ミイラレ! 目玉のこと
日条家……屋敷といっても過言ではないが、その裏手には山が存在する。
陽が落ち、薄闇の降りた頃合い。その山道を歩く二人の人影があった。
片方の小柄な影がもう片方の腕にしがみつき、前方の足元に光を投げかけている。
「あのさ、空木。もう少し離れてくれないと歩きづらい」
しがみつかれた方が困ったように言った。高校生くらいの少年だ。
「そんなこと言われてもぉ……」
弱り切った、か細い声とともに小柄な方が少年を見上げる。同時に眩い光がその顔を照らし出した。まだ幼さの残る、しかし落ち着き払った容貌を。
「眩しい」
「ごっ、ごめんね!?」
しかめっ面で文句を言われた小柄な影が正面へと向き直る。
少年は小さく溜息をついた。
「先に言っておくけど。怪異が出てきたところでなんにもできないからね?」
「いてくれるだけでも助かるんだよぅ。風の噂だと、すごい怖い見た目の怪異らしいから……」
「俺は熊とか猪とかの方が怖い」
言い捨て、照らされた道を進む。
しがみついた方が慌てて声を上げた。
「そっ、そっちが出たら僕がなんとかするから!そもそも小雨さまがしっかり管理なさってるもの、ここの動物たちが四季を襲うことはないよ!」
「だといいけど」
苦い声をこぼした少年……日条 四季は用心深く前へと進む。そして再度溜息をついた。
それにしても。四季は自分にしがみついた子供を横目で見やる。
彼……だったはずだ……は緊張の面持ちで前方を睨み、瞳から放つ光で夜道を照らしている。顔の上半分を占めるほど大きな一つ目が、否応なく今の状況の異常さを醸し出していた。
とどのつまり、空木もまた怪異なのだ。
知らない仲ではない。とはいえ、なんで夜道の付き添いを頼まれたのだったか?
一つ目小僧にしがみつかれたまま、四季は昼のことを思い出し始めた。
■ ■ ■ ■
「居候のあたしが言うことじゃないかもしれませんがね、若旦那」
日条家一階、大広間。畳に寝そべっていた四季は顔を上げる。
部屋の真ん中には大きな長机が置かれており、先の声の主はそこに肘をついて彼を見やっていた。牛のような角を生やした、薄青い肌の女である。
彼女の名は御伽 巡。最近この家に居憑いた自称『青行燈』であり、四季に百鬼夜行の頭領を押し付けた妙な怪異だ。
傍に古びたノートPCを開いたまま、彼女は呆れたように四季を見やる。
「若旦那もまだお若いんですから。家でゴロゴロせず、ご友人のところへ遊びに行かれたらいかがです?」
もっともな指摘。しかし四季は器用に肩を竦めた。
「遊ぶにしても、もっと陽が落ちないとみんな動きたがらないし……」
「そりゃ怪異の話でしょう。人間のご同輩はどうなんです」
「いたらこんなふうに時間潰してないよ。いないからふてくされてんの」
「なんとまあ」
巡が顔をしかめた。
静かにノートPCを閉じ……否、ひとりでに閉じたようにも見えたがそれはともかく、鬼女が四季の側にやってくる。
「ならご両親のお買い物の手伝いにでも行かれればよかったでしょうに。荷物運びくらいはできるでしょう」
「行ければ行きたいけど、それはそれで迷惑がかかるんだよ」
小さく首を傾げる鬼女。四季は起き上がり、居ずまいを正した。
「前はまあ、一緒に外に出ることもあったけどさ。そうするたびに怪異が憑いてくるんだよ」
「ははあ、なるほど」
「母さんたちは別にいいとか言ってるけどさ……」
「あの方々もなんというか、おおらかですなあ」
感心したように呟く巡。四季は鼻を鳴らし、彼女に背を向けるようにして再び寝転がった。
「それでなんかあったら困るじゃない。俺はあんまり危ない目にあったことはないけど、母さんたちもそうとは限らないでしょ。だから留守番」
「それはそれは」
他人事のような鬼女の声に、四季は眉根を寄せる。
なんとなくだが、四季には巡がどんな表情を浮かべているのかわかる。間違いなく意地の悪い笑みだろう。
「それならそれで解決策もありましょうに。あの座敷童に頼むとか」
「御影のこと?御影、あんまり家の側を離れたがらないからさ」
「なるほど、所詮は奴も自宅警備員と」
「絶対違う」
四季は少しだけ語気を強めた。彼女の場合、他の怪異にありがちな勘違いではなく、意図的に揶揄しているに違いないからだ。
以前顔合わせをしたときも反りが合わなさそうなようだったし。
どうにも彼女、わざと嫌われるように振舞っている節がある。
「ではあれです。今後しばらくはあたしもご一緒しましょう。それで寄ってくる悪い虫どもを好きにさせてもらうと」
予想外の提案に、四季は思わず振り向いた。
巡はにこにこと笑っている。こういうときの彼女はなにか企んでいると見ていい。
「そんな顔しないでくださいよう、あたしだって本当は出不精なんですから。こう、若旦那のお目付役にふさわしい怪異を見つけておくのもいいじゃございませんか」
半眼になった四季にぱたぱたと手を振りながら巡。一応は本心のように思えるが、さて……
「もーし」
その時だ。広間の外、縁側の方角から一声呼びが聞こえてくる。四季と巡は思わず顔を見合わせ、ついで声の方角へと向き直った。
「怪異ですねえ。何用でしょうかね」
身を起こした四季は、不思議がる巡をおいて障子へ近づき、ひと思いにそれを開け放つ。
そして縁側に佇む客人を見て目を丸くした。
それは白の着物に黒の袴という出で立ちをした子供。
頭にかぶっていたのであろう時代遅れの編笠を両手で抱え、部屋の中を覗き込むようにして身を乗り出している。
その顔の中央についた大きな目を不安そうに瞬かせながら。
「空木? 珍しいね、こんな時間に」
四季がそう声をかけると、『一つ目小僧』がはにかんだ様子で頭を下げた。
「う、うん。こんにちは、四季。それで、えっと」
と、彼は肩越しに部屋の奥を覗き込んだようだった。視線の先はおそらく怪訝な顔をしているであろう青い鬼女。
「……そっちの怪異が最近来た……青行燈さん?」
「うん、そうだよ。もう山のみんなにも伝わってるの?名前は知ってる?」
「御伽 巡、と申します。どうぞよろしく、一つ目殿」
彼女の声はすぐ後ろから聞こえてきた。驚いて振り返ると、いつの間にか鬼女の姿がすぐそこにある。あいかわらず妙なところで動きが素早い。
四季の眼差しをものともせず、巡はじろじろと空木を見下ろす。鋭い視線を向けられた一つ目小僧が怯えたように身を縮こまらせた。
「ちょっと、巡さん。あんまり空木を怖がらせないでよ」
「はあ。別段脅すつもりはございませんでしたが」
悪びれた様子もなく鬼女が言う。
横目で空木に一瞥をくれた彼女は、四季の横へと並ぶ。
「で、若旦那。一応お聞きしますがこの小僧ともお友達で?」
「そう。子供の頃からの付き合いだよ。たまに家でご飯も一緒に食べてたこともある」
「さいですか。あの座敷童どのも苦労していたでしょうなあ」
まるきり他人事のように呟いた彼女は、思い出したように空木を見下ろす。彼はびくりと身を震わせた。
「そうあたしが見るたびにビクビクせんでもよかろうに。あんた、若旦那になにか用でもあんのかい?」
「あのさ。そういうのは俺が聞くから」
「……あの噂は本当なんだね、四季」
ぼそりとした一言に、二人は同時に空木へ顔を向けた。
「あの噂? どれのこと?」
「百鬼夜行の頭領さんになったっていう」
「ああ、それ。本当は本当、だけど。誰から聞いた?それ」
「ながれ様から」
やっぱりか。四季は思わず苦笑した。手が早いというかおせっかいが過ぎるというか。
ながれというのは、四季の友達の一人である天狗……本人の弁を借りるならば『大天狗』だ。
もっともそのわりに背丈は低い。が、それを面と向かって言うと四季でさえどんな目に遭うかわからない。なかなかに気難しい怪異だった。
あとやたらと地獄耳なので有名だ。どこからどのように聞きつけたかわからないが、四季が頭領になった翌日には彼の元に訪れ山ン本組入りを志願したほどである。
「まあ、そうは言っても名前だけなんだけどさ」
「でも、もう子分ができてるんだよね?」
「こぶ……いや、まあ、手伝ってくれる怪異たちは出てきたけど……」
「じゃあ!」
苦い顔をする四季の言葉を遮るように、空木が不意に大きな声を上げた。
「その、お願いしたいことがあって!」
「お願い?」
四季は思わず眉をひそめる。巡が怪訝な顔で屈み込み、首を傾げて空木を覗き込んだ。
「山ン元組へ入りたいって話だったら喜んで受け入れるんだがね。頼りなさそうとはいえ、今は数が欲しい時期だ。歓迎するよう」
「えっ、いえ、僕はそういうつもりじゃ」
にわかに慌て出す空木。四季は溜息をつき、巡の肩を掴んで彼から引き離した。
「巡さんはちょっと静かにしてて。そっちからお願いってのも珍しいけど、なにかあったの?」
うつむく怪異に、四季は優しく問いかける。しかし心の中に疑問符が浮かんでいるのもまた事実だった。
空木は見た目こそ十二、三歳ほど。かつ性格もおとなしい。
しかしそれでも怪異は怪異。四季などよりもずっと長くの時を生きている。
そのため一方的に世話を焼かれることは多くとも、向こうからこちらを頼ってくるというのは滅多にない。
「う、うん。ちょっと恥ずかしいんだけど」
もじもじした様子を見せながらも、空木は口を開いた。
「その……今夜、ちょっとした事情でミカリの婆さまのところに戻ることになって」
「はあ、蓑借り婆ですか。こんなところにもいるんですねえ」
巡が興味深げな声を上げる。四季は眉間にしわを寄せて彼女を睨んだ。
すまし顔をしている彼女に溜息をついてから空木へ向き直る。
「あの人のことはあんまり気にしなくていいから。それで?」
「う、うん。でも最近、怖い怪異が夜道に出るっていうからさ」
「怖い怪異ぃ?」
素っ頓狂な声が出てしまう。空木は頬を赤らめ、小さな声で言う。
「僕一人だと不安だし、だからといって小雨さまのところのみんなは忙しいし……だから、その……四季の子分に付き添いをお願いできればって」
「付き添い、ねえ」
四季は眉間を揉みほぐしながら考える。怪異が怪異を怖がって怪異に付き添いを頼む。なんともおかしな話だが、困っている相手がいる以上笑うのも失礼だろう。さてどうしたものだろうか?
彼は何気なく巡を見やる。彼女もなにか物思いに沈んでいるように見えた。
「や、やっぱりそういうの、難しいかなあ……」
「いや、そんなことはないんだけど」
申し訳なさそうに言う空木に四季は即答を返す。彼としても、自分がなにか役に立てるのなら喜んで手を貸したい。
ひとまずは協力してくれそうな友達の検討をつけるべきだろう。他の怪異にしても、戸惑うに違いない。説明が必要になる……。
「付き添いがいればいいわけだね」
そう声を上げたのは巡。自然、四季と空木の視線が彼女に集まった。
「もしかして巡さん、行ってくれるの?」
「はい? いや、若旦那が行けと言えば行きますが。それよりも妙案があると思いまして」
「どんな?」
思わず首を傾げる。四季としては、彼女が動いてくれるのが一番なのだが。
「若旦那がご一緒すればいいんですよう。それで万事解決です」
「……うん。ちょっと待ってね」
四季は額を抑える。
目を丸くしている空木に断りを入れてから、巡を広間の奥へと引っ張っていった。
「あのさ、巡さん。なにがどうなってそういう結論になったか説明してくれる?」
彼なりに圧力をかけるよう問いかける。しかし案の定、鬼女はそれをものともしないようだった。
「なにがどうなってもなにも、それが一番穏便に済むからですよう」
「穏便?」
「ええ、ええ。此度の依頼、別にあたしやらあの大天狗どのやらに一任されても楽にこなせる仕事ではありましょう。ですがねえ」
と、彼女は不意に声を低めた。四季もなんとなく彼女に顔を近づけ、聞き漏らさんとする。
「……その怖い怪異とやらの性質次第では、切った張ったの事態になりかねません」
真面目ぶった顔でそう言う。しかし四季もようやく彼女が自分を推した理由を理解したように思った。
「……けど俺が行けば、そうした事態にはならない。そう言いたいの?」
「ええ、ええ! その通りです。物分りが良くなってきましたなあ、若旦那も」
「過信しすぎじゃない、それ? 空木と一緒に俺も危ない目に遭うかも」
「そうは仰いますがねえ」
彼女は扇子で口元を覆い隠す。
その目がいたずらっぽい笑みの形に細められたのを見て、四季は嫌な予感がした。
「あたしに会う前も含めて思い出してごらんなさい。若旦那が怪異に傷つけられたことなど、一度だってありましたか?」
……その問いに、四季は苦い顔で首を横に振ることしかできなかった。
■ ■ ■ ■
そんなわけで言いくるめられてしまった彼は、夜遅くに空木とともに山中を行くことになったのだ。
空木も空木である。反論なりなんなりしてくれるかと思っていたが、その結論を大喜びで受け入れてしまった。
その顔がいつになく上気したように見えたのは、きっと気のせいだろうけども。
「それにしてもさ」
「うん?」
「怖い怪異が出始めたってのはどういうこと? 山に住んでる怪異って知り合い同士だと思ってたんだけど」
ふと、抱いていた疑問をぶつける。
彼らが進んでいるのは日条家の裏山だ。一応両親が保有している形になるらしいが、どういった経緯でそうなったか四季は聞いていない。
ともかくここには驚くほど怪異が潜んでいて、子供のころは定番の遊び場だったのだ。
そのときの経験からして、山中の怪異というのはおおよそ互いを知っているのだと思っていたのだが。
「そっか、四季は知らないんだね」
空木が言った。
四季は怪訝な顔で腕にしがみつく空木を見下ろす。彼もまた四季を見ようとして……目から光を放っていることを思い出したのだろう、慌てて前へ向き直った。
「最近、この辺りって他所から来た怪異が住み着いてるんだよ。管理するのも大変だって、小雨さまがぼやいてた」
「……世知辛いなあ」
しみじみとした呟きが漏れてしまう。小雨というのは自称『山の神』……正確には日条家の裏山一帯を取り仕切る怪異である。
そんな住居への不法侵入のようなことが行われているとはまったく知らなかった。怪異の住宅事情というのも、案外世俗的らしい。
「じゃあその怖い怪異ってのも、最近こっちにやってきたやつなのか。どんな怪異なの?」
「ええと、僕も噂しか聞いたことないんだけど」
空木が説明し始めたそのとき。ぱす、と。前方、光の届かない闇夜の先に軽い物音が響いた。
二人は思わず足を止める。
「……今の」
空木が緊張した声を出す。気のせいじゃないよね、と確認したかったのか。
しかし彼が途中で口をつぐんでしまったのは、あの不自然な軽い音が何度も……さらに言うならばだんだんと音量を増して耳朶を打ち始めたからだろう。一定のリズムを保ち、少しずつこちらへ。
腕を掴む力が強くなる。光がぶれ始めたのは、空木が震え始めたからだ。
四季はただ目を細めて近づいてくる怪異を見極めようとする。そして、ついに光の中に入ってきた『それ』を見て、ぽかんと口を開けた。
「…………笊?」
間の抜けた声に、答えるものは誰もいない。
いかにも、光の端に現れたそれはただの笊のように見えた。伏せられた状態でぽつんと佇んでいる。
山道で見るものとしてはたしかに異常だが、それだけだ……とぼんやり眺めていた四季は、腕に伝わる震えに気づく。
「空木? どうかした?」
「う、うん」
その顔色が青い。
四季はふと気づく。彼の単眼が、笊から焦点をずらしていることに。
「ご、ごめんね……僕、ああいうの、駄目で」
「へ?笊が?なんで?」
「だ、だって。あんなに目の数が多いと、僕」
その返事に四季は呆気にとられる。なにを言ってるんだ、この子は。
笊を見つめながら少し考え、ようやく彼は意味を理解した。
どうやら空木は笊の網目のことを言っているらしい。怪異が人間の思いもよらないものを怖がることがあるのは知っていたが、また妙な弱点もあったものだ。
変なところに感心していた矢先、怪しい笊が動きを見せた。自力でひっくり返り、こちらに近づく。
四季が眉根を寄せる間にも、笊の動きは速くなっていく。ひっくり返り、伏せる。またひっくり返り、仰向けになる。その繰り返し。
そしてそれは四季たちの目の前に、仰向けの状態で止まった。
「……これだけなら、大したことないんじゃないかな」
震えている空木を落ち着かせるため、冷めた目つきで呟いたそのときだ。
がたがたと揺れ出した笊の中から、何かが湧き出るように出現する。ピンポン球ほどの大きさの、白い粒の山。
「……ひっ!?」
空木が小さく悲鳴を上げる。その粒の正体に気づいたからだろう。それは眼球だった。様々な色の瞳を持った眼球が、せわしなく辺りを見回している。
四季は眉間のしわをさらに深くし、その眼球の山を睨みつけた。目玉の群れが一斉に見返してくる。そして四季よりも高く山が盛り上がり、さらに数を増して視線を彼に投げかける。
空木が息を呑んだ。
四季は目玉の山と睨み合いを続ける。空気が硬く張り詰めた。
何分間続いただろうか。どこからともなく、溜息のような風が吹いた。
『……あはぁ。負けた』
不意に目玉の群れがてんでバラバラの方向を向き始める。山が振動し、溶け出し、人型となる。目玉を生み出していた笊がほどけ、そのシルエットを包み込んだ。
「全然ビビんないだもんなぁ!」
快活な声。真っ白な裸体を網目の細かい竹製の装束で包み込んだ女がそこにいた。長い白髪のようななにかを手でいじり、困ったような笑顔で四季を眺めている。
ひとまず顔は人間と同じだ。しかし髪の先端にぶら下がった目玉や、体を包み込む網目の奥から除く色とりどりの視線が、彼女が本質的に先ほどの怪異と同質のものであると知らしめている。
「あんた人間だろ?こうして人間を驚かしたのも久方ぶりだ。負けちまったけどさ!」
言ってからからと笑う。その口の中からもいくつもの瞳がこちらを伺っているのが見えた。
そして気安い様子で歩み寄ってくる。震え上がった空木を背中に隠しながら、四季は笊の怪異を見つめた。
「あなたが最近ここにやってきたっていう怪異? なんて名前なの? あとその辺で止まってくれるかな。ちょっと連れが怖がってるから」
「おお、おお、そりゃ失礼」
四季の後ろに隠れた空木を楽しげに見やってから、笊の怪異は足を止めた。
「あたいはイジャロってんだ。人間風の名前は持ってないから、まあそう呼ぶがいいよ。お察しのとおり流れの怪異さね」
「イジャロ、さん」
「そ。で、あたいにだけ名乗らせるつもりかい?人間さん」
その問いかけに、四季は逡巡した。怪異にむやみに名前を教えるものではない。幼い頃、御影に散々注意されたことだ。
「そんな警戒しないでおくれよう。あたいはほら、ちょっと出てきて驚かすしか能のない怪異なんだから」
イジャロがどこか媚びるように言う。
その顔の目を見つめていた四季は、ややあってから口を開いた。
「……日条 四季。で、こっちが空木」
「四季? あんたが? へええ!」
感嘆の声。次の瞬間、四季の視界が彼女の顔で埋め尽くされた。目にも留まらぬ速さでにじり寄ってきたらしい。
「こんなところで会えるとは!」
思わず仰け反ったところ、イジャロに両手を握られる。
竹細工の硬い触感越しに伝わってくる異様な柔らかさと、なにより全方位から注がれる、圧迫感のある熱視線に彼はたじろいだ。
「な、なに?俺のこと知ってるの?」
「そりゃアもちろん!あたしゃねえ、あんた目当てにここへやってきたんだから」
嬉々とした表情でイジャロは四季を覗き込む。彼を覆い隠さんばかりの勢いだ。
「最近、山ン本組の頭領になった人間ってあんただろ? しかも組員を募集してるそうじゃないか! これは乗り遅れちゃならんと思って」
「ま、待って待って待って! もうそんなことまで噂になってんの!?」
必死に四季はイジャロを押し返す。当の怪異はキョトンと彼を見つめた。
「噂にしてるんじゃないのかい? もう潰れちまったとはいえ、山ン本組の名前はまだ伝説だ。そこへ前々から評判の人間が頭領に据えられたとくりゃ、そりゃ見物せずにゃいられないだろ」
そして彼女は思い出したように四季の手を強く握りしめる。
「ここで会ったも何かの縁。あたいもぜひ山ン本の一員に加えちゃくれないかい?」
「え、えーと」
彼は困ったようにイジャロの熱視線から目を逸らす。たしかに。巡からもあわよくばそういう交渉をしてみろと頼まれていたが。
背後からは、空木の驚きとも賞賛ともつかぬ視線が突き刺さる。なんとも居心地が悪い。
たしかに穏便には済みそうだが、それ以上に面倒な事態になっているのは気のせいだろうか?
「わ、わかった。とりあえずそれはあとで検討させてくれない? 今は少し用事があって」
「そうなのかい? 邪魔しちまったか。用事ってのは?」
「えっと。この子の付き添いというか」
四季の言葉に、イジャロが首を傾げた。そのまま覗き込まれた空木は、慌ててその視線から逃れようと四季の影に移動する。
「そんな子どものお使いみたいな仕事を頭領が直々に? ずいぶん人手が足りてないんだねえ」
「いや、そういうわけでは」
ことの元凶にそう言われても、どう反応したものか。言い淀む四季。
イジャロはそれを気にせずなにか考え込んでいたようだったが、ややあってから思い立ったかのように手を打った。
「よし! それならあたいも憑いてくよ」
「へ?」
「目の数には自信があるからね。変なやつらが近づいてきたら教えるくらいのことはできる。どうだい?」
どうと言われても。四季は思わず空木と顔を見合わせる。彼らが警戒していた「変なやつ」こそ彼女なのだが。一つ目小僧もまた、単眼に困惑の色を浮かべていた。
「さ、そうと決まったらさっさと行こうじゃないか。で? 目的地はどこなんだい?」
戸惑う二人に気づいた風もなく、イジャロが張り切った声を上げた。
どちらともなく溜息が漏れた。
「……ええと……仕方ないな……行こうか、空木」
「う、うん……こっち、です」
空木が四季から離れ、目から光を放ち先導する。その後に四季が、そしてイジャロが続く。なんとも奇妙な空気の中、三人は夜の山道を往くのだった。