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冴えない男達

悪魔の女

作者: ヒョードル

短絡的で、安直で、浅はかな男が受けた罰の話。

 四年ぶりに会った女は、妖艶で棘があるような甘い匂いを辺りに撒き散らし、白い膝丈のフレアスカートを風に遊ばせていた。余寒の候では多少寒いのではないか、と男は思った。


「久しぶりね」


「ああ」


「四年ぶりかしら」


「そうだな」


 会話は短いが、昔からこのような調子で会話をしていたのだと男が思い出したとき、女はフレアスカートを細い指先で掴み言った。


「こんなの、最近履いてるんだ」「似合ってるよ」


 単調な会話に短い言葉なので、にべもないと思われたくなかった男はわざとらしく続けた。


「本当に似合ってるよ。真希はスカートの方が似合うのかもな」


「……嘘つき」


 照れ隠しの演技なのか、本気で照れているのか、斉藤真希(さいとうまき)は、白いパンプスの踵でこつこつと地面を蹴っていた。俯いている頬はチークだろうか、淡桃色になっている。


「哲哉、変わってないね。少し安心した」


「ああ。よく言われる」


 山下哲哉(やましたてつや)は続いて言いかけた言葉を強引に飲み込み、辺りを漂っている甘美な匂いの元を確かめた。綺麗になったな、と口に出さずに言った(・・・)


「……下手くそ」


 小さく呟いた真希の声は残寒の風が遠くに運び、後に残るのは風に揺れている赤茶色の髪を耳に掛けている真希の細く長い指だけだった。


「何か言ったか?」


「いえ。それより食事にいきましょう」


「ああ。そうだな」


 二人は新横浜駅の西口から並んで歩いた。


 最後に腕を絡ませて二人で歩いたのは何年前だろう、と哲哉は思い返していた。少なくとも四年前の時分では腕を絡ませたり手を繋ぐことはもう無かった筈である。今こうしてただ並んで歩いていることがやけに落ち着かないな、と哲哉が横目で真希を見ると、真希の視線も哲哉にあった。


 哲哉が慌てて視線を前に戻すと、「どうしたの?」とご機嫌な声が飛んできた。笑っているかも知れないが証左はない。


「何食おうか」と咄嗟に哲哉ははぐらかした。


新横浜(ここ)なら決まっているじゃない」


「ああ、そうだったな。久しく二人で会っていないから忘れたよ」


「……嘘つき」


 今度ははっきりと聞こえ、哲哉は真希に顔を向けた。真希は笑っているが視線は先である。先程からやけに動揺している自分がいるのだが、真希に全て見透かされているのではないかと思うと、四年の時を恨めしく思う。


「最後もあの店だったじゃない。覚えていない?」


「いや、覚えているよ。新横浜(ここ)だとあの店しか行かなかったからね」


「そうよ。忘れていたら四年の時を恨むところだったわ」


 哲哉はこの女の事を少し、怖いと思った。この会話もそうだが、四年ぶりに掛かってきた電話の最中に「金曜日会えない?」と唐突に言われたことや、その出で立ち様相もそうだ。真希は決してスカートなど履かずにいつもパンツスタイルだった。鼻梁が通っており、薄いファンデーションとプラムピンクの口紅だけでその佳人ぶりを発揮していた。真っ直ぐに伸びた髪は返照で天使の輪を作る程綺麗な黒髪で、道行く女も振り返るほどだった。


 四年の歳月が女をこれほど変えるのか、という時の移ろいと、掴みあぐねるこの女の真意に、哲哉は背筋の強張りを覚えた。


 すれ違う何人もの男がちらちらと真希を見ており、それがまるで視姦のようであっても気にも留めない真希は、髪を緩やかに揺らしながら歩いている。


 目的の店は大通りを挟んだ二区画先の角ビルの一階にあり、黒い両面のスタンドボードには幾つかのメニューとその金額が可愛らしく書かれていた。こじんまりとしたイタリアン・バーを思わせる店内は、ドアのステンドグラスが程よくぼやけさせている。


 初春のプラタナスがうっすらと萌黄色の芽を生やし、その逞しい幹と枝が『per sempreペルセンプレ』と書かれた看板に斑な影を作っている。その真下にある黒褐色の重いドアを哲哉が引くと、中から懐かしい声が聞こえた。


「あれ、珍しいお客さんだな」


「どうもご無沙汰してます。哲哉です」


 声の主は続けて店内に入った真希に「あらら。随分と可愛らしくなっちゃって」と驚嘆のような声をあげ、入り口まで歩いて出迎えた。


「お久しぶりです。遠藤さん」


「何年ぶりだ?四年……か。ちゃんと生きてたんだな、二人とも」


 三人の笑い声が重なる。店内には誰もいなかった。


「相変わらず……ですね、ここは」


 哲哉が店内をぐるりと見渡した後に言うと、遠藤と呼ばれた主人(マスター)は、「まあな」と苦虫を噛んだ。


「とりあえず座りなよ。二人とも黒だろ」


「ええ。お願いします。あとパスタをなんか適当に」


「あいよ」と言った遠藤に真希は、カウンターに座り頬杖を付き、


「私、オリンピック頼もうかしら」


と静かに言った。


 遠藤は一瞬間を空けた後、「おう」と言い、哲哉に一瞥を送った。


「ビールじゃないんだな」


「ええ。たまにはいいでしょう」


「やっぱり……なんて言うか」


 哲哉は言い淀んだ。どうにも句が継げなかった。


 哲哉の左隣で頬杖を付く女はきっと別人なのだろう。四年前に別れたこの女はその長く短い時間の中で脱皮を迎えるように羽を蓄え、ようやく羽化をしたのだろうか。


 哲哉が一人問答していると、頬杖を解いた真希が口を開いた。


「哲哉。いきなり電話してごめんね。どうしても声が聞きたくなってしまって。声を聞いたら会いたくなってしまったの」


「いや、構わないよ。それより嬉しかった」


 哲哉がその言葉を言い終えると、シェイクを終わらせた遠藤が橙色をしたカクテルグラスを真希の前にやり、オリンピック、と小さく言った。既に黒いビールは哲哉の前に置かれている。


 遠藤は二人を見ずに


「ゆっくり……話せよ」


と少し含ませて言い、奥へ消えていった。


 久しぶりの訪問で話に花を咲かせたかった哲哉は、奥に引っ込んだ遠藤を訝しんだが、むしろこの方が真希と話しやすいと思いビールを煽った。カラメル麦芽の甘味が口の中に素早く広がる。


「元気にしてたか?」


「ええ。お陰さまで。あなたに振られてからはしばらく立ち直れなかったけど、もう過去の事よ。いい思い出ね」


「そうか。ならいいんだが」


「私があなたを恨んでる……とでも思った?」


 太陽のようなカクテルグラスを傾けて口にしている真希の表情は昔と変わらなかった。仄かなコーラルチークとシェルピンクを思わせる口紅は、緩やかなウェーブの掛かった赤茶色の髪と相まって若々しい印象をもたらすが、それにしてもやはり別人だと思ってしまう。


「ああ。多少は。少なくとも悪いのは俺だったからね。だから浮気した女に捨てられた時は(みそぎ)の一環だと思ってすんなり受け入れたよ」


「悪魔でもないし別に恨んではないわ。あなたも多少は傷付いたわけでしょ?ならあいこね」


 真希は小悪魔とも呼べる少々妖艶な目配せをしている。


「いや、真希に比べたら優しいもんさ」


 そうでもないわよ、と言った真希はまた頬杖を付いた。


「なあ真希。今日は何か話があるんだろう」


「あると言えばあるし、ないと言えばない。かな」


 頬杖は動かない。


「まあ話せよ。でなかったらここに来た意味ないだろう。それにその癖。直ってないんだな」


 真希は目だけを哲哉に寄越し、白い歯を溢した。哲哉にとっては四年ぶりの破顔である。四年前と変わらないがどこか変わってしまった真希の笑顔が遠い人のそれに思えて、寂しくもあった。


「やっぱり哲哉は哲哉ね。変わらないわ」


「もう少し大人になりたいんだけどな」


「あれ?俺は大人だからお前も大人っぽくしろよって言ったのはどこの誰だっけ?」


「知るか。まだ子供だったんだ」


 そう言い、二人で笑った。


 見計らったかのように厨房からカウンターに戻ってきた遠藤の手には白い大皿が乗せられており、それを二人の間に置いた。


「ペスカトーレ」


 トマトとガーリックの匂いが立ち込め、空腹が思い出したかのように哲哉を襲ってきた。


 真希は無色になったグラスを押しやり、「黒もらえます?」と遠藤に伝えた。それを皮切りに遠藤が話し出した。


「ようやく戻ったね。お二人ともお帰り」


「なんか照れますよ。子供じゃあるまいし」


「嬉しいじゃない。遠藤さん、ただいま」


「真希ちゃんの方がよっぽど大人だな。哲哉、お前は子供のままだ」


 勘弁してよ、と言った哲哉を笑いながら、遠藤が真希に尋ねた。


「オリンピック……知ってるのかい?」


「ええ」


「じゃあ……今日は……」


「本当に四年ぶりですよ。四年ぶりの再会(・・)


 哲哉は蚊帳の外に置かれるのが嫌になり、やや強引に割り込んだ。


「何の話だ?」


「お前、今の流れで分からないのか?」


 真希を見ても肩を竦めるだけであった。いよいよバツの悪くなった哲哉はグラスのビールを流し込み、「もう一杯」と言った。遠藤は笑っている。


「やっぱり子供だな、こいつは」


「そうでしょ?何も変わってないんですよ」


「店の名前の意味すら覚えていないんだろうな」


 二人は顔を合わせて笑っており、なんだか四年前に戻ったような気がしてならない。哲哉は目の前のパスタを頬張った。トマトの程よい酸味とブイヤベースの旨味が磯の薫りに絶妙に絡まり、堪らなく美味い。味は変わっていなかった。


「で、今日は二人でどうしたんだ。まさか昔話をするためだけじゃないんだろう」


 まだ解消されていない疑問を聞こうにも、何から話せばよいのか哲哉には分からないし、それが同じであろう筈の真希は恨んではいないと言った。況してや、あいこだ、とも言う。あの悪寒は杞憂なのであろう。今日の様子を察するに、悪い話ではあるまい、と哲哉は楽観した。


「な・い・しょ」


 と子供のように笑っている真希はもう既に上気したらしく、頬のチークは色濃くなっていた。その頬はこれから熟れる果実のように健康的な色香があり、哲哉はすっかり見入ってしまっていた。


「おい。哲哉。見過ぎだぞ」


 遠藤の声で我に返った哲哉の視線は、妖しく傾けられている真希の瞳にぶつかった。目を逸らさない真希の口が不自然に動いている。


(なにをみているの?)


 真希は笑みを崩さずにそう言った。いや、聞こえなかったのだが、確かにその艶やかな淡桃色の口はそう動いた。


「あ、いやすまない。すっかり見とれていたよ」


 早くも回った酒のせいだろうか、それとも四年分の贖罪なのだろうか、やけに素直に告白をしてしまった。


「哲哉、酔わずにそれを言えたら大人の男だよ」


「そうですね。ただ、真希が綺麗だったものでつい……」


 そう言うが早いか、囃し立てる遠藤の声が他に誰も客がいない店内に響いた。それが哲哉の酔いを一層早くさせていた。


 ひとしきり二人を囃し立てた遠藤は飽きたのか、普段の顔に戻り独り言のように喋りだした。


「別にお前らが話したくなけりゃ俺は構わないよ。なんとなく四年の間に何があったのかも分かったしな。俺は聞くなと言われれば耳を畳むし、聞けと言われれば耳の穴を拡げてやる」


「ありがとう遠藤さん。実は話す事はないんです。ただ久しぶりに会っただけと言うか。だから俺も最初戸惑っていたんですよ」


 横の真希を見ると、彼女も小さくコクリと頷いていた。


「かぁー、若いね。何も意味もなく会おうだなんて、青春だな。新横浜(ここ)にはラブホテルがたくさんあるから二人で行ってきな」


 遠藤が珍しく下品に笑い、つられて真希も声を出して笑っていた。


 哲哉は笑えずに少し胸に痛みを覚えていた。四年前の真希は確かに無駄がない透き通った美しい女であったが、猥談にはあまり笑わず、垢抜けないどこか背伸びをした娘に見えていた。真希は今年で二十七になるのだから、当時はまだ都会の荒波にようやく揉まれ出した年頃であっただろう。 知り合いの飲み会で初めて出逢った時は、その木訥(ぼくとつ)とした印象に心が揺れ動き、自分色に染める事ができるのではないかという欲望さえ芽生えた。最初の印象通り、真希は男を知らなかった。だから、酒もセックスも色々教えた。哲哉はもう三十五である。八つも歳が離れていれば釣り合いの体裁も気にはする。だから大人ぶらせて支配をしようとした。それが今ではすっかり哲哉を追い越し、大人の女性に変身しているのだ。垢抜け、自分の器量を理解し、それに見合った自分を演出できている。そんな知らない女が横にいるのだ。


 哲哉は胸の痛みが、嫉妬と後悔、再び目覚めた独占欲だということに気付き、四年前この店の前で真希を振った事を思い出していた。


「じゃあ遠藤さん。私と行きますか?」


「やめとくよ。怖い顔した()彼氏に殴られちまう」


「平気ですよ。哲哉は反省してるんですから。ね?」


 真希は片目を瞑ってみせた。ドラマのようなウィンク一つとっても洗練されているのだ。このような会話のやりとりも棘がない。痛々しいほどの棘がある方が、こんな場合は有難いのだが。


「お前、酔ったのか?」


 哲哉は必死に口の端を上げようとしているが、おそらく不自然に見えるだろう。これほどまでに自分が情けなく思うのは初めてだった。


「ちょっと酔ったかも。どちらか、送ってくださらない?」


 真希はウェーブの掛かった柔らかい毛束を指で遊ばせ、口を尖らせている。芝居じみた振る舞いも最早堂に入っていた。


「おい。哲哉。まだ終電あるだろ。宜しく送ってやれ」


「……はい」


 なんとも弱々しい言葉だろう、と哲哉は自己憐憫をした。


「お花摘んできます」


 そう言い手洗い所に立った真希は、キャットウォークよろしく確かな歩みを二人に見せ、棘棘しい甘美な残り香を置いていった。


「今だ。早く会計しちまえ。少しぐらい格好付けろ」


「そうですね。じゃあはい」


「あいよ。じゃあこれ釣りだ」


「もしかしたら真希のやつ。これも計算してるんじゃ……」


「ああ。そうだな。あの娘の事だ。男にたかるんじゃなくて、男に格好付けさせてるんだな。なかなかいないぜあんな女」


 声を潜めて会話をしていると、コツコツと小気味良い音を響かせ真希が戻ってきた。


「遠藤さん。最後に一杯だけ、いい?」


 遠藤は一瞬哲哉に目を寄越したが、「あいよ」とまた真希に視線を戻した。


「フランボワーズ・ソーダあります?」


 遠藤は小さくため息を吐き、「いいよ」と言い、「会計は哲哉だ。お礼言っときな。この一杯は奢りだ」と吐くように言った。


 哲哉は黙って二人のやり取りを聞く他なく、ただ美味そうにカクテルを飲む所作に再び目を奪われていた。


 哲哉はカクテルの事はあまり知らなかった。どうせ女の飲むものだろうと高を括っていたし、専ら、ビールから始まりウィスキーやバーボンをちびちび嗜む方を好んでいた。


 酒の分かる男は、酒の種類や店だけでなく、飲む酒の背景や歴史を知っているのだと聞いた事がある。


 おそらく自分の何倍もこの女は酒を知っているのだろうと思うほど、酔いが悪質な毒薬に変わっていくような気がした。


「美味しかった。遠藤さん、ご馳走さま。哲哉もご馳走さま。ありがとう。私から誘ったのに」


 静かにグラスを置いた真希は、行こっか、と言った。


 哲哉がドアを開け、真希を外に促す。


 このレディファーストが真希にとってどれほど効果があるのか分からない。むしろ効果など全くないのではないか。そう思うほどにかつて隣で笑っていたこの女が遠い存在に思えて仕方ない。


「また来いよ。とりあえず潰れるまでは潰れねえから」


 遠藤がプラタナスの木の下まで見送りに来ていた。


「遠藤さん。ご馳走さまでした。また来ます」


 哲哉と真希は二人並んで店を後にした。


 日本随一のスタジアムに向かう新横浜の大通りでは、息吹の始まりを思わす優しい風が側道の樹木を丁寧に揺らし、季節の移り変わりを予感させていた。


 ゆっくり歩く二人に会話はなく、聞き耳を立てている風達だけが歌っていた。


「ねえ哲哉」


 それを破ったのは真希だった。


「なんだ」


「私を振った事、後悔してる?」


「ああ。とてもね」


「じゃあさ……」


 真希は止まり、意を決したかのように大きな声で言った。そよいでいる風に負けないほどに。


「今日私を抱いて」


 哲哉は絶句した。よもや真希からこんな言葉が出るなど、どうして予想できただろう。遠くにいる水商売風の女や居酒屋の客引きもこちらを見ている。


「本気で言ってるのか?それともただ俺を困らせたいのか?」


「本気よ。昔よく行っていたラブホテルに行きましょう」


 真希の目は本気だった。淡いチークや口紅は変わらないが、瞳だけは今日初めて見る力強さだった。


「真希。聞くが、お前……結婚とかは……」


「まだしていないわ」


「じゃあ再構築ってやつだと思っていいのか?」


「それはあなた次第よ、哲哉。どう?」


 一瞬不気味な感覚に襲われたが、この女をもう一度取り戻せる好機ではないか、と短絡的に思考を纏めた哲哉は首を縦に振った。


 うまく丸め込まれた。それが正しい感想なのかも知れない。四年の月日は、かつて真希を丸め込んでいた八つも歳上の男との主従関係を見事に逆転させ、男の矜持を踏みにじるにまで至っていた。しかもこの数時間でだ。


 完全に手玉として遊ばれているが、好機を逃がすまいとする卑しい下心が男の正常な判断を狂わせていた。


「じゃあ行きましょう。cocktail(カクテル)はまだあるかしら」


 件のラブホテルはここから更に二区画端にあたる。一人揚々と歩く真希を哲哉は眺めていた。下着のラインが透けてしまいそうな白いフレアスカートを揺蕩(たゆた)わせ、まるで少女のように嬉々と歩いている。


 腕を絡ませることなくしばらく歩き、かつて見慣れたイオンが煌々と輝いている『ラブホテルcocktail(カクテル)』に到着した。


 慣れた手つきで二人はパネル操作をしたが、真希は迷わず休憩を押した。


「おい。終電なくなるぞ。明日は休みだし宿泊にした方が……」


「いいの。タクシーで帰れる距離だし。お金勿体ないわよ」


 被せ気味で真希は言った。


 部屋に入るなり、真希は哲哉の首に手を回しキスをしてきた。


 仄かに香る柑橘とアルコールの匂いが哲哉の口から鼻腔に抜け、理性の部屋に鍵を掛けようとしてきた。代わりに、別の部屋のドアの蝶番(ちょうつがい)がカタカタと音を震わせている。


 哲哉は寸でのところで真希の回した腕を切り、 蝶番の震えを止めようとした。


「待てよ。シャワー浴びてからにしよう。それにお前少し大胆過ぎやしないか」


「気にしないわ、哲哉。昔みたいに力任せに乱暴して」


 真希は哲哉の顔を熱を帯びた両手で覆い、再び柑橘の香りを哲哉の口に流し込んだ。


 理性の部屋は完全に閉鎖され、別の部屋の蝶番は音も立てずに破砕した。


 (たわむれ)などいらないほど、哲哉は荒ぶっていた。欲望の赴くままに何度も何度もぶつけ、それでも決して真希を(いたわ)らない。


 壁に伝わる衝撃が最高速になった直後、それは止んだ。


 悦声が規則正しい呼吸に変わる頃、汗を拭きながら哲哉は尋ねた。下がらない溜飲の源である。


「なあ真希。さっきの俺次第(・・・)ってどういう意味だ?」


 真希のストライプブラウスは前が開かれているだけで、そこから溢れた小さい双丘を細い手で隠していた。


「哲哉。シャワー、行こっか」


 またしてもはぐらかされた形になった。


「ああ」


 事務的に体を洗い、湯船に浸かることもなく二人は情後の部屋に戻った。


 ジェットバスを使い泡で遊んでいた日が昨日の事のように甦る。


「ねえ哲哉」


 既に衣服を完全に着込んでいた真希は撫でるような声で尋ねてきた。


 その早さに些か落胆した哲哉は「なんだ」と返した。


「私の事、まだ好き?」


「……ああ」


「四年前に浮気したふんわりパーマの茶髪女より?」


「ああ」


「私と、これからもずっとこうしていたい?」


「ああ」


「哲哉。あなた、壊れていく家庭見る勇気ある?」


「はっ?」


 真希は笑っていた。妖艶などではなかった。まるで悪魔に魂を売り渡した売女(ばいた)のような黒々しさがその目にあった。


 面食らった哲哉は驚きと混乱で言葉が出てこない。


「私、来月結婚するのよ。まだ結婚してないとは言ったけど、結婚するとも言ってないわ」


 笑いながら、真希は続けた。


「私は婚約者を心から愛しているの。あなたとの冷えきった関係に辟易していたから、あなたの浮気には喜んだわ」


 尚も続ける。


「いつも私の事を優勢して、私の似合う服を選んでくれて、私に合う化粧も教えてくれた。カクテルも彼に教わった。女性の嗜みは全て彼に教わった。それで去年プロポーズされたの。嬉しかったわ。でもね」


 哲哉は聞き入っていた。この悪魔が何を言い出すのか知りたかったのだ。


「身体はあなたでなければ満足できなかった。彼はすごく優しいし、スマートだし、あなたよりハンサムかも知れない。だけどあなたを知った身体はあなた以外じゃ満足しない」


「……どうしたいんだ?」


「天秤は彼。幸せも彼。身体はあなた。今日の関係を続けていけばきっといつか綻ぶわよ。崩壊は免れない」


「……」


「こんな時は男ってだらしないのよね。だから選んで。私と関係を続けて崩壊を選ぶか、今日失恋するか。ちなみに関係を続けて崩壊した場合、あなたにもしっかり責任は取らせるわよ」


「そんな事言われて続ける馬鹿いるか。確かにお前には悪い事をしたと思っているが、さっきもあいこね、って言ってただろう。なんでそんな事を言うんだ」


「あいこ?冗談じゃないわ。私の身体を弄ぶだけ弄んで、自分色に染めたと思ったら真逆の下品な女に浮気して。気付かなかった?黒い髪の毛は自慢だったのよ。彼も染めるなって言ったけど、あなたの浮気した茶髪女と同じにしたのよ」


「なんの……ためだ?」


「あ・て・つ・け」


 狂ってる。この女は狂ってる。哲哉は戦慄を覚え、早くこのホテルを出たかった。こんな狂ってる女に遊ばれたんじゃ身が持たない。そう思った時、真希はさらに続けた。


「ちなみに、私もうピル飲んでないわよ。馬鹿みたいに昔からあなたは私の事なんか考えてなかったけど。一応計算はしたの」


 哲哉は足の震えが止まらなくなった。


「そう。全てはあなたに復讐するため。別にあなたの身体がなくても生きて行ける。そして彼の事は愛しているわ。もし妊娠してもちゃんと産んで育てるわ。親の責任だから。命は同じ」


「だけど、あなたは一生私から逃げられないわ」


「二、三ヶ月間恐怖しなさい」と言い、真希は左手の薬指に指輪を嵌め、一人で部屋を出た。


 テーブルにはライターが一つ置かれていた。遠藤のイタリアン・バーの名前が彫ってある。真希が置いていったのか。それには『per sempreペルセンプレ 永遠に』と書かれていた。


カクテル知識


※オリンピックの意味 ➡ 待ち焦がれた再会

※フランボワーズ・ソーダの意味 ➡ 誘惑

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