2話
圭吾はいつも他所の泊まりでは、目を覚ますのが早い。
その日は何か奇妙な大きな音に起こされた。
磯臭さに身を委ねて見る夢はどうも奇妙で、寝心地は決して良いものとはいえなかった。腐臭の混じった臭いがそのまま色に変換されたような夢で、絵に現すのはとてもじゃないが難しかった。そんな浅いのか深いのかわからない睡眠をとってる中、その音は街中に鳴り響いた。
それは、法螺貝の音とも、哺乳類の遠吠えとも、両生類の鳴き声ともとれる音だった。その名状しがた咆哮じみていて地響きのように鳴るそれは、圭吾をむりやり覚醒させるには十分であったが、それでもなお夢の中にいる居心地の奇妙な音だ。真夏だというのに体は震え、凍えるような寒さを感じ、全身に鳥肌が立った。それでいて冷や汗はびっしりとかいていた。
おぼつかない足取りで、圭吾は音のした方の窓を開けた。
音はすでに止んでいたが、街の腐臭交じりの磯臭さは、昨日よりより一層強くなっていた。日は昇ったばかりで、空は相変わらずの重い曇り空だ。そして緑色の暗い海。
海の沖の方で、何か波紋が立っていた。放射状に広がるその潮の波紋は、街を覆えるほどの大きさだった。ただの潮の流れだというにはどこか歪で、圭吾の中に暗澹たる不安を残した。
まるで巨大なものが沈んだような波紋だった。
この家の位置は少し高台にある。街全体が見渡せるほどではないが、民家を覗き込めるほどには高所にある。
ある家の庭で人が数人外に出て何かをしていた。その人達もまた魚類じみた顔をしていた。ただ並んで立ち、海を見ていた。いや違う
祈っているのだ。何かに畏怖するように。何かを恐れるように。その巨大な波紋に向かって、手を組んで。ここから見える数件の家の前ですべての人が同じようなことをしていた。
「起きたか」
後ろから声がかかり、圭吾は飛び上がる。
「怖がらんでええ。わしやわし」
圭吾はおっかなびっくりと振り向く。そこには源一郎が襖を開けて立っていた。
「あ……」
声を出そうとするも、口の中が乾ききっていて詰まる。咳をして、喉を整え圭吾は言う。
「あれ、何」
「知らんでええ。いや、知らん方がええ」
「でも……」
「気になるか?」
源一郎が部屋に入ってくる。圭吾は後ろ数歩下がった。
「まあ中学生やし気になることも多いやろうしな」
源一郎はそう言いながら前に立ち、手を上げた。圭吾は怯えるように腕で顔を塞いだ。
「ああいいのは認識せんほうがええのや。知ってしまうと害をなしてくる」
源一郎は圭吾の頭に手を乗せた。
「大人になったらわかることもあるやろう。せやからそれまで我慢しとき」
圭吾は腕を下ろし、源一郎の顔を見た。
その顔には微笑みを浮かべていたのだった。
「はい」
圭吾もまたぎこちない笑顔で頷いた。
◇◆◇◆◇
源一郎は襖を閉め、廊下を歩き階段を降りた。圭吾は起きるにはまだ少し早いので、また眠るようだ。
一階の応接間の端。そこの土壁の一部はずれるように出来ていた。源一郎がそれを開けると隠し扉になっており、階段が続いていた。
剥き出しのコンクリートの壁で、所々黒く汚れていた。隙間があるのか、水の雫が滴る音がする。
階段を降りた所に、厳重な鉄の扉がある。
これはこの家の地下に存在するシェルターであった。一族の中でもこれを知る者は少ない。この一族の端くれで生きるものにとって多くを知ろうとしてはいけない。長生きをしたければ。
かつての大地主の一族がシェルターを作ってまで怯える物とはなんだ。
地震か。津波か。核か。それよりももっと恐ろしいものか……。
それはそうとしてただ避難するだけでなく、聞かれてはなならいことを話す時にもよく使う部屋でもあった。
扉を開けた時、金属と金属が擦れあう音が響いたが、源一郎は顔を顰めることなく、部屋に入った。
「お待ちしてました」
部屋の中には男が一人。
壁にもたれかかって、本を読んでいた。
部屋の中身は質素、という一言で表すことが出来るだろう。十畳ほどの広さで、あるのは本棚と、大きな時計だけだった。壁、天井、床すべてが白で統一されていた。
源一郎が口を開く。
「要件はわかってんな?」
「勿論」
男はスーツを着ていて、顔にはわざとらしい笑顔を貼りつけていた。鮫のような笑顔だと形容する者もいる。
男の名は就一。圭吾の叔父にあたる人物である。
「最近海の奴らが騒がしいようやな」
「ええ、近々祭りをやるそうで」
「しかし、何も孫が来てる時にこんでもええのになあ」
「それはあまり関係ないともとれるでしょう。まあ圭一の本当の母親のこともありますし、微妙な時期ですが」
「せやけどなあ」
「手に負えなくなったらあの方は力を貸してくれるでしょうか」
「百年前にでいごんが現れた時は力を貸してくれへんかったらしいし、大元が来るぐらいやないと」
「正直来てからじゃ遅いんですけどね」
「そういうお方やし、しかたあらへんのかもしれんな。まあ、祈るしかないか」
「何に?」
就一は笑みを浮かべたまま言った。
源一郎は時計をちらりと見る。
「悪魔に」
◇ ◇ ◇
圭吾は再度目を覚まし、朝食を食べた後、街に来ていた。
海に近づくにつれ、流れてくる風が湿気を帯び始めた。それは衣服を絡み取るようにねっとりとしていて、嫌な汗をかかせた。生臭さもまた強くなっていく。それを街の皆が気にしている様子はまったくといっていいほどなく、死んだ魚のような目をいつもどおりのように動かしているだけであった。また海に近づくにつれ魚類じみた顔が濃くなっていった。
どこか傾いて見える建物が多く、遠くから見ると、街自体が酒にでも酔っているようだった。
関わらないほうがいいと言われたものの、里見が引きこもっている原因はこの街にあるのは明白だったので、半ば隠れるようにこの町へ来たのだった。
気味の悪さは感じるものの、ただ歩いているだけでは収穫は少なかった。店に入っても、店員の受け答えが不愛想を通りこして、無言のやり取りだったり、よくわからない宗教団体の建物が多かったり、浮浪者が多かったりもしたが、中学生の圭吾にとって得られる情報など高が知れていた。異臭が強いと言われても、大阪の釜ヶ崎の例がある以上、この街の異様さは常識の範囲内でのことに思えた。
圭吾の表情に少し飽きが出始めた頃、彼は少し大きな広場を見つけた。
草野球ができるほどの大きさの芝生の広場で、雨が降ったわけでもないのに地面は濡れていた。所々に魚類じみた顔の子供が円を作って座っていた。てっきり携帯ゲーム機で遊んでいるのかと思ったが、ただ黙って座っているだけだった。何をしているのかと聞いてみたが、彼らは圭吾を違う生き物でも観察するかのように、大きな目で見つめてくるだけで、質問には答えようとしなかた。
そんな広場の隅で目立つ人物がいた。彼は魚類たちの輪に入らず、一人でサッカーボールのリフティングをしていた。よく見ると、顔も魚類じみておらず、年齢は圭吾と同じくらいの少年だった。
「初めまして、山の方の家方から来たんやけど……」
魚類じみた顔の人に差別的意識はないものの、ここまで意思疎通が出来なくては、付き合いにくい。だからようやく似たような顔の子を見つけた嬉しさから、思わず圭吾は少年に声をかけた。
だが、少年は圭吾を一瞥しただけで、リフティング中のボールに視線を戻し、答えなかった。
圭吾はてっきり邪魔をされたくないので答えなかったのだと思い、黙って待った。しかしボールを落としても、またリフティングを開始するだけで、一向に圭吾にかまおうとしない。
『山の方の家から来た』というのが、一昔前の訪問販売員じみていて、曖昧で胡散臭かったのかなと反省し、再度リフティングの合間に声をかける。
「あの」
「山の方って元地主さんとこの?」
少年はボールを両手で抱えた。ようやく答えて貰った嬉しさから、圭吾の顔に笑顔が広がる。
「せやせや。えっとあの辺かな」
祖父の家の方向を指しながら言った。
「ああ」少年は無表情でそちらを見て言う「あのあばずれ囲ってるとこか」
「なんやと。聞き間違いかな?」圭吾の顔から笑顔が消えた。
「なんぼでも言うたるわ。里見ゆうあばずれ囲ってるとこやろ」
圭吾は少年につかみかかる。
「初対面で何いうとんのや」
「本当のこと言うただけやろが。その雰囲気から見てよそから来たんやろ。せっかく教えてやったんやし感謝しいや」
「『本当のこというて何が悪い』っていう奴は大抵性格が悪い。生まれが知れるわ」
「なんやと?」
「本当のこというて何が悪い」
少年は舌打ちをして唾を圭吾の顔に吐き捨てた。
圭吾は一旦手を少年から放し、汚れを払うように手を叩いた。
そして拳を振り上げ少年に殴りかかった。
◇ ◇ ◇
圭吾は大きく振りかぶり、顔面を狙うもしゃがんでかわされる。
圭吾は足を駆けられ転びそうになるも、素早く右足を前に出し、前に走ることで防いだ。
再度同じことをしようとするが、手に合わせてビンタでカウンターをされた。圭吾が怯んだ隙に、少年は足元へタックルをかます。
圭吾は濡れた芝生に倒れこみ、少年が覆いかぶさる。少年は素早くマウントを取り、圭吾の顔面を殴る。
手を前に組むことにより、数発は防げたが、二・三発は顔面に入った。
そこで圭吾はあえてガードを解いた。
少年はその一瞬を狙い、大きな一撃を顔面に振り下ろす。
「がっ!」
立っている人間の顔面を殴った時、衝撃は分散される。しかし、寝ている人間や、壁に背をつけている人間の頭部を殴った時は分散されず、最悪死に至ることもある。
それを少年を知るよしはないが。
圭吾は衝撃歯を食いしばり、気絶に耐え、掴んだ土えを少年の顔めがけて投げた。
目つぶしは成功。
少年は顔を覆い、その瞬間、圭吾は襟元を掴み引き寄せ、頭突きをかました。
鈍い音と共に少年の拘束が緩む。
圭吾は体を捻り、マウントから逃れ、体制を立て直す。また少年も目を瞑ったまま立ち上がろうとしたので、圭吾は髪の毛を掴んで拘束した。
毛を引っ張り顔面に向かって膝蹴りをしようとしたが、少年は体を捻りそれをかわした。圭吾は今度は腹に向かって膝蹴りを入れた。
「がはっ!!」
少年の呼吸が一旦止まる。
手ごたえを感じた圭吾は、再度膝蹴りを腹に入れようとするも、今度は少年の足によって阻まれた。
本来人間は髪の気を引っ張られると、その方向への運動は逆らえないものである。しかし少年は抜けてもいいと言う覚悟から、拘束を半減しているのであった。
少年は足で圭吾の又を蹴り上げようとするも、膝を閉じることで防がれた。
だが追撃はまだ続く。
髪の毛を掴まれた状態だというのに、少年は暴れるように拳と蹴りを振るってきた。
圭吾はこのままではらちが明かないと判断し、拘束を解く。
二人は構えたまま、距離をとった。
二人の間を生暖かい、湿った風が通り過ぎた。
互いの息は荒く、睨みあったまま呼吸を整えようとしている。
圭吾は先ほど殴られた時に口の中を切ったようだ。
雲の薄い部分から太陽が顔を少し出し、少しあたりが明るくなった。
圭吾の汗腺から流れ出た水分が、泥と交じり皮膚の表面を這っていた。心臓の鼓動は未だに太鼓のように大きく、一向鳴り止む気配はない。
睨みあったままどれくらいの時間が過ぎただろうか。
圭吾は唾液と混じった血を吐き捨てて言う。
「えらい変わったったケンカの仕方やな」
「お前もな。せこいが嫌いやない」
「せやったら、取り消す気になったか?」
「さあ?どないしよ」
「根拠はあるんか?あの、里見さんが、その……」
「おう、昔男何人も連れ込んで男のナニ咥えてたって」
「ナニって何や。咥えてえてどないすんのや?」
「は?」
「何や」
「いや、その……赤ちゃんの作り方知ってとんのか?」
「知っとるわ!ああ、ナニってあれか。せやけど咥えるって何や。咥えても仕方ないやろ」
「いや、なんていうか」
少年は拍子抜けしたように溜息をつき、構えを解き、頭をかいた。
「何や?」圭吾は警戒をまだ緩めない。
「もうええわ、止めや止め」
「負けを認めるんやな」
「はいはい、負けでええ。ねんねの鳩ぽぽと争っても仕方ないわ」
「んやと」
「あばずれ言うたんも謝る。そもそも初対面で言うことやなかったな。すまんかった」
それでようやく圭吾を構えを解いた。釈然としないものがあったが、向こうが謝っている以上こちらも謝らなくては分が悪い。
「僕も育ち悪い言うたんは悪かったわ。あと殴りかかったのも」
「それと?」
圭吾は舌打ちを堪える。
「性格悪い言うたんも悪かった」
◇ ◇ ◇
気が付くと魚類面の人達が、物珍しそうに圭吾達を囲んでいた。
「見世物やねーぞ。云ね!」
と少年は言いながら、囲いから抜ける。圭吾もそれに続いた。
圭吾達は広場の隅のベンチに座り、互いのことを話した。
少年は自分の名前は文雄だと自己紹介した。背はあまり高くないが、15歳だと言う。
数年前にこの街に引っ越してきたのだが、魚類面の付き合いづらさに、上手く馴染めないずにいたそうだ。
「せやったら何でいきなりあないなこと言うたん?」
「おとんとおかんが旧家の人間とは付き合うなって」
「何で?」
「知らん」
圭吾もこの街で初めて会った同年代の魚類面じゃない子だったので、文雄とはかなり話しが弾んだ。
会話の途中何か手がかりになるかと思い、里見が引きこもっていることも話した。
「港の学校が原因やとか言ってたけど」
「ああ、あの廃校はあまり言い噂は聞かんなあ。15年前に潰れたそうやけど。。あと事故で大勢の人の死んだとか。というか俺も引きこもれるなら引きこもりたいわ」
「そないか」
「ああ、ウチのクラスどいつもこいつも反応が薄うてな。別の学年に他所からきたもんが数人おったが、一人は引っ越して、一人はノイローゼでビルから飛び降りた。まああまり高くなかったから、命は無事やったけど」
「……」
「あん潰れてる学校はどっかの大学の付属高校で、わりと研究が盛んやったらしい」
「高校やのに?」
「土地柄的に相性いいから、高校の一部で研究員が出張して来てたって噂や。そんでその研究員が偶に理科の授業を教えたりもする。まあ昔の話やけど」
「詳しいな」
「友達おらんと時間が余ってな。幸いこの街の図書館の本は充実しとった」
文雄は自嘲ぎみに笑った。
「そっか。何か研究しとったんか……」
「あ、せや」
文雄が何か思いついたように、悪戯ぽく笑った。
「今度あの廃校に忍びこまへんか?」
圭吾は文雄と目を見た。彼の顔は冗談交じりではあったが、その提案は同じことを考えていた圭吾にとって有りがたいものであった。里見の引きこもる理由の一番の原因はあの廃校にある。それは間違いないことのように思えた。だが彼女の恐怖の仕方は尋常ではなかった。ただの精神的な病による発作だと切り捨てるのは圭吾には難しかった。その恐怖の大元があの学校にある。中学生だけで行くには危険すぎる。
だが数年前、彼女と遊んで貰った記憶がよみがえる。あのころも確か、この街の子に話しかけても、無視をするだけで馴染めなかった。そんな時に相手をしてもらったのが里見だった。
恩返し。
というほどのものではないかもしれない。だがしかし……
「ああ、行こうか」
圭吾ははっきりとした声で言った。
「よっしゃ。じゃあ祭りの日に懐中電灯持ってこの場所に集合な。警備が緩くなるし。妹も連れてこよう」
「え?まさか夜に行くん?」
「何や怖いんか?」
「まさか」
「なら決まりやな。小便すましときや」
「廃校に警備なんてついとん?」
「ああ、怪しいやろ」
こうして圭吾達は港の廃校に忍びこむことになったのだった。
◇ ◇ ◇
家に帰って夕食を済ませた後、里見の部屋でまた話をする。祖父に街で遊んだことを咎められるかと思ったが、そんなことはなかった。相変わらず里見は自分のことは話したがらず、圭吾が自分のことを話すだけの時間が過ぎ去った。
「そういえばさ」圭吾は言う「今度祭りがあるらしいけど」
「駄目」
里見はぴしゃりと圭吾の言葉を遮った。
「まだ何も言うとらんけど……」
「あれはあかん。あれは恐ろしい祭りや……深きものどもが大古の神々を湛える祭り……」
「深きものって何?」
圭吾の問いに、里見は話し過ぎたか、と口を噤んだ。
「魚っぽい人のこと?」
里見は下を向いて黙ってしまう。再度圭吾は問いかけるも震えているだけであった。
しばらくして圭吾は口を開く。
「もしさ、怖がってるものが亡霊的な何かだったら、それは恐ろしいものやない思う」
圭吾は里見を見る。彼女は顔を上げない。
「怨霊ってさ、あることを思い出せば怖くなくなる思うんや。もっと恐ろしい怨霊の加護を受けてるってことを。怨霊がいるからといって、神様がいるとは限らへんかもしれん。せやけど怨霊が存在するってことは、歴史上で語られる怨霊と呼ばれるものはいたということや。その辺の個人的な恨みで出来た怨霊なんて、伝説上の怨霊に比べたら小さいもんやろう。そして今現在の僕達は怨霊と呼ばれてた人を奉って、恩恵を受けてる。例えば学問の神様がいらっしゃるけど、『勉強がんばるから助けてください』って言うたら助けてくれはるはずや。多分」
そこまで言ったが、里見には変化は現れなかった。むしろ震えは大きくなったようだった。
何か蚊の鳴くような小さい声で、呪詛じみたことを呟いていた。
圭吾は耳をすませた。
「違う……違う……わかってへん……そんなんやない……」
圭吾がいくら話しかけても、うわ言のようなそれを繰り返すばかりであった。しまいには過呼吸の症状が出始め、源一郎を呼ぶことになり、その日の会話は早めに終わることとなった。
◇ ◇ ◇
祭りの日の夜。
祖父にも、あまり魚類面の人達とは関わらないようにと言われていたため、圭吾には祭りに行くということを了解してもらえる思えなかった。なので今回も隠れて外出するような形となり、今現在は集合場所の広場に来ていた。魚が腐ったような臭いはいつもよりさらに強くなっていた。
遠くでお囃子の音が聞こえる。
この広場は祭りの会場からは遠いのだが、大勢の人々がその場所に向かっているのが見てとれた。
どこからか喝采とも呪詛ともとれるような、両生類の合唱じみたものが、風に運ばれ聞こえて来た。祭りの盆踊り。そのようなものでは到底ない。
これはおそらく祈りであり恐れ。大古の地の底、海の底から湧き上がるような、形であり力。
おうがふとる いいあふ ぎーぶーふ あでむ ざでむ らでむ
ざいでむ らすたーかいむ いあ いあ でいごん ざろらいむ
ふんぐるい むぐるうなふ でいごん るるいえ うがふなぐる ふたぐん
おうがふとる いいあふ ぎーぶーふ あでむ ざでむ らでむ
ざいでむ らすたーかいむ いあ いあ くとるぅふ ざろらいむ
ふんぐるい むぐるうなふ くとるぅふ るるいえ うがふなぐる ふたぐん
いあ いあ でいごん
いあ いあ くとぅるふ
確かに圭吾は海に広がる巨大な波紋に恐怖を抱いた。
だが何故それでもなお調査を続けようとするのか。里見のため?
それだけではない。
それはきっと惹かれていたのだ。
それはきっと見入っていたのだ。
あの巨大な波紋に。
呪文めいた唄に引かれ、脳髄がかき回されるような感触を味わった。原色のシアン・マゼンダ・イエロー・黒が斑になって視界を覆う。高濃度の麻薬を吸った後に似た夢見心地が、圭吾をここではないどこかへ連れて行こうとする。無論圭吾は麻薬も酒も嗜んだことはないが。
「おい」
腕を掴まれ、声をかけられたことにより、現実に引き戻される。圭吾は急激に頭が冷えていくのがわかった。
見ると文雄が圭吾の腕を掴んでいた。後ろで少女が一人付き添っている。
「白目向いてたぞ。ていうか汗すご!」
こもった湿気が、汗を引かせるのの邪魔をした。圭吾は深呼吸をして呼吸を整える。
「もう大丈夫」
「本当かいな」
「大丈夫……大丈夫」
そこで文雄に付き添っていた少女が、圭吾の顔を覗き込んだ。
年齢は圭吾より一つ下くらいで、髪をポニーテールで纏めており、少しつり目がちの顔をしていた。
「お、お兄ちゃんに普通の友達が出来たって聞いたけど」と少女「やっぱ変な人やん」
「こら、初対面で何いうとんのや」文雄は諌めた。
『お前が言うな』と圭吾は思ったが、疲労がどっと押し寄せたため、突っ込む気力がなくなっていた。
文雄は少女を指さして言う。
「これが先日言ってた妹の杏子」
「初めまして。兄がお世話になってます」
「初めまして」
と、言ったあと圭吾は眩暈がし、少しふらついた。
「なんや熱か?」と文雄はあまり心配してなさそうに言った「今日はやめとくか?」
「三日後までに忍びこめるチャンスは?」
「ない」
「なら大丈夫や……行こか」
おぼつかない足取りで、圭吾は先導するかのように、廃校のある場所へ向かう。
兄妹は『大丈夫かこいつ』と言うような顔で圭吾を見ていが、黙って後に続いた。
途中祭りの屋台を横切ることになった、その顔触れは当然のように皆魚介類めいていた。またも祭りの中心部から歌が聞こえて来たので、圭吾を耳を塞いで通り抜ける。道行く人々がそんな圭吾を見ていた。
視線。視線。 視線。
圭吾は下を向いてやり過ごす。視覚と聴覚を制限したことにより、圭吾は世界から浮遊している感覚になった。腐った脂っぽい臭いがより一層強く感じた。視界の隅で見える連なる提灯が揺らめき、歩くごとへ後ろへ……後ろへ流れて言った。
屋台では悪魔めいた奇妙なレリーフが売っていた。
突然圭吾は肩を掴まれる。
また文雄かと思ったが違った。
「ひっ」
圭吾の口から声が悲鳴が漏れ出る。
そこには浴衣の女性が立っていた。
狐のお面をつけているので、顔はわからない。
だがこの祭りに参加している以上魚類顔をしていると圭吾は判断した。
狐の女は何か言っているが、圭吾は強く耳を塞いでいるので聞こえない。いや、耳を塞いだ程度で、この距離の声は遮断できないだろう。圭吾は聞きたくないという強い気持ちから、声を遮断したのだった。
これ以上引き込まれる恐怖に怯えて。
圭吾は女の手を振り払い、全速力で駆けていった。
◇ ◇ ◇
どこを走ったのかはわからない。圭吾はやみくもに星のない夜の下を駆けて行った。途中何度も人とぶつかった。
だがしかし、無茶苦茶に走っていたのに、圭吾は気が付くと廃校の校門の前に立っていた。
引いては返す波の音が圭吾の心を騒めかした。
その学校はあまり大きくなく、二階建ての校舎が一つある程度だった。コンクリートの校舎の壁に胸糞悪い黴による黒い汚れがへばり付いていて、斑模様を作っていた。学校自体に塀などはなく、外と中の境界が曖昧だった。
『どれくらいの時間がたった?』
長く校舎の前で息を切らしていた気がする。今来たばかりの気もする。
しかしどちらにしろ文雄達とはぐれてしまった。圭吾はしばらくその場で待った。
「おお、何やさっきは急に走り出して」
十分ほどで文雄達は圭吾に追いついた。
「いや、何か魚面の人に手を掴まれて」
「そりゃ災難やったな。んじゃあ入るか」
猫の額ほどのグラウンドを抜け、三人は校舎の入口の前に立った。当然のように鍵は閉まっている。窓を見ると、内側からコンクリートで塞がれていた。どうやって入るのかと思ったが、一つだけ塞がれていない窓があると、文雄が言った。
「入ったことあんの?」圭吾は尋ねた。
「ない。でもいつか入ってやろうと思ってた」
その窓にはすでにガラスが張ってなかった。覗き込むと、そこは完璧な闇で、一寸先も見えなかった。
「な、なあ」
圭吾は後ろを見ると、少し離れた場所で杏子がもじもじしていた。
「ここまで来てなんやけど本当に入るん?ちょっと想像してたのより数倍暗いんやけど……そもそも不法侵入やん」
圭吾と文雄が顔を見合わす。
「ああ、入るよ」と文雄は杏子を見た「本当にいまさらやな。なあ圭吾」
「僕的には怖いなら無理に連れて行くことはない思うんやけど……」
「あかん。あかんて」
文雄は杏子の前に立ち肩を掴んだ。
「この街で生きていくには強うならなあかんのや。そうすれば魚顔に囲まれた毎日も苦にならへんようになるかもしれん。だからこの場で鍛えるんや」
この侵入にはそういった意図があったのか、と圭吾は顎に手を当てた。
文雄は続ける。
「それに魚顔の奴らの秘密がこの学校にある可能性が高うなってきた。だから奴らの秘密を暴くんや」
圭吾には今の所、魚類顔の人達には、無視された程度で危害を受けたことはない。しかし文雄達にはあるような権幕だった。
しばらく杏子は文雄の目を黙って見ていた。しかし意を決したように言う。
「うん!わかった。この校舎で秘密を暴いてやる!」
「よういった!」
三人は懐中電灯のスイッチをオンにし明かりを灯した。
入る順番は、まず文雄から。そして次に杏子。最後に圭吾。
闇の中に三人は降り立った。
こうして圭吾達の永い夜が始まったのだった。




