夜の香り
「えええ?! ちょっとまって……何があったの?!」
凛ねえは俺たちをみて絶句した。
「ごめん……制服がどろどろになっちゃった……」
俺たちは店の前でうな垂れた。
「ちょっと待ってて。とりあえずタオル取ってくるから」
凛ねえは店の奥に消えた。
横に立っているつばさが「あはは……」と力なく笑う。俺は繋いだ手を優しく握った。
お互いに酷い状態だ。
つばさのメイクは完全に落ちているし、メイド服は雨でびしょ濡れ。俺なんてウィッグを取って右手に抱えて裸足。汚すぎて店の中に入れない。
店の奥から凛ねえが両手にバスタオルを抱えて出てきて、俺たちに渡した。そしてスマホで電話を始める。
「とりあえず……えーとどうしよう。着替えって状態じゃないし……あ、七々夏、ビニールシートと一緒に車持ってきて。今すぐ!」
凛ねえがテキパキと指示を出しているのを、俺たちはタオルで何となく拭きながら聞いた。
正直拭いて何とかなる状態ではない。
手に持ったウィッグが邪魔だったので、店先にポイ……と置いたらベショリと広がった。
「っ……それ、さっきも思ったんだけど、そういうゆるキャラ居なかったっけ」
つばさが指さして笑う。
「モリゾウ?」
俺が言うと
「緑の!」
とつばさが俺のほうを指さして笑った。
その表情と話し方は『つばさ』で。でも『美桜ちゃん』なんだ。
なんか胸がぐっ……と締め付けられた。
つばさと、美桜ちゃんが、一緒になった。
「寒いから、拭いたら入りなさい」
凛ねえに言われて俺たちは店内に入った。ふああ……と身体を温かい空気が包む。持ってきてくれた椅子に俺たちは座った。目の前にはストーブが置いてある。
「はいこれ!」
凛ねえはマグカップを渡してくれた。中には白湯が入っている。冷えすぎている指先には熱くて取っ手だけを持って一口飲んだ。熱い塊が冷え切った体を下りてお腹の真ん中でホワリと広がるのが分かった。
「あったかい……」
俺たちは、はあ……と息を吐き出した。生きてる。
「10分くらいで来るみたいだから」
凛ねえはスマホを確認しながら言った。ありがたい。本当に頭が上がらない。
つばさが机にマグカップを置いて、凛ねえを見る。
「お父さんと話すことが出来ました。ご迷惑をおかけしました、ありがとうございます」
そう言って真っすぐに頭を下げた。ウィッグの先からポチャン……と雫が落ちて静寂が広がる。
凛ねえは「良かったわね」と静かに微笑んだ。
数分後に静寂をぶち壊す勢いで七々夏が入ってきて、俺たちを見て爆笑した。
「なんなのそれ、滝行でもしたの? 意味わかんないんだけど」
「いいから後部座席にブルーシートひいて、そのまま帰るわよ!」
凛ねえが指示出しているのも聞かず七々夏は俺を見て笑っていたが、玄関横にモリゾウよろしく転がっていたウィッグをみて
「いやあああこれ高いのにちょっと!!」
と叫んだ。申し訳ない……それに関しては弁償します……。
「美桜ちゃんからシャワーあびちて!」
凛ねえに言われて俺たちは裏口から家に入る……家に入る?!
俺はここにきて現実に気が付いた。俺の家につばさが入る?!
しかもここは家族しか使わない裏口だ。転がる俺の靴、5年くらい前から使ってるアニメキャラ全開のスリッパも置いてある!
うあああ……一気に焦り始めた俺を凛ねえは完全に無視して、つばさをバスルームに連れていく。
バスルーム何か置きっぱなりになって無い?! 大丈夫か?! 俺の部屋着が脱いだまま切り株みたいな状態で脱ぎ捨ててあるのでは?! とりあえず部屋の片づけをしよう!! 俺はつばさがバスルームに消えたのを確認して廊下でベショベショなメイド服を脱ぎすてた。ああ、これだけで体が楽だ。
そして干してあった服を適当に掴んで着ながら二階の部屋に駆け上がった。
バーンと部屋のドアを開いて頷いた。
「なるほど」
惨状をみて絶句した。今日は久しぶりに美桜ちゃんと一緒にバイトに入るからウキウキを化粧品を出していたし、旅行に何を着て行こかファッションショーをしてから服が散乱してる。そして鞄も……それにペットボトルは部屋中に散乱してるしどうしたものか……、もう考えない、手を動かせ!
俺はゴミをガーッと集めて、洗濯物を抱えて集めた。そしてよく分からないものは全て押し入れに投げ込んだ。未来の俺がなんとかする! そしてゴミ袋を縛って右手にぶら下げて、洗濯物を抱えて一階に戻る。
「シャワーお先に借りました」
「?!」
廊下で丁度シャワーを浴び終わったつばさが立っていた。
上は俺のTシャツ、下は俺がパジャマに使ってるジャージ……ああダサいのにつばさが着るとめっちゃ可愛い……。
「そこにあったの借りたわよ。ほら、春馬もシャワー浴びて来なさい」
凛ねえに促されて俺は風呂に向かう。そしてつばさは凛ねえに連れられて二階……たぶん俺の部屋に向かった。
うおおおお音速で洗って部屋に戻る!!
「…………」
俺は自分の部屋の前でノックする用の握りこぶし片手に一瞬戸惑う。この中につばさがいる。
ごくりと唾を飲み込んで、軽くノックした。するとすぐにドアがチョイと開いてつばさが顔を出した。
「なんで自分の部屋なのにノックしてるんだよ」
手には漫画本を持っている。
いや……なんか緊張して……と俺は部屋に入った。いつもと同じ、むしろ異常に片付いた俺の部屋なのに、つばさがベッドにもたれて漫画読んでるだけでどこに座ればいいのか分からない!
俺はとりあえず自分の勉強机に座ったが、つばさの髪の毛がまだ濡れていることに気が付いた。
ベッド下に投げ込んだドライヤーを取り出して、つばさに渡す。
つばさはチラリとドライヤーを見たが、ツン……と頭を動かして
「漫画読みたい。乾かして」
と言った。なんと……! と思ったが、つばさの髪の毛に触れたい気持ちを抑えられず、俺はコードを繋いだ。
「ん」
つばさは背中に空間を少し開けた。俺はベッドに腰かけた状態で前に座るつばさの髪の毛にドライヤーを当てた。
サラサラ……とつばさの髪の毛が動き出す。はじめて触ったけど少しねこっけの柔らかい髪の毛なんだな……。
「美容院以外で人に乾かしてもらうの……人生で初めてかもしれない」
つばさは俺に乾かしてもらいながら言った。
「そんなこと言ったら、人の髪の毛乾かすの、俺も初めてだよ……」
俺はカチとドライヤーを止めた。するとつばさがクルリと振り向いて
「じゃあ俺もやる!」
と俺を今度はつばさが座っていた場所に座らせて、つばさがベッドに座った。
そして俺の髪の毛を乾かし始めた。なんだかものすごく恥ずかしい。というか
「熱い!」
「あれれ? 近かった? ごめん」
つばさは難しいなあーと言いながら俺の髪の毛を乾かしてくれた。
少し引っ張られる髪の毛、地肌に感じる指、それが気持ちよくて、でも照れて仕方ない。
「おっけ!」
つばさはドライヤーを止めた。そして俺の横にトスンと座った。
俺のベッドの前につばさが座っている。その状態が理解できなくて唇が縫い付けたように言葉が出てこない。外の雨音だけが静かに聞こえてくる。
「……これ、中学のジャージ?」
つばさは貸した俺のズボンをツンとつまんだ。
「そうだよ、俺のパジャマ。凛ねえももっと何かあっただろうに……」
俺は頭を抱える。よりによってなんでこんな古くてしかも名前が入ったものを貸すんだ。つばさは俺の名前が刺繍されている部分に触れて
「小野寺春馬」
と読み上げた。なんだか人生においてフルネームを読み上げられることは少ないので「おう……」と、とりあえあず答えた。
「小野寺春馬」
「おう……?」
つばさは俺の名前を読み上げながら、俺の後ろにもぐりこんできた。何?! そして両ひざを開いて俺を挟み込む。俺はつばさに後ろから抱きつかれている状態だ。
そして後ろから俺のお腹のほうに伸ばしてきて、後ろからグイッとしがみついてきた。そして俺の背中にトスンとおでこを付けてポツポツと話し始めた。
「うちは不動産業をしてて、お父さんは俺との一件以来、熱海に飛ばされてたんだ。だから……五日に春馬と行こうと思ってたんだけど……まさか来るとはね……予想外だった」
はー……と俺の後ろでつばさは大きくため息をついた。
「学校をやめること、パティシエ目指すこと、女の子として生きていく事に決めたこと、そして好きな人が出来たこと……話に行くつもりだったんだけど……」
「好きな人……」
俺は我慢できずにそこに反応してしまう。
するとドスンと後ろから頭突きされた。痛い!
「お前……玲子さんだって事を、何でずっと黙ってたんだよ」
あ、これはちゃんと謝りたい。俺はお腹に回されていた手を取って……と思ったが取れない。
「顔見て話したいんだけど」
つばさは俺のお腹の前で繋いだ手を離さない。むしろもっと強く握った。
「ダメ。恥ずかしいから禁止」
仕方ない……。俺は腹の上で握られている手を上から握って話し始めた。トイレで着替えて出てきた時に見ていたこと、カバンのアクキー、学校でのこと、倒れた時に確認したこと……全部包み隠さず話した。つばさは何も言わずに俺の後ろで背中に頭を何度も打ち付けながら静かに聞いていた。
全部話し終わったころ、つばさはやっと口を開いた。
「……春馬、抱っこ」
「?!」
今なんと言った?!
俺の前で繋がれていた手がスルリと取れて、つばさが俺の後ろから俺の足の間に入って来た。そしてくるりんと回転して俺の方を見た。
「?!」
つばさは俺の足の間、正座をした状態で正面から俺にしがみ付いてきた。そして俺の背中に手を回す。俺もつばさの背中に手を回す。
ああ、つばさの形をやっと温かい状態で知ることが出来た。
つばさの背中は薄くて、肩は小さい。俺にあたる胸は……柔らかくてこれはきっと前より成長してるってやつだな……。
背中に回した手で背筋を撫でると、つばさはピクンと身体を浮かして
「くすぐったいんだけど」
と俺の背中に回した手で、同じことをやり返してきた。
「やめろつばさ!」
俺がエビぞりになると、つばさは両手で俺の背中をくすぐってきた。
負けずとつばさの背中を両手でくすぐろうとしたらスイッと逃げて
「女の子をくすぐるのは、ダメだと思いますよ?」
とニンマリと笑って美桜ちゃんみたいな話し方をした。
都合よく使い分けるな!!
俺とつばさは恥ずかしさもあって、二人で無駄に部屋ではしゃいだ。
夜も遅くなってきたので、凛ねえがタクシーを呼んで、つばさは帰ることになった。
俺は外に出てつばさを見送ることにした。
七々夏のコートが丁度良かったので、それを着せてマフラーは俺のを貸した。
つばさはそれを鼻元まで上げて
「……すげぇ春馬の匂い。これは今度学校で返す」
と言った。そうだ、学校で。
俺はタクシーが見えなくなるまで見送った。
夜の町はキンキンに冷えていたけれど、俺の身体は温かくて真っ白な息を空に吐き出した。




