50.湖③sideリリー
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(おばあちゃん……)
リリーは胸の前で手をギュッと握りしめ、波打ち際まで近づいていった。
あの日以来、はじめてやって来た湖を目の前に、あのときの光景が蘇ってきた。
急に降り出した雨で激しく波打つ水面。風はゴォゴォと吹きすさみ、身体から徐々に熱を奪っていく。そして――。
リリーはギュッと自分の身体を抱きしめた。
(ごめんなさい……ごめんなさい……私のせいで……)
固く目を閉じ、ぐっと下唇を噛む。
――さぁぁぁ
耳元で風が唸った。
その奥から、かすかに祖母の声が聞こえた気がした。
(あのときも、たしかおばあちゃんは……)
ボートの上から、なにかを叫んでいた気がする。自分と、そしてポポに。
だけど、何と言っていたか思い出せなかった。記憶をたどろうと思っても、雨音にかき消されて、必死に叫ぶ祖母の顔しか思い出せない。
――ぶわっ
「きゃっ……!」
突然、風が強さを増し、リリーの帽子を勢いよく吹き飛ばした。風に攫われた帽子は、ふわり、と湖の上に落ちる。
「どうしよう……」
帽子は岸から少し離れた場所に着水したため、手を伸ばしても取れそうにない。
(あの帽子は、おばあちゃんからもらった大切な帽子なのに……!)
リリーは辺りを見回した。長い棒かなにかで引っかけて取ろうと思ったのだ。
「なにか長いもの――あっ、これならいけそうだわ」
近くに落ちていた長い木の枝を拾うと、リリーはすぐさま岸のギリギリの所に立ってグッと腕を伸ばした。帽子のつばに枝先が触れる。
「うぅん……あと、ちょっとっ、あっ‼」
ちょんちょんっ、と突いて、手前に引き寄せようとしたのに、何故か帽子は枝を避けるようにフヨフヨと遠ざかってしまった。
「嘘……! これじゃ届かないわ……!」
風の影響もあって、帽子はどんどん湖岸から離れていこうとする。
リリーは、他に使える物がないか慌てて探し始めた。小石や木の枝、朽ちかけたロープが落ちているが使えそうもない。湖岸沿いの背の高い雑草を掻き分けていくと、思わぬ物を発見した。
「ボートだわ!」
枯れ草に埋もれるようにして手漕ぎボートが放置されていた。だいぶ長いこと捨て置かれていたようで、船体にはいくつものひび割れがあり、全体的に古ぼけている。近寄って中を覗いてみると、半分朽ちかけたオールが船底に転がされていた。
(随分ボロボロだけど、少しくらいなら大丈夫よね……?)
リリーは確認するようにボートの縁を拳でコンコンと叩いた。
長い間湖を遊覧するには不安な見た目だが、帽子が浮かんでいるのは、オールを二、三回漕げば辿り着けそうな距離だ。それくらいなら心配ないだろう。
「よし……!」
リリーはボートの後ろに回り込むと、船尾に手を掛け力一杯押し出した。
「えいっ!」
ぐぐぐ、とゆっくりとボートが動いたかと思うと、水の上に滑り出した。
慌ててボートに乗り込んで、ささくれ立ったオールで水を掻く。
――ぎぃぃぎぃぃ
オールが軋み、耳障りな音を立てる。
(本当に大丈夫よね……?)
リリーは固い表情でオールを掴み直すと、慎重にボートを漕いだ。
不穏な音を上げながらも、ボートはなめらかに水の上を滑り、あっという間に帽子の横に辿り着いた。
オールをそっと置き、逆さまにひっくり返って水に浮かぶ帽子に手を伸ばす。
注意しながら水の上から掬い上げると、リボンや花飾りから水がしたたったが、それ以外に異変はなさそうだった。
リリーはホッと息を吐いて、帽子を胸に優しく抱いた。
「よかった……」
今度は絶対に飛ばされないようにしよう。
そう思いながら、帽子を片手に、再びオールを手にしようとしたリリーはギョッとして固まった。
「えっ⁉」
船底に水たまりができている。
「な、なんで……」
オロオロしている間にも、水たまりはどんどん大きくなっていき、リリーの足元に迫ってきた。
水たまりの中心に目をこらしてみると、船底に亀裂が走っている。そこから湖の水が浸入しているようだ。
「は、早く、戻らなきゃ……!」
慌ててオールに手を伸ばし、一漕ぎした時だった。
――バキバキッ
「きゃっ……!」
大きな音がしてボートがガクン、と揺れた。体勢を崩したリリーは慌てて船体にしがみつき、その拍子にオールから手を離してしまった。
「あ、だめっ!」
急いで手を伸ばすが、一歩届かなかった。オールは湖の底に沈んでいく。
ふと見れば、船底の亀裂はますます大きくなり、ボートの中に入ってくる水の量が増している。リリーは青ざめた。
(どうしよう……!)
――ゴォォォ‼
「っ!」
風がさらに強く吹きつけ、ボートがどんどん湖岸から引き離されていく。
水はどんどんボートの中に浸入し、ゆっくりと沈み始めた。足元に到達した水は、靴の中にじわりじわりと入り込んでくる。
冷たい水の感触に、リリーは身体をブルッと震わせた。
足の指先から徐々に体温が奪われ、痛みに変わる。
早く岸に戻らなければいけないと思う一方で、頭の中にはあの日の出来事が断片としてグルグルと回り、動くことができなかった。
(あの日のおばあちゃんと同じね……)
リリーは苦しそうに顔をゆがめ、帽子を胸に抱きながら、手をギュッと握りしめた。
あの日は、雨が降っていたから湖の中はもっと冷たかったに違いない。
そんな中、祖母は一人で水の中に沈んでいったのだ。
どれほど辛く、恐ろしかっただろう。
リリーは静かに目を閉じた。
(ごめんなさい、おばあちゃん。私のせいで……)
祖母が亡くなってから、何度も重ねた言葉を心の中で繰り返した。
「50.湖③sideリリー」おわり。
「51.湖④sideシオ」につづく。




