きのこ狩り前夜の旅支度
ハイファンタジー短編企画「なろうファンタジー」への参加作品です。
そういえば明日はきのこ狩りの解禁の日だったなと、ツェルペルは思い出した。
あんな騒動があった直後だったからか、街中が熱狂した盛大な三日間の収穫祭もまたたく間に終わり、今日でもう七日が経つ。
秋の空気もずいぶんと深まり、いまの時刻――暮れ方の頃にもなると、吹く風には冷たさが混じってくる。ふだんより厚着のためにわずかに汗ばんだ身体が冷やされていく。
街の広場あたりには、“ティムタムの魔獣騒動”の爪痕が――そう、文字通り魔獣の爪のあとが――残っているが、しかしもうすでにその景色すら日常のものとなってきている感じがした。
待ち合い屋〈約束の音色亭〉はティムタムの街の東側にある。ティムタムの塔と〈約束の音色亭〉を結ぶ道が、この街の目抜き通りだ。
ツェルペルは、いつもの軽装とは異なる自分の旅装束と荷物を見て店の人がなんて云うだろうと考えた。
ツェルペルは、明日この街を出る。
すべてのことに中途半端だった自分に、いつも心のどこかで焦りを感じている。その焦りを、振りはらうような想いが突き動かした決意だった。
約束の音色亭は小高い丘の上にある。通りは、わずかに上り坂になっている。
でこぼこの石畳にのびる、自分の影ぼうし。
空を見上げると、すみれ色とあかね色に染まりゆく夕焼け。
「……あ、ラミューゼさん」
待ち合い屋が見えてきた頃、店を出てくる騎士ラミューゼの姿が見えた。
王都の正騎士にのみ与えられる、渋い深緑色の外套を羽織った鎧姿。腰には剣の柄を帯びている。
“谷”出身のトカゲ人の騎士。いつものように、落ちついた足どり。がっしりした体躯。あの戦いのときのラミューゼが振るう剣さばきはすばやく、また優雅と云ってもいいくらいに洗練されていた。
トカゲ人の肌の色は個人差があり、彼の肌のことを相方の派遣騎士は「ミドリ苔のような色」と称していたが、ツェルペルには青銅のようにすべやかで綺麗な落ちついた色に見えた。
ラミューゼが、こっちに気づいた。ツェルペルが声をかける。
「警邏ですか、ラミューゼさん」
ラミューゼはうなずいて、ツェルペルに質問した。
「旅に出るのか?」
「はい。これから、約束の音色亭の皆さんに挨拶をしようと思って」
「そうか。出立は明日か」
「そうです。ひと晩店に泊まります。大浴場に入っていきたかったから」
「なるほど。――俺は二時間ほどで戻ってくるつもりだ。旅立ちの杯をおごらせてもらう」
ツェルペルは礼を云い、「ではあとで」とうなずいた。
約束の音色亭はいつものように賑わっていた。
客だけでも二十人くらいいそうだ。
そのうちの数人の様子がわずかにあわただしい。
「――お姉ちゃん、収穫祭の頃にこの店に出入りしていた男の中に、コイツと同じくらいの背格好で、灰色がかった短めに刈った髪形のヤツっていたかい?」
「ゾレクって人かな。クリルミューからきた神官って話してましたよ」
入り口付近にある番台に座る、この店の看板娘――ネネムが、いつものようにのんびりした口調で応対していた。
肩につくかつかないかまで伸ばした栗色のくせっ毛が、日が落ちて灯りをともした店内の揺れる灯りで、今ははちみつ色に見えた。
「どんな用って云ってた?」
客の質問に、人差し指を頬に当て、口を開けたまま上の方を見上げながら記憶を探っている。
「えっと……プミルウェンに住んでる知り合いと待ち合わせして、……ミルディーア修道院に行くって云ってたかな」
「そいつだ……! バカなヤツだ、神官のくせに取り憑かれてることに気づかねぇなんて!」
「まぁしょうがねぇじゃないか。もうこの街を出て七、八日も経つ。こうなったら焦って追いかけてもしょうがない。明日、出発しようや――」
彼らのやり取りを聞くとはなしに聞きながら店内に入っていくとき、体格のいい――おそらく職業は戦士だろう。見かけない顔だ――男と身体がぶつかった。
戦士はなにも云わなかったが、戦うことを生業としているものが発する殺気――どう猛な獣のそれにも似た――を肌で感じ、不覚にもツェルペルは身が竦んだ。
気が立っているのだろうか。彼も、この店でこれから誰かを待つのだろう。待つ者特有の苛立ちというか焦れというか、そういった感情が感じとれる。
「あらツェルペルくん、こんばんは」
“待ち人の登録簿”をめくっていたネネムが、こちらに気づいて声をかけた。
「……どうしたの、そのカッコ?」
ネネムが、小首をかしげてたずねた。
「はい。……あの、ぼく、街を出ることにしたんです」
一瞬考えるような顔つきをしてネネムは、「そうか、旅に出るんだね」と云った。
「女将や、お世話になった皆さんにお礼とご挨拶に来ました」
「ちょっと待ってて。おばあちゃんに云ってくるから」
ネネムが席を立ち、立ち食い用の円卓を片づけていた給仕に「ツェルペルくんが街を出るんだって。楽団の人たちにそう伝えて」と云うと奥に小走りで駆けていった。
ネネムが女将を連れてきて、それにつられて多くの店の人間たちがツェルペルのもとにやってきた。
「なんだいツェルペル、出ていくのかい。云ってくれりゃあ餞別の品くらい準備したのに」
今日の女将の表情は、なんだか優しかった。
ツェルペルがこれまでのお礼を述べ、しばらくの別れを伝える。女将は、門出を祝う祝宴をすると云ってくれた。
いつもの鶏肉と野菜のスープと堅いパンだけじゃなく、今夜は特別に、香ばしい焼きたての魚や腸詰め肉、さらに豆と一緒に煮込んだ豚肉の煮物とチーズが、食卓に並べられた。
あたたかな湯気が上がる、豪華な宴が催された。
ひとしきり食べ物を食べ尽くした頃、街の見回りから帰ってきたラミューゼが姿を現した。
「おう、やってるな」
「あ、ラミューゼさん、お帰りなさい」
ツェルペルがトカゲ人の騎士に向かって手を上げた。ラミューゼが外套を脱ぎ、ツェルペルの席のとなりに座った。ラミューゼの逞しい身体が腰掛けても、この店の椅子は軋むこともない。
いい椅子を使ってるなぁと、今さらながらツェルペルは感心した。
「もういくらか酒は飲んだか」
「乾杯のときに赤ぶどう酒を少しだけ。あとはお茶をもらってます」
「少しつきあえるか? ネネムの作る石リンゴ酒が気に入ってな」
「もちろん。……あ、ネネムさん」
「お疲れさま。ラミューゼ、おかえりなさい。ツェルペルくん、わたしのお薦めの果実酒、持ってきてあげようか?」
給仕服の前掛けで手をぬぐいながら、ネネムが二人の後ろから声をかけた。
ツェルペルは、お任せします、お願いしますと返事をした。
ネネムは満足げにうなずいて、酒をとりに行くと、すぐにお盆に乗せた三つの瓶と三つの木の器を持って帰ってきた。
円卓の上にそれを手慣れた手つきで並べると「お待たせしました」とにっこり笑った。
「ラミューゼは、石リンゴ酒ね。ツェルペルくんは、くるみ酒と、ラゼルの実を漬けたお酒を持ってきたけどどっちがいい?」
「……どれも飲んだことないからなぁ。どんな味なんですか」
「石リンゴ酒は強くて癖があるわね。硬くて食べられない石リンゴに、蜜の木の蜜を加えて、火酒で漬けておくの。そのままじゃ石リンゴの渋みと蜜の木の蜜のとろみが口当たりを邪魔するから、岩砂糖と、熱いお茶で割って飲むのが美味しいわ」
ラミューゼがうなずく。
この一見お堅くて気むずかしそうに見える王国の派遣騎士も、美味しい食べ物と美味い酒には目がないらしく、食事のときだけは表情をゆるませるのだ。
「くるみ酒は、渋みもあるけど香ばしくて甘くて、上品な味のお酒ね。秋の夜にぴったりの色でしょ?」
瓶の中には殻ごと、六つほどのくるみが浮かんだり沈んだりしていて、晩秋の森の地面のような落ちついた茶色をしていた。
「ラゼルの実はそのまま食べるものと思ってたでしょ? これも漬けると美味しいんだ。上手く作るの、すごく難しいんだけどね。実の甘酸っぱさを残したままお酒にするのは分量の調整が難しくて。なんども腐らせちゃったりラゼルの味が消えちゃったり。でもね、この優しい紫色になったときくらいがわたしは一番飲み頃だと思うの」
瓶の中の紫色を見て、魔獣騒動のときの、戦うエルトの姿がふと脳裏に浮かんだ。
エルトが頻繁に用いていた“紫のゆらめき”という攻撃呪文。エルトの師匠でもあり、リゼラダルの三大魔女と呼ばれる“紫の魔女”ライラが最も得意とする呪文だとも聞いたことがある。
卒業の証にライラは弟子に紫色の布を贈るそうだ。エルトはそれをふだんは腰に巻き、防塵用に顔の下半分に巻いたりしていた。寒いときは首に巻くとただの布と違って体温を調節できるとも話していた。
ネネムも、今このラゼル酒の紫色を見て自分と同じくエルトのことを思い出しているのではないか、とツェルペルは思った。
しかしネネムの横顔からは、いつもの穏やかな表情しか見て取れなかった。
ツェルペルとラミューゼとネネムは、それぞれに好みの酒を好みの分量で器に入れ、ささやかに乾杯をした。
「どうして旅に出ることにしたんだ?」
ラミューゼがたずねた。
ツェルペルは、しばらく黙ったのち、話し出した。
幼い頃この街に流れ着き、持ち前の向学心が見込まれて学者のボワン先生に見込まれて実の息子のように面倒を見てもらった。だから、学問的な知識や読み書き、世間の情勢などにも詳しくなった。
楽器を扱えて唄も唄えたから待ち合い屋では楽士として雇ってもらい、賃金も貰っていた。待ち合い屋に毎日入れ替わり立ち替わりやって来る様々な旅人たちの話を聞き、耳学問なりに見聞を広げて、それをもとに詞を書いて節を付けて唄にして、吟遊詩人のまねごともやってきた。
街で一番腕がいいガコラシュじいさんとも仲が良かったツェルペルは、彼から盗賊の技術の手ほどきも受けていた。
街の衛士隊にも入隊し、武器の扱いも日々訓練してきたから、最低限の戦闘にも対処できる自信がついてきていた。
だけど、実践ではなかなか上手くはいかなかった。
街に殺戮をもたらした“純白の騎士”との戦いにも、復活したティムタムの魔獣との戦いにも、ツェルペルは指をくわえて身をすくませて佇んでいるだけの存在だったのだ。
魔獣は自我の程度が弱い者を、深い眠りにつかせる特殊な力を持っていた。
ツェルペルはもちろんのこと、街のほとんど全ての人間が、昏睡状態に陥っていた。
純白の騎士やティムタムの魔獣と実際に戦い、退けたのは、若きライラ派の魔法使いエルトと、王都アリセリュートからの派遣騎士ラミューゼと、街の武芸大会の優勝者でもある魔杖使いの英雄アルテ。実質この3人だった。
剣では一生かかってもラミューゼには及ばない。
魔法も使えない。
自分がいざというときに役に立たない存在なのだとはっきり示されてしまった一件だった。
収穫祭が終わりエルトが街を去ったあと、ツェルペルはずっと自分のこれからのことを考えていた。
そして出した結論が――
「旅に出て、自分の見聞を本物にしたい、ということと、自分の中途半端さについて見直してみたいと思ったんです」
語りすぎか、慣れぬ酒で喉が灼けたか、声がわずかにしゃがれていた。
「特技もなく、特別な力も、才能もない。これからなにを得意技に生きていくのか、悩んで考えてみたんですが、ちゃんと答えが出なくって……」
黙ってうなずきながら聞いていたネネムが、「ずいぶん考えたみたいね」とつぶやいたのちに、ゆっくりと話し出した。
「中途半端って云ったら聞こえは良くないかもしれないけど、……云い換えるとね、ツェルペルくんはいろんなことが得意ってことだと思うんだ」
ネネムは伏し目がちに、両手で持つ盃を見ながら話している。口調は、おだてているものではなく事実を淡々と述べているように聞こえた。
「たくさんのことが出来るってことでもあるんだから。それがツェルペルくんの持ち味なのなら、その“中途半端”を極めてみるのもいいんじゃないかな?」
ネネムはそう云って、盃の果実酒を飲みほした。
ツェルペルは、自分の中にあった霞が、急に晴れていったような気がした。
――中途半端を極める。
いまの自分にとって、ひょっとしたら最高のはなむけの言葉だったかもしれない。
ツェルペルは震えた。
「料理とかも、ツェルペルくん才能ありそうだし」
ネネムの瞳が悪戯っ子のように光る。
ラミューゼが話題を引き継いで口を開いた。
「確かに、何かに特化した人間は、いろんな状況への対応力に劣ることがある。俺は派遣騎士としてウズルードと各地をまわっているが、剣が通用しない相手とも何度も戦った。それに、交渉ごとや世間話や情報収集は俺が苦手とする分野だ。幸い、相方のウズルードのヤツがおしゃべりなおかげで助かっているがな」
酒のつまみの乾し肉を持ったまま口には運ばずに、ラミューゼは続ける。
「エルトも、オルディーたちと五人パーティを組んで冒険者として一年間過ごしたが、仲間とはぐれて独りになることもたくさんあったらしい。剣以外に特技がない俺や、エルトのように魔法使いとしての腕はいいがそれ以外の能力にむらのある人間は、それなりに危機的な状況に遭遇することになる。だから仲間に助けてらうし、自分も仲間を守り、支える」
そこまで云って、ラミューゼは乾し肉を口に運んだ。
「ツェルペルのようになんでも器用にこなせるヤツと一緒に行動すれば、俺は剣での戦いに専念できるからすごく助かるだろうけどな」
「……ありがとうございます」
ツェルペルは、自分の頬に涙がつたっているのに気がついた。
そうだ。
なにもエルトさんやラミューゼさんにならなくてもいいんだ。
自分は自分になればいい。自分らしさを突き詰めていけばいいのかもしれない。
――ぼん。ぼ、ぼん。――ぼん。
弦がつま弾かれる音がした。
ツェルペルが、はじめて自分で作った曲だった。
おだやかで楽しげな曲調。あの曲が、約束の音色亭の楽士たちによって奏でられはじめた。
しだいに舞台の上で幾人もが踊り始めた。
この店の舞台は客席側へ斜めに傾いている。ツェルペルも踊ったことはあったが、夢中で踊り出すと斜めであることを忘れて足首をひねりそうになったことを思い出した。
音楽と踊り。
仲間とともにとる食事。
最高の旅立ち前夜だ、とツェルペルは思った。
明日の晩めしは独り路上でとることになるだろうし、次の街へ着いてもすぐにはこんな風にくつろいだ気分にはなれまい。
街を離れる決意をしたことでこれまで以上に、この街に対しての愛着が増していることに気づいた。
楽士たちがツェルペルを舞台に誘った。旅人の門出に歌われる古い唄を演奏するから声を披露しろと云われた。
その嬉しい申し出に応えることにした。ラミューゼは席を立ち、「先に休む、良い旅を、ツェルペル」と云ってその場を辞した。
ツェルペルも、門出の曲を歌い終わると、みなに別れを告げ、部屋に入ることにした。
女将が特別に用意してくれたこの部屋には露台があって、小高い丘になっているこの約束の音色亭の二階からは、眼下にティムタムの街が広がっているのが見渡せる。
夜風が、火照った頬に心地よい。
ツェルペルにとっては、もうこの街がふるさとのようなものだった。
次にこの景色を見るとき、僕はどう変わっているのだろう。なにを得て、この地に戻ってくるのだろう。もしくは――なにかをなくして、帰ってくるのかもしれない。
孤独を感じた。でも、嫌な感情ではなかった。
気がすんだツェルペルは、着替えを持って鍵をかけ部屋を出た。
宿屋の一階から本堂へ向かう途中の通廊の角に、幅広の階段があり、そこを下る。階段下の両開きの草色の扉はただの扉だ。いつも開けっ放しになっているその草色の扉の先に、白い壁で囲まれた部屋がある。
三方の壁にはそれぞれひとつずつ“扉”がついている。
正面には赤く塗装された木の扉。
右側にくすんだ黄金色をした、真鍮の扉。
左側に、重たく閉ざされた鉄の扉。
赤い木の扉は他の二つよりひとまわり大きく、これが〈大浴場〉へとつながっている。
真鍮の扉は一方通行の、長距離移動用の扉で、どこかの迷宮の一角に出るらしい。
鉄の扉は、こちらからは開けることができない。ツェルペルが知る限りこの扉から出てきたものはまだいない。
ツェルペルは赤の扉から大浴場へ向かう。
風呂上がりの物云わぬ戦士の男が通っていった。ツェルペルが店に入ったときに身体がぶつかったあの戦士だ。目があったのでツェルペルは会釈した。外で見かけたときと比べ、いかつい感じはせず、いくぶんくつろいだ表情に見えた。
酒場で女中をしている中年の女性が二人、「今から?」「いいお湯だったよぉ」とツェルペルに声をかけてきた。なんだか照れくさかったが嬉しくもあった。ツェルペルはそうですか、おやすみなさいと返事をした。
〈大浴場〉はきちんと男湯、女湯に分けられている。浴室に入る前の広間には、休憩室が設けられていて、風呂上がりの者たちが半裸や薄着で座っている。
約束の音色亭に比べるとこの場所の空気は気温が低い。ある程度汗が引いたら、みな待ち合い屋や宿屋や酒場や自分の家に戻っていく。
ツェルペルは休憩室を素通りして脱衣所に入り、服を脱いだ。そして、湯けむりがたちこめる浴室へ入った。
湯にゆっくりつかって明日からの旅のことを思った。
まずはラケテュールの街を目指す。そこでしばらく過ごしたあと、南東の美食と寄食の街ドルスへ。同様に食の文化が進んでいる西のクリルミューと比べて、ひと味違った調理の数々が発達した街らしい。ネネムの助言のように、ここで料理の腕を修業するのもいいかもしれない。そのあとに、ずっと南下して、“地下迷宮祭の街”までいく。この頃には、半年は経っているだろう。
角燈の灯りが辺りを照らしている。
今夜は思いっきり長湯してみるつもりだった。身体から、汗や、汚れや、いろんなものを出し切ってしまいたい気分。
例えるなら、鞄の中身を空っぽにしたい気分に似ていた。
なにかを出さないと、新しいものは入らない。
身体も頭も心も気持ちも、それとおんなじだという気がする。
指先がふやけてきた。もうひと息、と思っていたが、慣れない飲酒で思いのほか疲れが出てきた。この辺で切り上げて寝た方が良さそうだ。
風呂から上がり、休憩所の、岩場の中に掘られた飲料用の温泉水を飲んでいると、女風呂の方のから、同じくお風呂上がりらしき寝間着姿のネネムがやってきた。
「お水ですか?」
「うん。寝る前の水分補給」
ネネムのくせっ毛が、水に濡れて今はぺしゃんこになっているのがなんだか新鮮だった。
「約束の音色亭で働くのって、わたし、自分でもすごく性に合ってると思うんだけど、とくにこの店で良かったって思うのは、この温泉に毎晩は入れるからかもって思うことがあるんだ」
ネネムがぬるい温泉水をぐいぐい飲みながらそう云った。
「お湯のお風呂が、好きなんですね」
「う〜ん、それもあるけど、……ここで他の人に『おやすみなさい』って云うのが、好きなの」
「へぇ……」
正直、云っていることがよくわからなかった。
「ここで夜遅くに、身体を洗って、他の人たちと同じ時間を過ごしてるとね、ああ、みんな今日の一日が終わったんだなって、当たり前のことだけど、そんなことをみんなと分かち合えてる気がするのが、好きなんだ」
今度は……少し分かる気がした。
「ふわああ……!」
前触れもなくネネムが大きなあくびをした。
「それじゃね、ツェルペルくん。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい、ネネムさん」
ネネムさんは、自分自身のことがよくわかっている人だ。
僕も、自分のことを理解して、揺るがない心を持ちたい。
ツェルペルはそんなことを考えた。
朝が来た。
窓から射し入ってくる朝の斜光は、目には厳しいが身体には優しい。眩しいけど、活力を注いでくれる。
荷物はまとめてあったし、着る服も決まっていた。すぐに、部屋を出た。
中庭の井戸水で顔を洗い口をゆすいで、もう誰にも会わずに出発するつもりだった。
朝食も、歩きながら持ってきたラゼルの実を囓るつもりだった。
ところが――
なんだか緊迫した面持ちのラミューゼが、旅支度を済ませたようないでたちで歩いているのを見つけた。
「ラミューゼさん? あれ、出発ですか?」
「おう、ツェルペルか。――明け方に伝令がやってきてな。すぐにアリセリュートに戻ってこいという命令が下った。俺もいまから出発する」
「えっ――王都で、なにか、あったんですか?」
「まあな。事件らしい。……王都の、守護騎士が何人かやられた。ウズルードも手傷を負ったそうだ。ティムタムには別の派遣騎士がやって来るか――そんな人手がないようなら、誰も来ないかもしれないが――いずれにせよ、急いで帰らなくてはならなくなった」
「もしかして、――直接王都に呼ばれたってことは、守護騎士に任命されるんですか?」
「相変わらず勘がいいな。そうだ。守護騎士になって敵から王都の人々を守るのがこれからの仕事になりそうだ」
「大出世ですね! 騎士になって四年で守護騎士団に入るなんて!」
「出世には興味はないが、自分の剣の腕が思う存分ふるえることには正直云ってありがたいと思っている」
「……あれぇ? ラミューゼも行くの?」
起き抜けのゆるんだ声。ネネムが、元々のくせっ毛に派手な寝ぐせをつけて、中庭に姿を現した。
「おはようございますネネムさん。珍しいですね、ネネムさんが朝から起きてくるなんて」
「今日からきのこ狩りが解禁だからよ。急いで支度しないと他の人たちに先越されちゃうから。……なにかあったの?」
ラミューゼの雰囲気を察したネネムがたずねる。
「王都で事件が起きた。俺はすぐに王都に戻ることになった。世話になったな、ネネム」
「そっか。気をつけてね。また時間できたらここにも寄ってね。ラミューゼが気に入りそうなお酒を研究しておくから」
ネネムはあっさりと、別れの言葉を口にした。
ラミューゼと、ツェルペルが、約束の音色亭を出る。ネネムが、見送る。
「では、ネネム。息災で」
「うん。あなたが、正しき扉を開かれますように」
ネネムは、旅人に云う古くからの挨拶言葉を口にした。
ラミューゼは、深緑色の外套をひるがえして、目抜き通りを西へ向かった。
「……行っちゃいましたね」
「そうね。良かった、早起きしたおかげでラミューゼにお別れがきちんと云えたから」
「そうですね」
朝の秋風が、通りをすがすがしく吹き抜けた。
「あ、そうだ……ネネムさん。ぼく、旅先でエルトさんと会うかもしれません。なにか、伝言とか、あったら伝えますよ」
「なによぉ急に」
何事にも動じそうにないネネムが少し慌てた素振りを見せた。
「特にはないけど、……そうだな。……焦らなくても、エルトならきっと見つけられると思うよって、云っておいて」
「……はい。わかりました」
「あっ、それと――」
「はい」
「わたしは、いつでもこの街で待ってるからって。そう伝えてくれる?」
「云っておきます。……じゃあ、ぼくもそろそろ行きますね。――お達者で、ネネムさん」
「あなたも、ツェルペル。良い扉と、良い道を」
そしてツェルペルは旅立った。
風に揺れている洗濯物。
煙突から上がる白い煙。
薪割りにせいの出るおじさん。
ゆっくりと干し草を運ぶ馬車。
見慣れた街の景色をぼんやり眺めながら、ツェルペルはひとり歩いていく。
透きとおる秋の風の下、道は何処までも続いているように見えた。
前作を投稿してから、なんと14ヶ月も経ってしまいました。お待たせいたしました、さすらい物書きの新作です。
ファンタジーといえば僕はやはり、冒険や、剣戟や呪文による派手な戦闘シーン、目まぐるしく移り変わる場所、そんなものを連想します。
だけど、そういった冒険の日々の中にも、安らぐ瞬間や、憩いの場所、退屈な日々があるはずで――、今回はそういったシーンの方を描きました。
冒険もなく、戦いもなく、舞台は待ち合い屋〈約束の音色亭〉だけ。
僕の好きなファンタジーとは正反対の作品のようで、だけど、自分でも好きだと思える作品に仕上がってくれました。
吹く風も、空の高さも、大地の気配も、一日ごとに昨日までと少しずつ違ってくる“秋”という季節。
もしよろしければ、また来年のこの季節に、もう一度お読みいただけると嬉しいです。