29.リリーの物思い
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人の気配が遠のくのを感じ、リリーは扉をソッと押し開いた。
ほんのちょっとだけ開けた隙間から室内に目を凝らす。
天蓋付きのベッドには、整えられた布団と山盛りのクッション、チェストの上には服を着たぬいぐるみが静かに並び、春の陽差しが差し込む窓辺には、座ったまま出しっぱなしの椅子があった。
(もう行っちゃった……?)
恐る恐る扉を開け、ワードローブから顔だけ出す。
キョロキョロ辺りを見回して、誰もいないことを確認すると、ホッと息を吐き出した。
慌ててワードローブの中に隠れてしまったが、開けられなくて良かったと思う。誰だか知らないが、新人使用人をこの部屋から連れ出してくれて助かった。
これから祖母の部屋に向かうのに、あの使用人には見つかりたくない。
(早く行かなくちゃ)
もたもたしていたら、あの新人が戻ってきてしまうかもしれない。
リリーは素早く部屋を横切ると、注意深く廊下に出た。人が来ないうちに、祖母の部屋に滑り込む。
部屋に入った瞬間、出迎えてくれる祖母の肖像画から目をそらし、慣れた手つきで秘密基地への仕掛けを動かした。
(それにしても、あの新人は何なのかしら?)
肖像画が倒れ、現れた階段を上りながら考える。
今までの使用人とはまるで違うタイプだ。返事を待たずに寝台のカーテンを開けるわ、気に入らないと分かっているあの子からの花を持って来るわ、挙げ句の果てには使用人が触ることを禁じられている棚を弄くり回して、秘密基地まで見つけてしまった。こんなに常識知らずな使用人は初めてだ。そのせいか、調子を乱されてしまう。
階段を上りきったリリーは、壁の燭台を手前に倒して秘密基地への扉を閉ざすと、一直線に天窓の下へと向かった。
テーブルには、あの使用人が持ってきたミモザの花束が、今も瑞々しい状態で飾られていた。
花に顔を近づけると、ふわりと甘い春の香りが鼻腔を駆け抜ける。
「……まぁ、悪い人ではなさそうよね」
思わず声に出してしまって、リリーは苦いお茶を飲んだように唇をゆがめると、首を横に振った。
(だめよ。あの新人には気をつけなくちゃ)
テーブルに片手を置き、キュッと唇を引き結んだ。
あの使用人相手だと、つい、口が軽くなってしまう。
他の使用人とは違って、空気を読まず、ずけずけ物を言うから、こちらもポロッと言葉が零れてしまうのだ。
そのせいで、話すつもりなどなかったここでの祖母との思い出話までしてしまった。
(このままじゃ、余計なことを言っちゃいそうだわ)
それは避けなければ、と思う。
(……あの新人に知られちゃったら、きっとみんなにも知られちゃうもの……)
――ぴぃー、ぴぃー、ぴぃー
その時、天窓から柔らかい風が流れ込み、鳥のさえずりが運ばれてきた。少し高い、鳥の鳴き声。
(雛鳥、元気そうね)
その声に、リリーの強張っていた頬がほんの少しだけ緩む。
屋根のどこかに鳥が巣を作っているようで、毎年、春先になると雛鳥の声がしていた。去年も、その前も、祖母と共にこの部屋でその成長を見守るのが恒例となっていた。
今年は一人になってしまったけれど、祖母もどこかで鳥のさえずりに耳を澄ましているような気がする。
リリーは背筋をただし、胸いっぱいに春の空気を吸い込むと、そのさえずりに寄り添うように歌い始めた。
伸びやかな旋律を、天窓の外に向けて飛ばすように歌う。
思いを織り込んだ歌声を、空へ響かせる――これは、祖母が亡くなってからできた、リリーのあらたな務めだった。
(今日は雛鳥も一緒よ、おばあちゃん)
――ぴぃぴぃぴぃぴぃ
幾重にも重なる雛鳥の声は、自分の声よりもよっぽど生命力に溢れている。
しかし…………
「?」
リリーは歌うのを中断し、耳をそばだてた。
雛鳥の声が一つ、だんだんと大きくなっている気がする。
(何かしら?)
しかも、何かが屋根を転がっているような音まで聞こえてきた。
(……もしかして、雛鳥が襲われてる……?)
ここは森が近い。猛禽類が飛んでいる姿も見かけたことがある。
不安が首をもたげた、その時だった。
――バサバサッッ! ガシャンッ‼
「っ⁉」
リリーは思わず後ずさって、音のした方を見る。
――びぃっびぃっっ‼‼
けたたましい鳥の鳴き声。
リリーは胸の前でギュッと手を合わせ、テーブルを凝視する。
テーブルの真ん中にあった花瓶は倒れ、綺麗に生けられていた花は無残にも散らばっている。
その色とりどりの花の海で、バタバタと必死にもがく、白いふわふわがあった。
「29.リリーの物思い」おわり。「30.厨房にて①」につづく。




