55.あの日④
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「暖かくなって良かったわね」
湖畔で敷物を敷きながら祖母が言った。朝吹き荒れていた風はどこかに消え去り、湖畔にあるのは春を先取りしたような、ほっとするような太陽の温かさだった。
リリーは、胸に抱えた落ち葉まみれのポポを綺麗にしながら、すまし顔で顎を逸らした。
「ね? 来てよかったでしょ? おばあちゃんは心配しすぎるのよ!」
「えぇ。リリーの言う通りにして良かったわ。ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして!」
祖母にお礼を言われて、リリーはニンマリした。
(もっともっとおばあちゃんに来て良かったって思ってもらいたいわ!)
すっかりいい気になったリリーは、昼食後、祖母にあることを持ちかけた。
「ねぇ、おばあちゃん! 一緒にボートに乗らない?」
「ボート?」
首を傾げる祖母に、リリーは桟橋に係留されたボートを指さした。
「あれよ! 前に来たときに乗ろうって言ってたのに、時間がなくて乗れなかったじゃない?」
その年の夏、珍しく両親も揃って湖畔でピクニックをする機会があった。しかし、その時は両親の仕事の関係で、慌ただしく敷物の上で食事をしただけで帰る羽目になったのだ。今日はこの後に予定もないのでボートで遊ぶ時間は十分にある。
「ね? いいでしょ? 冬の方が水も澄んでて綺麗だし、ボートには最適よ!」
鼻息荒く祖母に詰め寄ると、祖母は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「うふふ、そんなに楽しみにしてたなら、乗らないわけにはいかないわね」
「やった~!」
「ぽぽぅ~!」
リリーとポポは歓声を上げると、我先に桟橋へと駆け出した。
「そんなにはしゃぐと危ないわよ」
と言いながら、敷物から腰を上げた祖母も楽しげである。
ボートに乗り込むと、祖母がオールを手にして湖に漕ぎ出した。
ボートは水の上を滑るように進み、あっという間に岸から離れる。水は透き通っていて、ボートの下を通る魚もよく見えた。
「ぽぅぽぅっ!」
魚を見て興奮したポポは、湖に飛び込む勢いでボートの縁に身を乗り出す。リリーは慌てて後ろからポポを胸に抱き込んだ。
「魚は見るだけ、捕まえちゃダメよ!」
「ぽぅ~」
ジタバタしていたポポだが、たしなめられると大人しくなった。祖母はそんなふたりを楽しそうに見つめている。
「ふふっ、冬にボートに乗るなんて初めてだから興奮してるのよ、ポポも」
「えー、そうなの?」
「ぽおーっ!」
ポポが激しく頭を上下に振るので、リリーと祖母は顔を見合わせて吹き出した。
「あははっ、ポポ、変な顔―!」
「ポポったら……そんなに動いたら、大きな頭が落ちてしまいそうよ」
「ぽっぽう?」
ポポがおどけてさらに小刻みに頭を揺らすので、リリーと祖母は笑い転げた。
湖面が太陽の光を反射してキラキラと輝き、年の瀬も近い真冬にしては珍しいほど、穏やかで、気持ちの良い昼下がりの一時だった。そのときまでは。
●
太陽が傾き始めると、暖かな空気は一変、湖上は真冬の寒さを取り戻した。
風がひゅうっと通り抜け、リリーはブルッと身体を震わせた。
「くしゅっ!」
「ぽぅ?」
心配そうに見上げてくるポポを抱き上げると、ぬくもりがじんわりと伝わってくる。自然と全身の力が抜けていった。
「はぁ~、ポポあったかーい!」
「ぽっぽぉ~」
スリスリと頬ずりすると、ポポはくすぐったそうに身をよじった。
「ん、ん~、ついついうとうとしちゃったわ」
まどろんでいた祖母は大きく伸びをして、身体を温めるように腕を摩った。
「さすがに寒くなってきたわね。そろそろ帰りましょうか」
「おばあちゃん、大丈夫?」
リリーは心配顔で祖母を見る。
「寒いなら、ポポ貸してあげようか?」
「ぽお?」
祖母にポポを差し出すと、ポポも首を傾げて祖母に手を伸ばした。
その姿に、祖母は苦笑し首を振る。
「ポポはリリーを温めてあげて。私はこれから運動するから平気よ」
片目をパチッと瞑って、祖母はオールを手にすると、慣れた手つきで岸へと漕ぎ出そうとした。
しかし、
――ゴオォォォォ
突然、強い風が吹きつけ、その威力でボートが左右に揺さぶられた。祖母がバランスを崩した。
「っ!」
「きゃあっ!」
リリーは思わず声を上げ、胸に抱いていたポポから手を離してボートの縁を掴んだ。ポポは四肢をしっかりと踏ん張って、揺れに耐えている。
「リリー! しっかり掴まってるのよ……!」
祖母は体勢を立て直すと、オールを握り直し、再び漕ぎ出した。一掻き、二掻きするが、風に阻まれて全然前に進まない。
追い打ちを掛けるように、ひときわ強い風が吹き付け、波が高くなった。バシャン、バシャンと波がぶつかり、ボートが大きく左右に揺さぶられる。
「きゃーっ!」
リリーは必死にボートの縁にしがみついた。
(このままじゃ、ボートがひっくり返っちゃうわっ!)
そう思った時だった。
――バッシャーンッ‼
大きな波がボートを襲い、その衝撃で安定感を失ったボートはグラリと傾いた。その拍子にリリーの手がボートから離れてしまった。
(やだっ!)
ふわっと身体が宙に投げ出され、リリーは目をギュッと瞑った。
(落ちる……!)
「リリーっ!」
「ぽぅっ‼」
祖母とポポの悲鳴が聞こえた次の瞬間、襟首をグイッと上に引っ張り上げられた。
「っ……? え、何?」
恐る恐る目を開けて、チラリと後ろに目をやると、
「ふうぅぅぅ!」
「ポポ⁉」
ポポがリリーの襟首を咥え、その小さな翼で羽ばたいていた。どうやら水面にぶつかる前にポポがキャッチしてくれたようだ。宙に浮いた足がブラブラしている。
「ポポ、ありがとう……!」
「ふぅ~」
襟を咥えたままくぐもった返事をするポポから、リリーは眼下に目を向け、青ざめた。
「おばあちゃんっ!」
さっきまで乗っていたボートが、ひっくり返って水面に浮いている。
「おばあちゃんっ! ポポ、早く助けに――」
「リリー、落ち着いて!」
リリーの声を遮って、祖母の声が聞こえた。
よくよく見てみると、転覆したボートのすぐ横の水面の上に、祖母は横座り状態で浮かんでいた。こちらに向かって手を振っている。
「ポポのおかげでなんともないわ! 安心して!」
どうやら守護像の守の力が働いているらしい。祖母をまるごと結界のようなもので包んで、閉じ込めているようだ。
(良かった……おばあちゃんが無事で)
リリーはホッと胸をなで下ろし、首を巡らせた。
「ポポ、早くおばあちゃんの所に――」
「ダメよ!」
祖母の言葉に驚いて下に目を向けると、祖母は真剣な顔でこちらを見上げていた。
「ポポ、あなたはリリーを連れて岸に行きなさい!」
「えっ⁉」
リリーは耳を疑った。祖母がなにを言おうとしているのか、分からない。
「なんで⁉ おばあちゃんは? 一緒じゃなきゃ――」
「ふぅ~っ!」
ポポが同意するように頭の後ろで唸る。しかし、祖母はキッパリと首を横に振った。
「二人一緒には運べないわ! 私なら平気だから、先に行きなさい!」
祖母の強い口調に、ポポは渋るようにその場で空中浮揚していた。しかし、
――ブワッ‼
「きゃあっ‼」
強い風が吹き付け、バランスを崩した。
何とか体勢を立て直したが、風に煽られ、フラフラしている。その姿を見て、祖母は決然と岸を指さした。
「いいから! 早く行って‼」
祖母に再度言われ、ポポは決心したように岸の方に飛び始めた。リリーは慌ててポポを見上げる。
「ポポ! ダメ! 戻ってよ!」
リリーはジタバタしながら抗議する。いくら守護の力があっても、祖母を湖の上に残して行くなんてできない。
「やだっ! ポポ! おばあちゃんも一緒に連れてって‼」
「ふん~っ!」
ポポはリリーの言うことを聞かず、どんどん祖母から遠ざかる。
「おばあちゃん~!」
振り返ろうともがくが、ポポが許してくれない。風は強まり、眼下の湖では波がいくつもできてはぶつかり、湖面全体を波立たせている。耳元で風が唸り声を上げる。
――コォォォォォ……バシャッ‼
その奥で、何かが水面を打つ音が聞こえた。嫌な予感がする。リリーはジタバタと身をよじった。
「ちょっと、ポポ! 早く下ろして‼」
「ふぅぅぅっ!」
しかし、ポポは何としてもリリーを岸まで運ぶつもりのようで、絶対に離そうとしない。ようやく湖岸まで来ると、ポポはそっと降下した。
「おばあちゃんっ!」
足が地面に着き、ポポが襟を離すが早いか、リリーは湖を振り返った。しかし、さっきまで湖上にあった祖母の姿はどこにもなくなっている。
転覆したボートが波に揉まれる姿に、リリーは青ざめた。
「おばあちゃん……‼‼」
とっさに湖に駆け込もうとしたが、目の前にポポが立ち塞がる。
「ぽぽー! ぽぅっ‼」
「ポポ! どいて! 早くしないとおばあちゃんが……!」
「ぽぽぅ!」
ポポはリリーの足にしがみついて、行かせまいとする。その時、森の中から人の声がした。
「お嬢様~? 大奥様~? なかなか帰りが遅いのでお迎えに参りましたよぉ~」
現れたのは、数人の使用人を引き連れたポーラだった。リリーの姿を見て目を丸くする。
「まぁ! どうなさったんです⁉」
「おばあちゃんが……」
リリーは呆然と湖を指さした。そこには、ほとんど水中に沈みかけたボートがあった。
「まぁ……! なんてこと……‼」
状況を理解したポーラは、素早く後ろに控えていた使用人に指示を出し、湖に向かわせた。
「早く行くぞ!」
「波が高い! 気を抜くなっ‼」
辺りで大人達が騒いでいるが、耳に蓋をされたようにぼんやりとして聞こえる。
(なんで……)
リリーはその場にへたり込んだ。
(おばあちゃんは……? なんでいないの……?)
目の前で起きていることが、やけにゆっくりに見えた。
「大奥様~!」
「どこですかーっ!」
湖では使用人が数人、波に呑み込まれそうになりながら、転覆したボートの周りで漂っている。何度も何度も水中に潜り、何度目かの潜水で何かを見つけたらしい。全員で岸に戻ってきた。
水中から、祖母が引き上げられる。
「あぁ……大奥様……!」
ポーラが駆け寄る。
「……っ!」
リリーは息を呑んだ。
岸に横たえられた祖母の顔は、今まで見たことがないくらい真っ白だった。眠っているように瞼を閉じているが、ピクリとも動かない。
「ぽぉぽぉ……」
ポポが横たわる祖母に頬ずりをしても、何の反応も示さない。
その場にいた使用人達は、ただ力なく首を横に振り、ポーラは声を詰まらせながらリリーを抱きしめた。
(なんで……)
頭に靄が掛かったかのように真っ白になっていく。
(おばあちゃん……?)
祖母に近寄りたいのに、身体が動かない。目の前で起きていることが、現実とは思えなかった。さっきまでリリーの名を呼んでいた祖母が、今は一言も発することなく、ただ地面に横たわっている。
(なんで動かないの……? ねぇ、起きてよ……)
声が喉にへばりついて出てこない。
ありったけの力を振り絞り、リリーは抱きしめてくるポーラの身体を重たい腕で押しのけた。
「お嬢様……?」
ポーラの不安そうな声を振り払い、両手両足に力を入れ、地面を四つん這いで祖母に何とか近寄った。
「……っっ、おばあ、ちゃんっ……」
かすれた声が口から漏れる。
そっと触れた祖母の右手は、信じたくないほど冷たかった。
「55.あの日④」おわり。「56.あの日⑤」につづく。




