。大岩でうたた寝中の霊亀。クスノキに寄り添ってまどろむ麒麟。
桜真珠色が点滅する石灯籠では、鳳凰が健やかにお休み中だ。
もう片方の石灯籠は、ガラス窓が開いている。
そこから、神霊がちょっこりと頭だけをのぞかせていた。けれどもその白い小動物は、眷属たちを見るや、たちまち頭を引っ込めてしまった。
塀から御山へ跳ぼうとしていたセリの足が止まる。後続のトリカが小首をかしげた。
「どうした?」
「新入りに声をかけるべきかと思いまして……」
トリカは振り返らない。
斜め下方で、ガラス窓が素早く閉ざされたのを気配だけで察知していた。
「まだ、いいだろう。いろいろ準備ができていないようだしな」
「――そのようですね」
とっくに御山へ跳躍していたウツギの軌跡をなぞるように、セリに続いてトリカも華麗に跳んだ。
 




