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3話

「こりゃあまた。埃っぽいな」


 校舎に入って一言、文雄は咳込みながら言った。

 確かに一歩歩くごとに、埃が舞い上がり、懐中電灯の光の形がはっきりとわかった。そして些細な音が恐怖を掻き立てる。しかし外部の音は遮断されたように聞こえにくかった。圭吾にとってはあの呪詛めいた唄が聞こえないのは喜ばしいことでもあったが。

 今はまだ窓からの薄い光により、暗さはそこそこといった具合だが、一歩進むごとに闇は深くなるだろう。場所は教室のようだが、机や椅子はない。窓から見て右側の壁に木製のロッカーがあり、左側の壁に黒板があった。

 杏子は文雄の腕を掴みながらあたりを見回している。

 圭吾は足元で床を照らしていた。木製の床で、所々腐敗していて崩れそうな部分があった。

 ふと床に溜まった埃に違和感を抱いた。


「ちょっと」と圭吾は皆に呼びかける「今の場所から動かんといて」


 圭吾の声により兄妹は動きを止める。


「何や何か見つけたんか圭吾」

「ああ、床を見てくれ」


 懐中伝とが一斉に床を指す。そこには埃を踏んだことにより、足跡が出来ていた。

 

「こ、これが何なん」


 杏子は震えながら言った。


「足跡……」と文雄「確かに多いな。ちゅうことは」

「ああ」と圭吾「ここから出入りしている奴がいる」

「まあ、ご丁寧に一か所だけ窓がないからわかっとたわけやけど」

「せやけど、やとしたら今も中にいる可能性があらへんか?」

「ないよ。この祭りの間は、魚類面の奴はみな仕事を休んで祭りに参加しとる」

「魚類面の人以外の奴がこの校舎にいたら?」

「……ほぼない。大抵のその他の奴は今日は家にこもっとる」

「つまりゼロじゃないと」

「もしおったら隠れながら行けばええやろ。いくら話てもらちがあかん。そろそろ進むで」

「まあな」


 三人は教室から出るため、廊下に向かう。

 懐中電灯の僅かな光を頼りに進むので、圭吾は手探りで海に潜っているような感覚を覚えた。人がいた時の可能性を考え、教室と廊下の間や、廊下の角では一旦明かりを消し、耳を済ませて自分たちのほかに物音を発するものがないかを調べてから進む、という取り決めをした。灯を消すと、一瞬視界が黒に染まる。やがて次第に目が慣れゆき、近くのものの形ぐらいはわかるようになる。しかし、今は窓からの光があるから薄暗い程度ではあるものの、奥に入れば完全な黒の世界となる。

 開いている窓に感謝しながら、耳を済ませる。今回の所は特に怪しい所がなかったので、再度明かりを灯した。

 さて廊下を進もうかということになり、教室二部屋ほど歩いたところで、出鼻を挫くかのように、コンクリートの壁があった。


「なんやこれ」


 圭吾はその廊下を不自然に遮断する壁を懐中電灯で照らした。


「位置的には、校舎の端やないな」と圭吾「この壁の材質は校舎自体の壁とは別の材質で出来とる」

「つまり校舎より後から作られた可能性が高いいうことか」

「つまりとっとと帰れちゅうこっちゃな!」


 言ったのは杏子だった。

 一人が取り乱していると、少し冷静になれて助かるなと圭吾は感謝した。


「考えられる理由は何がある?文雄」

「そうやな……」


 文雄はその壁を拳の裏で叩いた。


「何かを閉じ込めるためとか」

「ひい!」

「ありうんな」

「せやけどどうする?これじゃ進めんぞ?」


 文雄の言葉に圭吾は、入ってきた教室の二つ隣にあたる教室を覗き込む。

 

「教室の中までは遮断する壁が続いてない。ここからなら壁の向こうへ回り込めそうや」

「部屋変わる時は明かり消すいうたやんか」と文雄は自分の顔に明かりをあてながら、不機嫌そうに言った。

「ごめん……せやけどこんだけ話とったらあんま意味ないよう思えるけど……」


 それに対してか文雄を懐中電灯を切った。

 圭吾は首を傾げながら、文雄を照らした。


「どないした」

「思ったんやけどな、今から別行動せんか?」


 今度は圭吾と、杏子が顔を見合わした。


「ど、どないして?お兄ちゃん。みんなで探った方が安全やんか」

「そうや、安全やからこそ、緩みが生まれとる。ここは一人づつになって気を引き締めていかんと。それにやっぱり、中に誰もいない可能性は高いから、分かれたほうが効率がええやろ?」

「僕は反対やな……最初は分かれてもいい思ったけど」圭吾は壁を指さした「こない壁で遮断されて、迷路じみたとこで一人になるんは危険やろ」

「そうやって怖いだけやろ」

「なんやと」

「やめや二人とも」


 言い争いそうになる男二人を、杏子が止めに入る。

 圭吾は懐中電灯で杏子を灯して言う。


「せやったら多数決でどうや。別行動に賛成の人」


 文雄が手を挙げた。


「反対の人」


 圭吾と杏子が挙げた。


「決まりやな」


 圭吾がそう言いながら、文雄の顔を照らしたら、納得いかないと言うような顔をしていた。


「まあ、ええわ」しかし意外にも文雄は言った「多数決は多数決やな」

「えらい素直やないか」と圭吾。

「まあな、ただ」


 文雄は腕に捕まってる妹を見て言った。


「腕から手え離せ。これじゃあ何の訓練にもならん」

「えぇ……でも……」

「えぇ……じゃない。いつまで兄ちゃんにおんぶ抱っこで行くつもりや」

「……」


 杏子は恐る恐る掴んでいた手を離した。それでもまだ手を前に出して、握ったり離したりをしていた。

 文雄は痛そうに掴まれていた腕を摩っている。


「じゃあ圭吾。杏子。行こか。の、前に一旦明かり消して様子を伺うか」


 言われた通り他二人は灯を消した。

 今度こそ完璧なブラックアウトだった。光という守りを失った圭吾は、丸裸で立っているような錯覚を覚えた。

 30秒。

 それが取り決めた、光を消す時間だった。だが完全なる闇の中にいる間は、圭吾にはそれが何倍もの長さに思えた。

 体を傾けただけで、老朽化した床が悲鳴を上げた。杏子や文雄の息遣いもしっかりと聞こえる。

 圭吾は闇の中で、光の届かない遥かなる深海を思う。海の底でただじっと座り込んでいる自分を。

 そんなんことを考えていると突如大きな足音が、この場から去っていく音がした。


「な、なんや!」


 悲鳴のような叫びが、杏子の口から出た。


「文雄。どないした!つけんぞ!」


 圭吾と杏子は同時にスイッチをつけたため、互いに一瞬目が眩む。

 目を押さえながら、懐中電灯を振り、あたりを見回した。


「お兄ちゃん!お兄ちゃんがおらん!」

「落ち着け!いるなら返事ろ文雄!」


 だが返事は帰ってこない。


「お兄ちゃん!」


 杏子が大きな足音をたて、部屋の外へ駆け出していった。


「あ、ちょ、待て!」


 だが圭吾の静止むなしく、杏子は止まらない。

 後を追おうとしたが、床に開いた小さな穴に足を取られ転んでしまう。

 地面に口をつけることは免れたが、埃がかなり肺に入った。手からこぼれ落ちた懐中電灯が大きな音を建てて、床に転がり落ちた。

 立ち上がろうとすると、足を挫いてしまったためか上手く出来ない。

 圭吾は痛みを堪え、無理に出も立ち上がった時、すでに聞こえない足音から、一人暗闇の中に一人取り残されたことを知った。


 

 ◇ ◇ ◇



 三人でいる時は、圭吾にはそこまでの恐怖は感じなかった。

 だがいざこうやって、一人になると、押さえていたものが沸々と湧き上がって来た。それは大古から存在する、生物としての本能的な闇への恐怖の権現。

 すべてコンクリートで塞がれた窓や、遮断された壁のせいで、空気に圧迫感を感じる。

 だが圭吾は痛む足を引きづりながら、前に進んだ。

 落としてしまったせいか、心なし懐中電灯の光が弱い。

 壁づたいに手を当てて、今度は転ばないように、慎重に進んだ。灯りを消すのはもうやっていない。

 廊下を遮断する壁は一か所ではなかった。そのため教室に出て入ってを繰り返して進むことになった。

 椅子や机が残っている部屋や、床に穴が開いている場所もあった。

 圭吾はかつてのこの机で、学んでいたものを想像しようとする。

 休み時間に友と話す者。クラスメートに隠れて恋人と会う者。真面目に勉学に励む者。

 想像の中の生徒は皆魚のような顔をしていた。

 

 

 迷路じみているとは、その通りだな、と圭吾は思う。

 右手を壁から放さず、ようやく校舎の端へ到達した。突き当りに両開きノドアがあるものの、鍵がかかっていて開かない、左手側を照らすと、二階へ続く階段があった。

 一旦腰を下ろそうかと思たが、これ以上埃で服を汚したくなかったのでやめた。

 突如上のほうから甲高い悲鳴が上がった。

 足が痛むのを堪えて、出来るだけ早く駆けだす。

 階段を上った所、二階で少女が圭吾に背を向けて座り込んでいた。

 圭吾は明かりを向ける。


「ひいい!」


 少女が灯りに驚き、振り向いて顔を腕で塞ぐ。

 その声と服装から、圭吾は少女が杏子であると理解した。


「杏子ちゃんか……文雄はどうした?」

「あ、ああ……圭吾さんか……脅かさんといてよ……」

「ごめん」

「あ、そ、そう。そうなん。お兄ちゃんを追ってたら見失って、て」


 杏子は興奮と恐怖からか、上手く話せていない。

 大げさな手振りで説明しようとしていた。


「一旦落ち着け、な」と圭吾は宥めた。

「そ、その追ってたら歩いているのが見えて……」

「文雄が?」

「ちゃ、ちゃう……何か刀持った浴衣着てた人……見間違いかもしれんけど、狐みたいなお面しとって……」


 圭吾は祭りの中で、肩を掴んできた人物が思い浮かぶ。狐のお面などこの世にいくらでもあるのだし、同一人物ではない可能性もあるが……。


「その人女性やった?」

「よく見えんかったけど、言われてみればそうやったかもしれん……心当たりあるん?」

「多分……その人魚類面の人かもしれん」

「なんでまたこんな日に……」

「ただ人がいると分かった以上あんま深入りせんと文雄見つけて帰ったほうがええかもな」

「!せやせや!早くお兄ちゃん見つけて帰ろ!」

「声静めたほうがええかもな」

「はい……」


 杏子は立ち上がりスカートについた埃を払う。

 自身で体を抱きしめ、不安そうな顔をしていた。

『怖いなら僕の腕をつかんでええよ』というわけにはいかないので、圭吾には先導するくらいしかできることはなかった。そもそも掴まれたら、圭吾自身が震えているのに気が付かれてしまう。

 二階にも一階と同じように廊下を遮断する壁はあった。

 右手で壁や窓を掴みながら歩く。


「足」と圭吾の後ろから囁き声がかかる「怪我したん?」

「ああ」

「お兄ちゃんとわたしのせいやな……堪忍な」

「ええよ別に」


 それっきり二人は黙り、足音だけが続く。廊下の構造からか、そこまで音は響かなかった。

 空気が変わったのは廊下の半ばごろまで来た時だった。



 ◇ ◇ ◇


「っ!」


 校舎に入ってから感じていなかった生臭さが復活した。

 さらに強烈そになっており、刺激臭じみていて、鼻孔を刺激され、圭吾は噎せた。


「なんやこの臭いは」

「街の臭い……とはちゃう感じもする」と杏子は鼻を押さえながら言った「血の臭いに似てへん?」


 圭吾の背筋が凍る。


「嗅いだことあんの?」

「怪我した時とかよく臭がへん?」

「あんまり……」


 歩くごとに異臭は強くなっていく。

 そして発生源と思しき部屋の前に二人は立った。

 廊下と部屋を繋ぐ窓は割れているものがあった。覗き込むと、水道のついた大きな机が何個かあることから、理科実験室だとわかる。外から明かりを照らした限りは、他に比べ残っている器具や机が多かった。


「こ、この部屋入るの?」震える声で杏子は言った。

「もしかしたら中に文雄がいるかもしれん」

「せやけど……」


 圭吾は鼻を塞ぎ腰を落として引き戸を開けた。

 入った瞬間、歓迎するかのように、床の木が軋む音を上げる。

 一歩、そして二歩と警戒を怠らず、圭吾は歩いて行く。

 あきらかに壊れているが、よくわからない機械が所々にあった。

 その中でも一際大きく壊れているものがあった。まるで一部が爆破したような、そんな壊れ方だった。

 どうも高校生の授業で使うにしては大げさに見えるような機械が多かった。

 壁際に割れたガラス瓶を補完してある棚があった。樹脂が禿げた人体模型もみつけたが、あらかじめ覚悟してたため、少し驚く程度にとどめることができた。机を触ってみると、勿論かなりの埃が手についた。

 

 ふと、圭吾は机の一つに箱のようなものが置いてあるのを見つけた。

 そしてそれが異臭の発生源であることはすぐにわかった。

 近くに寄り、箱の置かれた机を懐中電灯で照らす。

 机の上にはびっしりと、『開けるな』と言う文字が書かれていた。


「なんやこれ……なんやこれ」


 杏子が口を押さえる。

 暗くて何で書かれたものかはよくわからない。しかしよく見るとそれは赤色であった。

 不自然にもその机にはまったく埃が乗っていなかった。

 大きい文字は圭吾の拳程度。小さい文字は小指の先程度。

 そんな大小様々な『開けるな』で机の上に隙間なく埋められていた。

 机の上に乗った四角い物体は、一部が汚れた白いダンボール箱だった。ちょうどバレーボールが一個入るくらいの大きさだ。

 圭吾は箱に向かって手を伸ばす。


「駄目!」


 杏子がその手を遮って掴んだ。

 

「いや、でも」

「これを開けたらあかん……これを開けたら取り返しのいかんことになる気がするんや……もう後戻りできんような……根拠はないけど」

「……僕もそんな気いする。せやけどこれを開けなきゃ前に進めない。この中に里見さんの恐怖の原因がある。そんな気もする。根拠はないけど」

「こんな異臭するもんあけたら、体に毒やで……」

「この程度の密封性の容器で猛毒が漏れ出てるなら、開けんでもすでに僕達はアウトや」

「動物の死骸とか入ってたらどないすんの?」

「なら距離をとっといてくれ。僕が開けて確認する」


 杏子は何か開けるのを止めさせる方法はないかと、懐中電灯で辺りを照らして、やみくもに探す。

 

「ちょっと待って。ちょっと待ってな」


 焦りを帯びた声で机を一つ一つ照らしていく。そんな中何か見つけたようだ。

 圭吾が近づくと、机の上に紙が置いてあるのが見て取れた。

 黴と染みで茶色に汚れており、手で持てば崩れてしまいそうなほど朽ちていた。

『奉仕生物の制作と、バージョンアップのための実験の覚書』という文字が見える。


「あ、あ、開けるのはこの紙読んでからにせえへん?それからでも遅うないと思うんやけど」


 杏子は自分で言ってることに無理があるとわかってるのか、片手で額を押さえた。

 こんなものはなんの時間稼ぎにもならない。 

 圭吾はそれを机に置いたまま、慎重に読み始めた。


『××××年×月

 

 いあ!いあ!でいごん!

 いあ!いあ!くとぅるふ!

 この実験は成功すれば我らが種の大いなる発展につながるだろう。人類が生まれる以前、我らの祖先は主と共に地球に降り立った。

 残念ながら今現在この地には、当時を生きた仲間はいない。古の戦いにより多くの技術と仲間が失われた。しかし彼らが残した文献から、当時のことを再現するのは可能だ。すでに我らは人類より数歩先の科学力まで回復していた。

 まず第一に奉仕種族の制作実験を行う。起源としては「古きもの」が作ったのが始まりのようだが、我らが祖先も技術をなんらかの形で得て、制作し、奴隷として使役していたようだ。

 この地の高等学校を隠れ蓑に、奉仕種族ショゴスの再開発を行うのだ。第一理科実験室ではミクロ単位の実験を。第二実験室ではより本格的な実験を行う。

 実験体としてはこの街から、あるいはほかの街から人間をさらってきてする予定だ。


 ××××年×月


 実験の第一段階だ。自然界の生物進化の原理とコンピューターシミュレーションを使った最適化の手法の組み合わせ、つまり遺伝的アリゴリズムを組む。

 それを有機ニューロコンピューター上にインストールし、有機マクロマシンが集まってできた本体を動かす。

 ショゴスの栄養摂取方法であるが、文献によるとどんなものでも食べ、自身の栄養に変えていったのだという。だが今の段階では一部の無機物を食事として、栄養に還元する臓器をつくるのは困難だった。

 早速実験は停滞を始めた。

(これから先は汚れにより読めない)』


「何て書いてあったん?」


 杏子が手元をのぞき込んでくる。

 声をかけられたことにより、固まっていた体が動く。


「漢字が多かったり、難しいこと書いてあったりでよおわからん。ただ人体実験をしとったみたいなことを書いてある」


 圭吾は杏子の顔から血の気が引く音を聞いたきがした。


「そ、そない今時人体実験やなんて……昔誰かがふざけて書いたんちゃうん?」

「やろな、そうに決まってる。決まってる」

 

 そもそも文の大部分が読めなかったのだから、人体実験というのも自分の読み間違いに決まってる。

 そう圭吾は自分に言い聞かせるように強く念じた。

 

「で、そろそろ開けんで」再度圭吾は箱の前に立った。

「本当に?本当に開けんの?」

「ああ」


 杏子はまだ迷っているようだったが、やがて意を決したような顔もちで数歩下がった。


「わかった……でも中身は見せんといてほしい、言葉で教えて」

「わかった」


 そう言いながら圭吾はダンボールの蓋に片手を駆け、もう片方の手で照らした。それを見て杏子は慌てて後ろを向いた。

 圭吾の鼓動が速くなる。呼吸が荒くなることにより、多くの異臭が鼻から入った。噎せそうになるのを堪える。口で呼吸しようとすると、空気が酸味を帯びていた。

 手の汗がダンボールに移り、染みが出来始めた。その手が震え汗が飛び散る。

 大量の『開けるな』と言う文字が頭の中を回り始める。


「ちっ」


 それらを振り払うように、舌打ち一つ。

 ええいままよ、と圭吾は蓋を開けた。

 初めに見えたのは髪の毛だった。それが球状のものの上から生えていた。


『これは模型これは模型これは模型これは模型これは模型これは模型これは模型これは模型これは模型』


 言い聞かせる。

 自分の脳内に強く言い聞かせる。これが本物であろうはずはないと。こんなものは偽物であるに決まっていると。これは人の首を模した模型であると。


「こんなもんなんでもない」


 言いながら懐中電灯を口で咥え、箱の中身を両手で持つ。弾力のない皮膚の感覚が、圭吾の自己暗示を邪魔してくる。

 それを目線の高さに持っていく。首の部分から液体が滴り落ち、『開けるな』の文字の一部を消した。

 それは模型だとしたら、圭吾と同じくらいの人男の子の首を模したものだった。肌は文字通り、死人のように白い、というのも変な話だろうが。両目は閉ざされており、安らかにも見える。口の部分から赤黒い液体が滴り落ちていた。


『よく出来た模型だなあ』


 だが、その掴んでいる手。震えていて。

 掴んでいる手、汗ばんでいて。

 限界はかなり近かった。自分を騙すことへの。

 胃から夕食が混みあがってくる。肺から悲鳴が混みあがりそうになる。

 それでもなお、圭吾はその首を見ようとした。

 切断された首というものは、皮膚が縮むことにより、生前と大きく人相が変わる。だが警察は首だけの死体(?)を家族に確認することもなくもないので、これが自分の子であるとわかる人はわかるのだ。

 そんなことは圭吾は知らないが、その首を見極める。瞳孔を大きく震わせながら、少ない光で。

 それが文雄の首で間違いないと悟った時、圭吾は嘔吐しながら、涙をあふれさせた。



 ◇ ◇ ◇



「ど、どないしたん!」


 圭吾の狂声により、驚いた杏子が振り返る。

 圭吾は胃の内容物を放出しながらも、しゃがみつつ文雄の生首を机の下に隠した。吐き終わると、唇を強く噛みしめ、気絶と発狂するのを防いだ。


「こい!」


 圭吾は汚れた電灯をとり、泣きながら杏子の手を取り、この部屋の外に向かって走る。


「ちょっと、どないしたんやって。何が入ってたん!」

「説明は後や!この校舎から出る!」

「お兄ちゃんはどううすんの!?」

「あいつは」圭吾の口に残っていた胃液が、肺に入り噎せる「げほっ!げほ!あいつなら一人でも大丈夫や!」

「待ってよ!」


 杏子が圭吾の手を振り払う。そのことにより痛めていた足の方のバランスを崩し、圭吾は廊下の床に横転した。

 またも肺に埃が入り、噎せる。


「ご、ごめん……」

「ええて。せやけど速う出んと……」


 圭吾は膝をついて立ち上がり、服についた埃を手で払った。


「せやけどお兄ちゃん置いていけへん……」

「あいつなら大丈夫やって」

「お兄ちゃんの何がわかんのや!」 


 突如杏子が叫んだ。


「阿呆……声大きいて……」


 圭吾は今までかなり大きな声で話していたことに気が付き、言った。


「お兄ちゃんのこと何がわかんのや!数日前に会ったばかりのくせして!」

「落ち着け。落ち着けって。叫びたいのはこっちも同じや」

「お兄ちゃんはああ見えて繊細なんやから!」


 杏子が声を押し殺して泣きだした。

 これは怒りのためではなく、今まで溜まっていたものが決壊したのだった。

 無理もない、彼女はまだ小学生なのだから。

 圭吾はそれを茫然とした目で見る。

 圭吾は杏子を抱きしめて慰めてやることが出来ない。自身の吐瀉物で胃が汚れているから。

 杏子の頭を撫でてやることは出来ない。彼女の兄の死体に触れた手で、幼き頭を汚すわけにはいかない。

 少なくとも圭吾自身はそう思っていた。

 だから。

 だから圭吾には涙を流しながら声をかけるしか、出来ることがなかった。


「すまん」

「……」

「すまん……でもわかってくれ……ここは危険や……だから文雄の為に助けを呼びにいかなあかん」

「……」


 嘘を付くたび、文雄の中の何かが欠けていくような気がした。


「だから、出よう、な。明日一緒に笑えるように」

 

 あるはずのない未来を騙るたびに、心がヘドロにまみれるようだった。

 それでも圭吾は、汚れていないほうの手を前に出した。


「帰ろう」

「……うん」


 杏子の手は涙と鼻水で濡れていた。

 しかし圭吾はその手を、せめて帰るまでは離さないと、心に強く誓ったのだった。


 そんな誓を、あざ笑うかのように、後方から不吉な音が一つ。



 ◇ ◇ ◇


 何かが落ちる音だった。廊下の中央。そこに不気味な音が落ちた。

 音から想像して、大きさはボール一個分くらいだろう。

 例えば

 生首のような。


 杏子が電灯を向けようとするのを、圭吾は遮る。


「見んな」

「え……でも」

「みん方がええ。今から出口に向かって走るんや」


 しかし、再度何かが落ちる音がする。

 今度は先ほどより近い。


「やっぱ確認した方が……」と杏子。

「あかん。走るで」


 さらに再び、圭吾の後ろで何かが落ちる音がした。


「走れ!」


 圭吾の言葉と同時に、二人は駆けだす。

 廊下の壁があったら曲がり、部屋に入って、そして出て、それを何度も繰り返す。入って出て、出て入って、ジグザグに、凸凹に、二人は全力で走った。

 それを追うかのように後方から落下音がする。

 だが次第に二人は落下音から距離を離していった。

 暗がりでも出来るだけ転ばないように、穴の開いていた場所や、机の置いてあった場所を思い出しながら。


「!止まれ!」


 ようやく二階の階段へ差し掛かった所で圭吾は叫んだ。

 杏子は黙って、圭吾の顔を見る。

 二人は耳をすませた。後方からは追ってくる落下音。そして階段の下からは……


「足音……お兄ちゃんかも」

「それはない……」


 階段下に明かりを照らす。

 上がってきたのは、圭吾が縁日で見た顔だった。縁日で圭吾の肩を掴んできた女。

 菊の柄のついた赤い着物に狐のお面。腰まで届かんばかりの黒くて長い髪。そして杏子の言った通り、片手に刀。そして階段の途中で一旦止まり、腕を組んで仁王立をした。

 突如、階下に気を取られている二人の前に何かが落下した。

 杏子が驚いて電灯で照らした。


「馬鹿!」


 圭吾が止めるももう遅い。杏子はしっかりとそれを見ることになった。明かりを当ててしっかりと。

 自分の兄の生首を見ることになったのだから。

 歳にしては聡明な杏子は一瞬でそれが何か理解した。しかし彼女の脳はそれを許容出来ない。壊れることを恐れ、彼女の脳は瞬時に気絶と言う手段をとった。

 

「くそったれ!」


 圭吾は叫びながらも、倒れる杏子を抱きかかえた。

 杏子の手から零れ落ちた懐中電灯が偶然、文雄の生首を照らす。

 首は沸騰したかのように泡立ち始めた。焼いた人の臭いが、空気中の異臭に加わり、やがて首は泡立ちながら、赤黒く解け始めた。そしてそれは首の形を保たなくなる。それは粘菌のようだった。


「うらああ!」


 階段にいた狐の女が叫びながら、刀に手をかけ鞘から抜き出し、大きく振りかぶり階段を上がって来た。

 圭吾は杏子を抱きしめながら自身の最後を悟り、目を強くつむる。

 心の中で、文雄に謝りながら。


 


 ◇ ◇ ◇



 何かが切断された音がした。

 圭吾はそれは自分が切られた音なのだなと思う。

 痛みはない。

 一拍、そして二拍待っても痛みはなく、そして自分が切られたのではないことにようやく気が付く。


「大丈夫やったか……」


 聞き覚えのある声が聞こえて来たために圭吾は目を開いた。

 そこには剣を下ろしている、狐のお面を被った女が立っていた。

 足元を見ると、解けた生首だったものの一面が発行していた。わずかに動いていた。


「私や……」


 女はお面を取り外した。

 そこには長い髪で、顔の見えない女がいた。


「ひいいいいぃぃぃ!」


 圭吾はその姿に驚き、叫んだ。


「私やて……!里見やて……!」そう言って女は顔の髪を払った。

「そんな……」


 お祭りの中、圭吾の肩を掴んだ狐のお面を被っていた女。そして杏子が見たという女の正体。

 それは引きこもりから脱した里見だったのだった。

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