雪蛍
この小説は、テーマ小説「雪」参加作品です。
他の先生方の作品は、「雪小説」で検索する事が出来ますので、是非ご覧下さい。
あの頃もこんな雪だったっけ、と舞うように窓の外を落ちていく白雪を見ながら長谷柊一は目を細めた。
それは幼い頃の、懐かしい出来事。柊一は大怪我を負ってしまったのだった。壮絶な痛みと苦しみで薄れゆく意識の中、蛍のように淡く光る雪だけが音もなく空を踊り、そんななんでもない光景がその時は少し怖く思えた事を柊一は今でもよく覚えている。
そして、こっちは柊一の記憶がおぼろげな部分なのだが、その時、彼を助けてくれた医大生がいた。医大生はまだ医師免許を持っていないため、応急処置しか出来なかったそうだが、その処置が的確なものだったため、柊一は一命を取り留めたのだ。その影響もあってか、柊一は医者を志した。
それから。彼はとにかく勉強した。やんちゃだった幼い頃が嘘のように。そして――彼は念願叶って、医大生となる事が出来たのだ。
彼は、思う。もし自分があの医大生と同じように、事故の現場に居合わせたら、そこにいる人を助ける事が出来るのだろうかと。
1
「長谷くん」
後ろから声をかけられた。声の主は、金井ハル。見るからに活発そうなショートカットの髪と、おしゃれより動きやすさをメインにした服装が印象的な、柊一の同級生だ。
「救命講習、行くでしょ? 一緒に行かない?」
「ああ、いいけど」そう言うと、ハルは嬉しさを顔いっぱいに滲ませて微笑んだ。週末に予定していた救命講習。柊一とハルは、学校での予習・復習を兼ねて、心肺蘇生の他、外傷手当や異物除去、搬送法など、一日かけて行われる「上級」の救命講習に参加しようとしていた。
「じゃあ、後で待ち合わせとか話し合おう」
「うん」柊一は人と会話をするのが得意ではないため、どうしても短い受け答えになったしまう。けれど、ハルは満面の笑顔で柊一に手を振って、次の授業へ向かった。
*
「中々ハードね」ぼそりと、ハルが呟いた。柊一もそれには同感だ。さすがに一日がかりとあって、救命講習も楽ではない。特にハルは動作が素早く、くるくるとよく動くので、柊一よりも疲労の度合いは高いだろう。柊一は条件反射のようにぶつぶつと呟いた。
「疲労の原因には次のようなものが考えられる。
1.エネルギー源(食事)の不足 。食事により十分なエネルギーの摂取が行われないと、疲労が起こりやすくなる。俗にいうしゃりバテである。
2.疲労物質の蓄積。活動に伴い、筋肉中に乳酸などの疲労物質が蓄積することで筋肉の収縮が妨げられ、疲労す」
「黙れ」
「はい、すみません」
ハルを怒らせない方が賢明だろう。
「うー、まったくそのIQは不公平だ。長谷くんの脳みそは是非とも私に移植すべきなのだ」
柊一は苦笑した。最初はリスのように頬を膨らませていたハルも、次第に笑い出す。
「あはははは、そんな馬鹿なこと言ってないで、行動しなきゃだよね」
ひとしきり笑うと、ハルは、すっくと立ち上がった。それからの彼女の活躍ぶりたるや、それはそれは凄まじいものだ。行動の一つ一つに気合が入っていて、周りにまでやる気が伝わってくる。柊一や他の人間がハルといて気持ちが良いと思える部分が、まさにそこだった。ハルは良い意味で周りを巻き込むような力を持っているのだ。
その日の講習は、滞りなく終わった。内容は止血の方法といったものから、心臓マッサージまで様々だ。
講習を終えた二人は、ハルの運転する車に乗って帰路を辿る。ちらほらと、電燈の灯りに透けて、蛍のように淡く輝く雪が、周りに降りそそぐ。
けれど。
「!」
突然、前方を車のライトから放たれる光が覆った。
対向車だ。次いで、悲鳴のように鋭いブレーキ音が響く。ハルは急いでハンドルを切るが、間に合わない。
「――っ」
瞬間、激しい衝撃が二人を襲った。
2
「おい、いきてるか? おきろよ、おっさん」
「お……」
おっさん呼ばわりとは何事だ俺はまだ二十であり髪も余裕でフサフサな訳で断じておっさんなどというものではない、と心中で過剰なまでの突っ込みを入れつつ、柊一は飛び起きた。
「あ、おきた」
「……?」
柊一は周りを見回す。ここはどこだ? 車の中ではない。隣にいた筈のハルの姿も見当たらなかった。
しかも、空がまだ明るかった。さっきまでは確かに夜だったというのに。
「なにキョロキョロしてんだよ、ふしんしゃー」
今度は不審者かよ。
目の前に、<青空公園>という看板があった。どうやら自分は今、公園にいるらしい。
隣にいる口の悪い少年は小学校低学年ほどで、いかにもな、やんちゃ盛りだ。柊一と話す傍ら、雪玉をこしらえては、遠くの木を目掛けて投げている。
「僕と同じくらいの年のお姉ちゃんを見なかったかい?」
「しらないー。おっさんしかいなかったよ」
ハルは一体どこにいったのだろう? それに、どうして自分は公園にいるのか。確かにハルと共に交通事故に合ったはずなのに。
そうだ、携帯。
携帯でハルに連絡をとろう。柊一はズボンのポケットから携帯を取り出したが、アンテナは一本も立っておらず、『圏外』の表示がされていた。
「おかしいな……」携帯の電波が届かない程のド田舎には見えないのだが。それよりここは……。
――なんだか、見覚えのある町並みだな。
柊一は転勤族だったため、各地を転々としてきたから、もしかすると昔、この辺りを訪れた事があったのかもしれない。
仕様がない。少し歩き回ってみるか。
「なんだよ。もういっちゃうのか」
柊一など気にも留めていないかのように、雪玉を投げ続けていた少年は、意外にも、柊一を引き止めるような仕草を見せた。
「このへん、いなかだから、としのちかいことかもあんまいなくて、おれいっつもひとりなんだ」
これは、遠まわしに、柊一に遊んでくれと言っているのだろうか。
柊一は暫し逡巡したが、手のひらで雪をすくいとって固めると、その雪玉を思いきり遠くへ投げた。少しくらいなら構わないだろう。それに、迷った場合はその場を動かないのが鉄則だ。
にやりと笑って、柊一は尋ねる。「これより遠くまで飛ばせるか?」
少年は言い返す。
「おれのほうがとおくまでとばせるよ!」
そして、せっせと雪玉を作ると一生懸命投げ始めた。
「何て名前?」
「イチ! なんばーわんのイチ!」
――イチと柊一か。中々似てるな。
「うわ、冷た」
柊一の雪玉に中々届かない事をすねたイチが、柊一本人をめがけて雪玉をぶつけてくる。
「この。お返しだ」
柊一は雪玉を投げかえした。威力は出さず、やんわりと。いつの間にか始まった雪合戦の中、二人は雪玉を投げ続ける。日が落ちて、イチが帰ってしまうまで。
3
今日は町まで行ってみよう。その日、柊一は早くから行動を開始した。昨日の見た事が本当だったら大変なことになる。
昨日――イチと別れた後、柊一は途方に暮れていた。何故かお札が使えないのだ。近くのコンビニで使おうとして、偽札だ、と言われ職務質問をされかけた。頭をフル回転させてその場はどうにかなったが、お札が使えないのでは泊まる場所がない。加えて、この雪。野宿などしようものなら、凍死してしまう可能性だって十分にあるのだ。
「あんた、さっきから何してるんね?」
その時――うろうろとさまよう柊一を不思議に思ったお婆さんが声をかけた。
「あんれ、雪まみれじゃないかい。さあさ、入りなさい」
柊一の事情を聞いたお婆さんは、暖をとらせてくれたばかりか、今夜は泊まっていけと言ってくれた。もちろん、ご飯付きだ。田舎ならでは、といえる暖かさに、柊一は感謝する。
「――?」
けれどひとつ、奇妙な事があった。
「これは、今年のカレンダーですか?」
「ああ、そうさね。もうすぐ終わりだよ」
『今年の』カレンダーだって?
柊一は信じられなかった。それもそのはず、カレンダーには確かに『1994年』と大きく記してあったのだから。
今は、2006年。それは紛れもない真実だ。それなのに何故――?
考えれば考えるほど、自分は過去にいるのではないか、と思えてくる。何より、それだと携帯とお札の説明がつくのだ。
だが、それはあまりにも非現実的で、到底信じられたものではない。結局その日、柊一は寝てしまうことにした。目を覚ませば、元の世界にいることを祈りながら。
*
「おはようございます」
「おはようさん。もっとゆっくり寝ててもいかったんに」
「今日は町の方まで行ってみようかと思いまして」
「町ねえ。今日は雪がひどいから止めといたほうがいいんじゃないかい? この辺は山だから、町ならバスを使うとええわ。転ばんようにね」
「わかりました。本当に、どうもありがとうございました」
「気にすることないさね。こっちも話し相手がおらんもんで寂しかったから」
お婆さんは、また来なよ、と柊一を見送った。土産におにぎりまで持たせて。本当に、何から何まで、感謝してもし足りない。
柊一はお婆さんに向かって一礼すると、バス停に向かって歩き出した。
「あいかわらず凄い雪だな……」
しばらく歩くと、『スリップ注意!』の看板があった。さっきのお婆さんも転ばないようにと言っていたし、どうやらこの辺は滑りやすいらしい。
ごとごとと地面を揺らす音がし、バスが停止すると、柊一は財布から小銭を出して、車内に乗り込んだ。一応、平成6年――西暦1994年以前の物を使う。
「あれ? イチじゃないか」
田舎の早朝ともあって、車内はがらがらだったが、一人、見知った少年が乗っているのが見えた。
しかし、当のイチは、へ? という顔をしている。まあ、小学校低学年の記憶力なんてこんなもんだろう。
「昨日公園で遊んだだろ」
「ああ、きのうあそんでやったおっさんか」
なんだか突っ込みどころ満載の台詞だったが、相手は子供なので、許す事にする。
見たところ、イチの近くに母親などの、保護者はいない。それどころか、車内にいるのは、運転手を除けば、イチと柊一だけだった。
「一人みたいだけど、どうしたんだ?」
「いえで」
「……」
まだ小さいのにすごい行動力だな、と柊一は少し感心してしまった。
「あのおやじ、サイアクだ。おれのはなしなんてちっともきかない」
俯いてふてくされながら、イチはぽつぽつと話し始める。自分にもこんなことがあったなあ、と柊一は思った。親子喧嘩は、人生において避けては通れぬ問題だ。
「いびきはすごいし、あしもくさい」
それは関係あるのか? と思いつつ、柊一は、ぽんとイチの頭に手をのせた。
そして、次の言葉を紡ごうとした、その瞬間だった。
「うわっ!?」
甲高いブレーキ音と同時に、ギュッと氷の上でタイヤが軋む。
けれどバスは止まらない。
――スリップした!
柊一がそう認識したかと思うと、ガシャンと窓ガラスの割れる音とイチの悲鳴がし、床に勢いよく体を叩き付けられた。
どうやら、スリップしてカーブを曲がりきれずに、バスの後部がガードレールにぶつかってしまったようだ。
「お客さん! 無事か!?」
「痛……っ」
右肩に痛みが走る。しまった、肩から落ちてしまった。触れてみると、明らかに骨の形がおかしい事が解る。どうやら、脱臼してしまったようだ。
「イチ!? しっかりしろ!」
イチの頭はぱっくりと割れて血が流れ、腕の骨も折れているようだ。だが、そんなことよりも。
「まずいな……」彼の小さな足が、バス座席の下に挟まってしまっているのだった。
「イチ! 返事しろ!」
イチはまだ小さい子供だ。全身を叩き付けられて、無事で済む筈がない。そうだ。ここはバスの中だ。それなら……。
「運転手さん! 無線で連絡を!」
「あ、ああ」
――とりあえず応急処置を。
まさか、こんなに早く救命講習の成果が試されるとは思っていなかった。ここにハルがいてくれたら、と柊一は思ったが、今ここにいない人物の事を考えていても仕方がない。しかし、イチの方へ伸ばそうとした右腕が、脱臼によって動かせなかった。柊一は半秒迷う。素人が無理やり脱臼した骨を入れようとすると、軟骨が磨り減ってしまう恐れがあるのだ。けれど、今は、イチの命がかかっている。柊一は大きく一回首を振ると、意を決して、左手で思い切り腕を引っ張った。「……っ!」触れるだけでも痛いというのに、無理やり引っ張るとなると、その痛みは何倍にも跳ね上がる。
と、しばらくし、すう、と痛みが引いた。骨が正常な位置に戻ったのだ。「よし!」外れた骨が元通りに入りさえすれば痛みが無くなるというのが、唯一脱臼の良い所だ。
「イチ!」
「うわあああああ! いたい、いたいよ」
再度呼びかけると、イチの悲鳴が返って来た。叫ぶ事が出来るのならば、ひとまずは大丈夫だろう。
「待ってろ。やれるだけのことはするからな」
――先ずは、足を座席の下から抜かなければ。
柊一はイチの上体を引っ張って、座席の下から引き上げようとする。
雪。
音も無く、外の灯りを反射させた雪が、蛍のように淡く光りながら舞い落ちる。
そんななんでもない光景を、其の時イチは少し怖く思った。
いえでなんてしなければよかった、と痛みの中でイチは思う。「おとうさん……」今となっては、さっき喧嘩したばかりの父の大きな手が懐かしかった。しかし、イチの手を握って励ますのは、別の手だった。父の手のように大きな、柊一の手。
いつか。
――いつかぼくがおおきくなったとき、こんなふうにだれかをたすけられるかな。
――何時か自分が成長した時、誰かを助けたいと思ってた。
――このおにいちゃんみたいに。
――あの時、助けてくれた人みたいに。
…………
……
3
「おーい、無事かー!?」
助けが来た。柊一はほっと胸を撫で下ろす。
「もう大丈夫だぞ」
そう言った柊一の声を皮切りに、イチは再び意識を失った。
そして、イチは直ちに救急車へと運ばれる。
柊一は、一緒に救急車へ乗り込もうとして――「うわ!?」
つるりと、勢い良くすべった。しまった、ここは滑りやすいんだった、と思い出したが、もう遅い。柊一は、激しい衝撃に見舞われた。
「あれ? もう一人の兄ちゃんは何処行った?」
「もう一人の兄ちゃんって、医大生の? 応急処置が的確で助かったよ」
「そうなんだけども、何処にもいなくてなあ……さっきまで確かにいたのに」
「そういえば。何処だ?」
*
「……くん、長谷くん!」
ハルは柊一の肩を掴んで揺さぶるが、返事はない。そういえば、交通事故では運転席よりも助手席の方が危険なんだっけ、とハルは思った。そうして、呼吸が正常か確かめようとようとして――ハルは顔面蒼白になった。
「息してない!?」
ハルはパニックになりながら、必死でさきほどの救命講習のことを思い出そうとする。こういうときは……。
「……まうすとぅーまうす」
と、突然柊一が咳き込んだ。
「わっ!?」
「げほっ、金井……?」
「良かったあ……」
目を覚ました柊一は、安堵と喜びを滲ませたハルの顔に迎えられた。
――戻ってきたのか。
もしかして今のは夢だったのでは、と柊一は考える。だとしたら、なんてリアルな夢だろう。ふっと、大きく息をつくと、イチは大丈夫だったかな、と柊一は思った。
4
「イチ!」
「とうちゃん」
イチの父は、息子が無事な事を確認し、ほっと胸を撫で下ろすと、
「まったく、お前はさんざん心配かけさせて!」
その剣幕にイチは首を竦めたが、「何はともあれ、柊一が無事で良かったわ」と、母が優しく声をかけた。
どうやら、彼の乗ったバスには、一緒に医大生が乗っており、その応急処置が適切であったため、衰弱もさほど酷くならずに済んだという。
「……かっこよかった」
「? 何が?」
イチはにっと笑うと、言った。
「おれ、『いだいせい』になる」
イチ――長谷柊一が医大生となり、再びバスのスリップ事故に巻き込まれる事になるのは、まだまだ先の話である。