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1話

 眠っているふりをしながら、圭吾はバスの窓の外を眺めていた。

 バスは九十九折の自動車道を登っていて、見えるのは鬱蒼と茂る木ばかりで、外を見ても酔いが覚めるようなことはない。偶に崖側にひしゃげたガードレールを見つけて、少しぞっとする。上方の木々の間から見える、どんよりとした灰色の雲が空を覆っているのが、気分の低下を助長させた。かといって雨が降りそうというようなわけではなく、なんとも中途半端な曇り方だった。

 蒸し暑さを感じ、窓を開けていても、風も少ないのであまりそれは改善はされなかった。

 今バスに乗っているのは、運転手を除くと、圭吾を含め三人だった。圭吾の他にはちょうど後ろの席に、男性と女性が一人ずつ。圭吾の母と父だった。

 彼らは不機嫌そうに話をしている。

 圭吾が今眠っているふりをしているのは、少しバスに酔っているということ以外にもう一つ理由があった。

 子供が親のケンカなんて聞きたくないというのと同時に、親はあまり子供にケンカを聞かせたくないものだ。だからといって、眠ったふりをしながら、聞いてないふりをして、気を効かせるほど圭吾は大人びてはいなかった。ただ、少しうつらうつらとしていたら、親の争う言葉が聞こえ、気まずくて目を開けずらくなったというだけだった。


「磯臭い……」


 不意に母親が言葉を漏らす。

 それは圭吾も思っていたことだが、見えなくても、父の顔が、不機嫌そうに変わったのは気配でわかった。


「そない言い方せんでもええやろ。もっと潮の香りとか、言い方があるやろうが……」

「だって……」


 確かに磯臭い。

『匂い』より『臭い』のほうがずっと相応しい類の、嫌な感じのものだった。目をつむると、見えてくるのは、波が言ったり来たりしている綺麗な海ではなく、海岸沿いのフナムシの大群。そんな類の磯臭さだった。

 と、バスが頂上を越え、景色が少し開けた。

 窓越しに港町が見える。かなり緑がかった海が水平線まで広がっていた。空を映しこんでいる海もまた、どんよりと暗い。

 ふと、圭吾の目に一つの建物が目にとまった。

 海岸沿いの道にある一つの学校。この距離からでも、廃校であるとすぐに分かるほどの朽ちた具合であった。そんな学校の校舎が圭吾の目につく。

 たかが廃校だと切り捨て、目を逸らす、そんな簡単なことが出来ない。それほどまでに圭吾はその学校に、異様感を感じていた。

 バスが進んでいる高度が低くなり、その場所が木に隠されようやく圭吾は目を逸らした。

 目的地が近づいたことからか、両親は一旦話を止めた。

 だが、バスのエンジン音だけが鳴る静粛に耐えられなかったのか、母親が口を開いた。


「本当に来てよかったんやろか……?」

「言うたかて去年も一昨年もこれへんかったやんか。この子のためにも顔ぐらいだしたほうがええやろうに」

「この子のためこの子のためにって、圭吾を出汁ダシにしているんやないの?」

「なんやと?」

「何にも」

「何にもってことはないやろが。言いかけたんなら言うてみいや」

「やめてよ。圭吾が起きてたならどないするんや」


 父の方が舌打ちをする。


「ダシにしとるんはどっちや」


 バスに乗っている間中、囁くような声のケンカはずっと続いた。

 しばらく話していると熱くなり、声が少し大きくなる。そして両親とも、自身の声を恥じ黙り込むも、長く続かず、また言い争いを始めるのだった。

 そんな様子なので、目的地に着いたときには、二人とも不機嫌が顔に貼りついてしまい、愛想を振りまくのも忘れているぐらいだった。

 

「ありがとうございました……」


 目的地につき、降りる客が圭吾達しかいないので、運転手がお礼を言いってきた。

 少し甲高さを感じる声だったので、圭吾をその方向を見ると、運転手の顔だちに驚いてしまう。

 その男の顔は魚類じみた顔をしていた。

 少し……ほんの少しだけだが、両目が離れてついており、その眼球自体も人と比べると大きかった。顔に出来物が多く、油ぎっており、光をテラテラと反射していた。見つめていると、その磯臭さの原因も、運転手から発しているような錯覚におちいった。

 いや、錯覚ではなく、この運転手事態も、この場に発生している異臭の一つに間違いないだろう。

 圭吾の視線に気が付いたのか、運転手はそののっぺりとした顔をそちらに向け、不思議そうに首を傾げた。

 圭吾も、人の身体的特徴をしげしげと見てしまったことに恥じ、


「すみません」


 と、軽く謝り、逃げるようにバスを降りた。

 バスを降りても磯臭さは消えないまま、三人は進む。会話はなく、ひぐらしとツクツクボウシの鳴く声が響いているだけだった。

 アスファルトに木の根によってひびが入っており、バス内での居心地の悪さが思い出され、圭吾はまた少し気分が悪くなった。海とは反対の、山の方向に目的地があるのだが、進むにつれ、建物は低くなり、田んぼも増え始めた。

 その家は街から少し外れた場所にあり、今時珍しい木造だった。


「ようきたね三人とも。長旅疲れたやろ。お菓子用意してるさかい、ゆっくりしていき。て、なんやえらい辛気臭い顔して」


 目的地では圭吾の祖母が出迎えてくれた。

 優しそうな老人だったが、そんな祖母も、あきれた様子で両親を見ていた。


 ◇ ◇ ◇


 圭吾にとって祖父母の家に来るのは三年ぶりだった。

 それまでは毎年お盆に来ていたのだが、体調や父親の仕事を理由に、しばらくは足が遠のいていた。今年もとある理由で、行かない流れになりそうだったのだが、父がそれではいかんと、この町に訪れることにしたのだった。

 圭吾の祖父――――源一郎の家は江戸時代から続く旧家で、このあたりの田畑すべてが彼の持ち物だった。もともとは海からの潮の影響で、作物は育ちにくかったのだが、圭吾の先祖は、苗木や、丘などを利用し、なんとか豊かな土地を作り上げたのだった。

 そんな家なので親戚が多く、お盆には多くの人が集まる。

 夜は更け、今宵は親戚一同で宴会だった。

 圭吾は刺身は好物であったが、こうも似たような種類のものを並べられては、少しうんざりしてきた。とはいっても好物は好物なので嫌いになるということはない。

 蚊取り線香を何本を焚いており、その臭いが、魚についているような思いがした。広い家とはいえ、やはりこの人数では手狭に感じ、縮こまって食べるはめとなった。


「おお、圭吾よう来た、よう来た。もうちょっとちこうより」


 源一郎がビールを飲みながら、手招きをしていた。


「はい」言われた通りに圭吾は立ち上がり、彼の近くに行く。


「あまり進んでへんけど、大丈夫か」

「はい、美味しいです」

「そない他人行儀にならんでええて。敬語はやめや、やめ」

「……うん」

「よし、よそっとあげるさかい、皿かしてみ」


 祖父はそう言って刺身と肉を圭吾の皿に盛り始めた。

 圭吾の叔父が、「圭吾は自分でとれるさかい、そない盛らんでもええて」と酔っぱらった顔に笑みを浮かべながら、言っていた。


「いくつになったんやっけ?」


 と、源一郎は叔父を無視をして圭吾に尋ねる。


「13歳。このあいだ中学入ったとこやけど。卓球部入ってる」圭吾は笑みを浮かべて言う。

「そうかそうか。大きなったなあ」


 しみじみとビールを啜っている祖父を横目に、圭吾は親戚一同を見回した。

 中学に入ったばかりの圭吾にとって3年と言うのは長い。たった数年会わなくても、懐かしいと思える人も沢山いた。だかろこそもあるが、


『来てよかったな』

 

 と圭吾は思った。

 移動中は不機嫌だった両親も、酒のせいか、少し表情が和らいでいた。さすがに親戚の前で口喧嘩をして、恥はかいたくないのだろう。

 バスの中ではどうなることやらと思ったが、この休みも楽しくすごせそうで、圭吾は安心ていた。

 ふと圭吾は再度親戚たちを見渡すと、誰かいないような気がした。

 いや、3年前はいて、今日は来ていない親戚は一人二人ではない。しかし、圭吾には何か引っかかるものがあった。目をつむると年上の女性が思い浮かんだ。


『確かそうだ。この家で遊んでくれた女の人がいたっけ。確か名前は……』


 圭吾の親戚だったはずだが、どうも今日は来ていないようだった。

 だから圭吾が訪ねたのはなんとなくだった。他にも来ていない人はいるのだし、彼女が思い浮かんだのは、よくしてもらったというのがある。圭吾に他意はなく、疑問というほどのものでもない。ただの話題の繋として聞いたのだった。


「里見さんって今日は来ていないんです?」


 圭吾の言葉と同時に、場が凍りついたように、静かになった。

 室内の視線が一斉に圭吾に集る。

 そして圭吾があたりを見回すと、気まずそうに視線をそらすのだった。

 静粛が訪れる。外で泣く蝉の声と、扇風機のファンの音がただただ、沈黙の間を繋いでいた。

 親戚たちは何か話題をそらそうと、口を開きかけるも、どうも言葉が出ないようで、再度口を閉じる。圭吾の両親は黙って下を向いていた。

 圭吾は何か不味いことを言ってしまったのだろうかと、口に出した言葉を頭の中で反芻するも、特に失言にあたる単語は思い浮かばず、焦るばかりであった。

 と、そんな沈黙を破るように手を叩く音が一発、畳の部屋に響いた。


「それはわしが後で話たるさかい」


 手を叩く音と声の主は源一郎だった。

 一同はその言葉に救われたように、会話を再開した。ただそれらにはぎこちなさが見て取れた。

 圭吾も食事を再開したが、その宴会中は他人からの受け答えが、少しおざなりになった。

 ふと圭吾の頭に源一郎が手を乗せた。


「大丈夫や。大丈夫。後でちゃんと話してあげるさかい」

「うん……」


 圭吾はそう答え、肉を口に入れた。


 ◇ ◇ ◇


 夕食が終わりしばらくすると、親戚達は自らの家に帰っていった。源一郎の家に止まるのは、圭吾御一行のはかには一組ぐらいだった。

 騒がしかった部屋も、祭りの後のように静けさを保っている。

 今、片付けた後の大部屋にいるのは5人。

 圭吾と、圭吾の両親。そして圭吾の祖父母だった。

 祖父母と圭吾達の家族は、それぞれ二対三で向かい合って、座布団に座っていた。


「確か」


 初めに口を開いたのは源一郎だった。先ほどの酔いはすでにさましており、家の主たるに相応しく、重重しい顔であった。


「圭吾は里見と仲良かったんやな」

「仲良かったというか、まあ……よくしてもらったというか」


 圭吾は曖昧な答えをする。

 両親は神妙な顔つきで黙って前を向いていた。


「そうか、なら圭吾に頼みがある。里見を助けてくれへんやろか」


 助ける。

 その言葉に、圭吾は里見が病気で療養中だとか、どこか危ない場所にいるのだとか、そういったことが頭に浮かぶ。


「病気なん?」思った通りに圭吾は言う。

「病気……。まあ病気やな。体やなくて、心のやけど」


 源一郎は上を向き、天井を眺めた。

 ほかの皆もまた、それに釣られるように、上を向いた。


「里見はな」源一郎は上を向いたまま答える「今引きこもっとんのや」


 圭吾は驚いて、首を下した。


「引きこもり」

「そうや。数年前はちょっとようなって高校とか行とったけど、また引きこもるようになって。圭吾がよくしてもらったっていうんは、おそらく高校行っている時やろな。里見は」


 一旦源一郎は口を噤む。


「里見は圭吾にとったら、はとこにあたるさかい。両親も……事故で死んでてそれで預かってるんやけど」


 その言葉に、圭吾の両親はピクリと体が反応する。しかし圭吾はそれに気が付かない。


「その、心の病気って言ったけど、病院とか行ったん?心療内科とか」


 源一郎は腕を組み、深く思案した。


「行きたがらんのや。病院は嫌いやゆうてな。せやから」


 源一郎は座ったまま頭を下げる。

 膝に手をつき、土下座にならない程度に頭を下げる。


「少しでええんや。話たってくれへんか。仲良うしてた圭吾なら、何かきっかけになるやもしれん。ならんやもしれん。ならんでも気に病まんでええ。ただ可能性の問題や」


 圭吾は祖父が頭を下げているのを初めて見た。

 一族の長たる彼は、いつも人の中心で、頭を下げられる立場のほうが多かった。孫達と話す時は優しく、仕事などの時は厳しい彼は、圭吾の尊敬する人物だった。

 そんな祖父が頭を下げている。

 無論、圭吾が見ている時に頭を下げたことがないだけで、下げていることも多々あるのだが。

 とはいっても圭吾にはよくしてもらった里見のことも気になっていた。だから頭など下げてもらわなくても、すでに答えは決まっていた。


「わかった。きっと里見さんを勇気づけてみせる」



 ◇ ◇ ◇


 

 その部屋は二階の廊下の突き当りにあった。

 圭吾には見覚えのある扉だったが、以前来た時はてっきり倉庫か何かだと思っていた。それぐらい目立たない扉だった。

 古びた木の引き戸で、こげ茶色をしていた。耐久度は高くは見えず、圭吾程度の体重でも、本気でぶつかれば、破ることは容易だろう。

 扉の前で、気を落ち着けるため、一旦深呼吸をする。

 圭吾は会話は苦手というわけではない。だが得意だというわけどもない。

 友達と会話するのに苦労をした、ということはないでもない程度だが、人生相談などをしたことはまったくと言っていいほどなかった。

 だから一旦身を落ち着ける。

 そして自身の存在を示すように咳を一つ。

 拳を扉の前に持っていく。そしてノック二回。

 一拍、そして二拍、反応を待つも、返事はない。

 再度同じことを繰り返すも反応はなかった。


「あ、あのさ」


 圭吾は声を少し大きめになるよう、そして近所に迷惑にならない程度に抑え言った。


「お祖父ちゃんに里見さんが引きこもってるって聞いて……そんで勇気づけようなんて大それたことは思ってないんやけど……ただ話せることがあるかなって。いや、話てほしい言うか」


 そこまでしどろもどろに言って、自分が名乗っていなかったことに気が付く。今日まで里見のことを覚えてなかったので、彼女もまた圭吾のことを覚えていない可能性は高い。


「あ、と、僕のこと覚えてるかな。数年前遊んで貰って……圭吾言うんやけど」


 反応はない。

 圭吾は本当に子の中に人がいるのか不安になってきた。虚構に話しかけているような、虚しさとも、不安感ともとれるものがこみあがってくる。

 失礼と思いつつも、扉に耳をつけて中の様子を伺ってみた。

 物音のようなものはしなかった。ただ何か生きて居るものの気配は、ほんの僅かにあった。

 蚊のなく音よりさらに小さな、声。これは……。


「いびき……寝てる……」


 それはほんのわずかな、寝息ともいびきともつかないものだった。

 圭吾はがっくしと溜息をついた。緊張が解ける。

 これは事を明日にすべきか、圭吾は顎に手を当て思案する。

 起こして機嫌を損ねては勇気づけるもあるまい。祖父も急ぐことはないと言っていた。ただ、圭吾は一週間で家帰ってしまうため、それまでに説得せねばならないのだった。

 自分もそろそろ寝ようかと、圭吾は体を後ろに向ける。枕が変わると眠りにくいとか、田舎の家の夜は不気味なので、少し怖いんだよな、とかそんなことを思いながら振り向く。


「おやすみ。里見さん」


 圭吾は里見は眠っていると思っているので、その言葉は独り言のようなものだった。

 だがしかし


「圭吾……君……?」


 反応があった。

 今まで眠ったふりをしていて、言い出せなかったとか、実際に眠っていて丁度今起きたとか、そういうのはここからではわからない。

 だが反応があったのだ。

 一旦緩んだ緊張が、再度引き締まる。

 圭吾は振り向き、再度扉の前に立って言う。


「あ、ごめん。起こしてしもた?」

「いや……大丈夫……大丈夫や……」


 濁った声だった。

 だが確かに、圭吾の記憶にある里見の声のようだった。

 里見自体も、扉の近くに寄っているようだ。

 圭吾は言う。


「その、久しぶり。元気にしてた?ていうのも変な話やもしれんけど」

「あんまり……」

「そうか。お祖父ちゃんに引き込もうとるて聞いて、何か話せることないかなと思って」

「やったら!」


 急に里見は大きな声を出した。

 その後、自身の声に驚いたかのように、黙り込み、そしてごまかすように咳き込んだ。


「だ、大丈夫?」

「ごめん大声出して……このごろ人と話してへんかったから、声の調整難しくて……」

「疲れてるんやったら、明日にしようか?」

「いや、待った。待って」


 部屋の中から何かを動かす音がする。何かと何かがぶつかる音。何かが落ちる音。これはもしや片付けている。

 里見は言う。


「話するんやったら中でしよ……ただちょっと片付けるから待ってて……」


 あまりのあっけなさに圭吾の中に拍子抜けともいえる驚きが広がった。

 里見は三年近く引きこもっていると聞いていた。それがいとも簡単に圭吾を部屋に案内するなど……。

 いや、大変なのはこれからかもしれない。しかし、もしかいたら部屋から出せる可能性もある。そう圭吾は待っている間に体を引き締めた。


「入ってええよ……」


 閂が開けられる音がした。

 圭吾は引き戸を開けようとするも、上手くいかない。開いていないじゃないか、と思ったが、どうやら古い引き戸なので、軋んでいて、引っかかっていたようだ。

 今度は引き戸を持ち上げながら、ずらす。甲高い軋む音を発しながら、扉は開いた。


「うわっ」


 扉の前に髪の長い女性が立っており、それに驚き圭吾は思わず声を出して、二歩ほど下がってしまう。

 

「ごめん……」里見自身も近づきすぎたと思ったのか数歩下がった。

「いや僕も驚いたりしてごめん」

「久しぶりやね……」

「うん、せやな。改めて久しぶり」


 里見は数年引きこもっていると聞いていたが、思ったよりは汚くはなかった。伸ばしっぱなしの髪は顔の一部を覆ってるが、醜くなることへの恐れはあるのか、多少の清潔感は感じる。髪の隙間から見える目は不健康そのもので、しっかりと黒い隈を刻み込んでいた。肌の最小限の手入れはしてあることから見て、風呂などのために部屋から抜け出すことはあるようだ。こういう環境にいると、老けると聞いていたが、歳相当の外見だった。

 だが、それは見た目に関してだ。

 部屋の中からは酸っぱい臭いとも腐臭ともいえるものが流れ出ており、圭吾は顔を歪めるのを耐えきれなかった。こんな薄い扉を隔てただけだったのに、気が付かなかったのは不思議な思いだった。

 里見は手を少しあげ、招き猫のように動かした。


「どうぞ……中で話そうか……」

「う、うん」


 圭吾は言われた通りに中に入る。

 異臭が強くなったのもあるが、圭吾は部屋の中を見て思わず悲鳴をあげそうになった。

 四畳半ほどの狭い部屋だった。

 壁と言う壁に、呪術めいたお札が貼られており、見るものを圧倒した。窓はあるようだが、黒いカーテンで覆われている。この部屋唯一の光源の吊るされた豆電球は、少し揺れながら部屋をほんのりと照らしていた。床には怪しげな本が散らばっており、足の踏み場に苦労した。普通のの本に限らず、巻物や洋書まであった。無理やり端に寄せてあることから、これで片付けたつもりなのだろう。本の隙間から布団が見えている。所々に中身の入ったポリ袋があり、異臭の原因はおそらくそれだろう。ほかには水晶玉や、動物の頭蓋骨のようなものもあった。


「お茶なんて出せないけど、どこでも座ってもええよ……」


 どこでも座っていいと言われても、腰を下ろすスペースはない。

 迷っていると、里見は本の一部を束ね、横にずらして、座った。


「どかしてええ?」圭吾は聞いた。

「えっと、その本はそっちにどかしてええよ。その本はどかしたらあかん……」 


 注文の多い里見のことを聞きながら、なんとか座れるようになったのは数分後であった。

 ただ、座ったはいいものの、圭吾は話せばいいかわからなくなり、里見もまた、自分から話すつもりはないらしく、長い沈黙が続いた。このままでは時計の針が進むだけだと、圭吾は話を切り出す。

 しかし、里見のことを聞いても、はぐらかされたり、黙りこまれたりで、どうも話が進まない。

 ただ、とりあえず圭吾自身のことを話して見たらどうも食いつきがよかった。なのでとっかかりになればと、圭吾は今までのことを話した。

 友達とケンカしたこと。好きなゲームのこと。好きな娘とかは今はいないこと。学校のこと。部活のこと。

 圭吾の何気ない話に、大げさともとれる相槌で里見は答えた。圭吾はこんな何でもないことの話を聞いても面白いのだろうか、と不安になりつつも、こうもしっかりと相槌を打たれては、まるで自分が話し上手にでもなった心地がした。


「そういえばさ」と圭吾は言う「今日バスで来る時運転手がさ……あ、いやなんでもない」


 舌が乗ったのか、今日のバスの運転手が魚類のような顔をしていた、と言おうとしたが思いとどまったのだった。流石に人の身体的特徴を侮辱的な言い方であげつらうのは、中学生同士でもない限りよくはない。

 中学生同士でも駄目だのだが。

 だがその言葉に里見の目が見開く。

 圭吾はてっきり、言おうとしていたことを見ぬかれ、叱られるのだと思った。


「ごめん。ちょっと調子乗り過ぎて……」


 だが里見は突然圭吾の肩掴んだ。血走った目で圭吾を睨む。


「近づいちゃあかん……この街の魚類めいた顔の人にはあまり関わらんほうがええ……」


 突然の里見の権幕に圭吾は言葉が継げなかった。怯えた表情で里見の目を見る。

 ほんのわずかに瞳がブレていた。


「バスの運転手は比較的浅い……帰る時くらいなら利用しても大丈夫やろう。せやけど、魚類顔が濃い奴は話もせん方がええ……」

「え、でも」

「ええな!」

「うん……」

「多分お祖父さんも同じこと言うと思うから……」


 先ほどはああ言いそうになったが、圭吾は学校では差別は駄目なことであると習っており、こうもはっきりと近づかないほうが言われると戸惑うしかなかった。これが田舎特有の身内意識なのだろうか。だとしたらこの一週刊が少し憂鬱になりそうだと思った。


「もしかして」圭吾は聞く「里見さんが引きこもっているのはそれが原因?」


 里見はまたも黙り込む。これまで圭吾は二三回引きこもっている原因を聞いたが、毎回このように黙るばかりであった。だが今回の様子は少し違った。

 圭吾の肩から手を話、腕を組み何か考えているようだ。そして仕方ないなというふうに口を開いたのだった。


「そうや……あいつらと」


 里見は壁の方向を向いた。


「あの学校が原因やな……」


 里見の体は震えていた。向いた方向から何かが来るのを恐れているかのように。組んだ手は考えるためではなく、震える体を押さえるためであるかのように。


「学校ってあの港の廃校?」

「うん」

「怖いの?」

「うん……恐ろしい」


 古い時計の鐘が鳴る。壁にある振り子時計の音だった。


「もうそろそろ子供は寝る時間やね」


 時計を見ながら溜息をつくように、里見は言った。確かにいつもなら圭吾は寝ている時間だった。


「また話してもええかな?」と圭吾。

「ええよ……いつでも来たらええ。ただ河童みたいな顔のには気をつけな。後は」


 本を踏まないように注意しながら立つも圭吾は足を滑らしてしまい転びかける。しかし里見が支えてくれてなんとか無事だった。

 里見は言葉を続ける。


「尻子玉が襲ってくるかもしれんから気いつけや」

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