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アンパンマン

アンパンマンになりたかった。


年甲斐もなくこんなことを思い焦がれ続けていた。


それほどまでに、俺という一人の人間をそこまでにするほど、正義とは薬であり、毒だった。



俺が幼い頃に見た正義の象徴は、それはとても眩しくて輝かしいものであった。


彼は悪者を正義の名の下に撃退し、人々はそれを賞賛する。


人々は彼の正義を望み、彼が正義であることを望んでいた。


自身の顔をむしり取ってそれを施す様は、弱肉強食という野生の理を完全に否定する。


そんな風に、あの世界では疑いの余地など微塵もないまでに、彼は正義だったのだ。


人間的な美徳、かっこいい、強者、社会、平和、善悪。

迂遠な言葉を介さずとも、あれは子供達にこのようなことを気付かせるものであったのだろう。


かくいう俺ももっぱらその中の1人であった。

もちろん理屈など介しているはずもなかったのだろうが。


そんなありふれた幼少期を過ごしたのだが、どうしてだろうか、俺はありふれた人間になることはできなかったようである。




「起立、礼、ありがとうございましたー」


いつもと同じ号令がなされ、クラスはしきりに喧騒に包まれた。

………帰るか。


何か漠然とした不安から逃げるように、俺は自身の席を後にする。


「赤城くん!」

刹那、背後から誰かが俺に声を投げがけた。


「………何ですか」

声の方向に首だけを向けると、そこには1人の少女が立っていた。

「これからクラスのみんなでカラオケに行くんだけど…どう?」

「………すいません、遠慮しておきます」

「そっか…ごめんね!」


彼女は同じクラスの黒井さんである。

俺のクラスはとても仲が良いらしく、たまに学校帰りに集まって遊びに行ったりすることがあるそうだ。

そして、彼女はその度に俺に声をかけてくれる。

それ自体はとても有難いことなのだが、正直のところ俺は彼女が苦手だった。


彼女はおそらく、いい人なのだろう。

しかし、俺という人間は、どうにも善意が怖くて仕方がなかったのだ。

何だか自分の矮小さ、稚拙さを突きつけられている気がして、自己を傷つけるきっかけとなる。


悪意をシャットアウトしている俺にとって、実質的な敵は自分しかいない。

しかし善意は自己嫌悪を誘発する点において、とても俺と相性が悪いのだ。


そして何より、いい人は、誰にとってもいい人で、しかし善意はそれを忘れさせ、蒙昧させてしまうほどに、甘すぎる。

それはもう、甘ったるくて胃もたれしてしまうほどに。

その甘さがとても怖くて、悔しくて、惨めだったのだ。


思えば、こんな極論に辿り着いて縋ってしまうほど、この時の俺は精神的に余裕がなかったのかもしれない。

そうやっているうちに、取りこぼしてしまうものの大きさなんか想像もできなかったのだ。




「ただいま」

リビングへのドアを開けながら言うが、返事はなかった。

しかし、これは俺にとっていつものことなのだ。


親は共働きで、この時間は大体家には俺しかいない。


いつもならこのまま自室にこもるものだが、この日はたまたま目に入ったリモコンを手に取り、普段は見もしないテレビを戯れに起動させた。

すると、画面に映ったのは見慣れた、しかし忘れかけていた光景だった。


「アンパンマンか…懐かしいな」


幼い頃は夢中になって観ていたものだが、今となってはめっきり観なくなってしまった。

それがいつからなのかすら覚えていないのだが。

俺は何かを探すように、それをぼんやりと眺めていた。


垂れ流されるのはいつもの段取り、悪者が市井を困らせ、アンパンマンがそれを退治する。

観なくなってからずっと時が経過した今でも、拍子抜けするほどに、当時とやっていることは変わらなかった。


しかし、俺はそれを観て、当時とは少し違った憧憬を抱いていた。

そしてまた、その憧憬を説明できる点でも異なっていた。


それは、自分の中の正義を自由に行使し、それを他者から肯定されている点だ。


もし今の俺にそんなことができたなら、どれほど幸せであろうか。


自分の正しさを誇示することも、それについて考えることさえ、諦めて捨ててしまったものだった。


他人を、そして己すらも騙してないものとしてきた。


しかし、そうしてきた理由もわからないではない。

それはここでは、とても難しくて、険しい道のりであるからだ。


正義とはいわばエゴだ。

それに沿って生きるということは、より大きな正しさに支えられて、思考を止めて生きるよりずっと辛いはずである。


故に、それを行使するには覚悟が必要だ。

それを踏まえた覚悟がない吹けば飛ぶような正しさなどは嘘だ。


ともすれば、正義とはアンパンマンの世界のような団欒ではなく、とても孤独なものなのではないか?


…あぁ、そうか。


愛と勇気だけが友達とはこれほどにも至言であったのか。

正義の味方とはいわば自分だけの味方である。

正義にとって必要なものは自己愛と、何よりも自分の正義を正義とする勇気なのだ。


…しかしもし、そのような己の正義さえも肯定されたとしたら、どうだろうか。


そうすれば、この灰色の世界は、色鮮やかなものとなるのであろうか。


考えるほどに、先ほどの憧憬が再燃する。


大きな流れに肯定されなかった俺にとって、正義は格好の寄る辺となったのであろう。


そうでなければ、今にも倒れてしまいそうだったのかもしれない。


「…アンパンマンになりたい」


気がつけば、俺は年甲斐もなく、独りごちていた。

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