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介護篇(上)

 人は還暦を迎えると赤いちゃんちゃんこを着せられて祝われる。これは人生を十二年一区切りと考え、その一区切りが六回目を迎える、つまりちょうど六十歳になると「生まれたときに還る」ことを意味しているらしい。赤いちゃんちゃんこは赤ん坊の象徴というわけだ。しかし今の若い人は「赤いちゃんちゃんこ」と聞くと例の怪談を思い浮かべてしまうかもしれない。学校で噂されるいちばん隅の開かずのトイレ、そう、アレだ。薄暗くクモの巣だらけで壁のシミが妙に不気味なトイレ。そこに入るとどこからか「赤いちゃんちゃんこ着せましょか〜?」という震える声が・・・。「いりません」と言えばまだ救われるものの、ツッパって「着せられるもんなら着せてみろ!」などというと「ギャーッ!」という例のアレである。知ってるかな?知らない人は「赤いちゃんちゃんこ」でググってみてください。

 昔、人の一生が短かった頃六十歳まで生きる人はまれで、輪廻転生というわけではないが人間は六十年生きると新しい人生を迎えるように考えられたという。小津安二郎という映画監督は六十歳の誕生日の日に見事に死んだらしい。しかもその誕生日が十二月十二日というから驚きだ。偶然といえば偶然なんだろうが、あまりにもできすぎで機械のような人生に見えてくる。

 何で冒頭にこんな話をしたか。あの日以来、父が幼い子供に、いや赤ん坊にまで還っていったからである。「還暦」という言葉が、赤ん坊から幼児期・幼少期を経て青春を迎えて子孫を残し、老年とともに再び幼少期、幼年期へ、そして赤ん坊へと還っていった父の姿にそっくりそのまま重なるからである。


 中越大地震の一年後、父が転んで入院し約三ヶ月の入院&リハビリ生活を終えて家に戻ってきた時、父の介護生活を支えたのは母だった。

 快気祝いの温泉旅行がたたったのか、その年の冬父は肺炎で再度入院した。約二週間にわたる入院であった。例によって病院側は「誰か付き添いの方を・・・」と言うのでやむなく母がずっと付き添った。二週間もの間、父のベッドの隣に狭い簡易ベッドを据え付け、父のワガママし放題に付き合いながら寝泊りするというのは、並大抵の神経でできるものではない。私は改めて母の辛抱強さに感心するとともに、自らの怠慢さに自らあきれたものだった。このときにも私は「一日くらい付き添い替わろうか」と母に申し出たのだが「いいて、あんた忙しいがろ。」とやんわり断わられたのであった。しかし、そう、そうなのだ、いくら断られても行くのが親孝行な息子というものなんだ。

 結局私が長岡に帰ったのは、父が退院した年末年始の休みに入ってからだった。前回の帰省では父の老け込みように驚いたのであったが、今回は母がすっかり老け込んでしまったことに驚かされた。そこにいたのは、老いたとはいえそれでもどこかに「女」らしさをキープしていたかつての母ではなく、しわくちゃに小さく縮んだ田舎の薄汚い婆さんであった。この老いっぷりは、きっと父の介護のつらさから来ているのに違いない。というより、母にとっては、父と暮らす毎日がすでに地獄の日々だったのである。


 前々回の入院でやったリハビリの成果でなんとか車椅子なしに歩けるようになったものの、父は誰に気兼ねすることもなく歩けるようになったわけではなかった。歩いていてもどこかふらついていて、見ているだけで危うい。いわゆるヨボヨボ歩きというやつだ。そのくせ気持ちだけは若い頃のままでやたら急くので、早歩きとなる。そのため家の中でもしょっちゅう転ぶ。

 ある時、畳敷きの座敷に入る際に障子の縁に躓き、

「ナア(おまえ)がこんげんとこへ物置くすけ、つまづいたねっかや!!」

と母を怒鳴りつける。誰もそんな人の出入りするところに物なんか置いてない。

 歩行だけではない。手の所作もまた一人前とはいかなくなっていて、細かい動作がほとんどできないのだ。何かの用事で背広を着て外出することになり、ワイシャツを着る際、第一ボタンをはめることができなかったそうだ。そのときも父は大声で母を怒鳴りつける。

「ナアがこんげんでっけえボタンつけるすけ、はめらんねえねかや!」

Yシャツについているのは普通のボタンだし、そもそも既製品のシャツなんだから、母がつけたボタンではない。

 母にしてみればもうたまったものではない。自分ができないことは自分の能力がないせいではなくすべて母のせいであり、自分の機嫌を損ねる原因となるものはすべて母によって引き起こされたことになってしまうのだから。そしてそのたびにいかにも憎憎しげな表情を浮かべ母を怒鳴りつける父。まったく駄々っ子とおんなじだ。そう、父はまさに子供に帰っていったのだ。

 そもそも子供は母親なしでは生きていけない。子供を叱りつける母親は、それが自分の子供であればこそ、未来への希望と深い愛情とにささえられた叱り方をするものだ。大いなる包容力でわが子を包み込むものだ。だから、子供を叱るその言葉に、どこかしら愛情がこもっている。振り返って、わが母の父に対する接し方はどうか。似てはいるものの、その接し方は決して母親のそれではない。父のあまりのワガママぶりにカンニン袋の尾をきらした母は父にこう言った。

「そんげことまで言うがきゃ私はもういねえほうがいいね。私もうやってらんねえて。お互い別々に暮らしたほうがいいねかね。私は出て行くから、これからはあんた一人で勝手気ままに生きていけばいいすけね。」

 これにはさすがの父もワビを入れずにはいられなかった。俺が悪かった、これからはいい子になるすけ頼むから一緒にいてくれ、と涙目で母に訴えたのだそうだ。

「ほんと、あん時ばっかしゃ気分がスーッとしたて。」

 母は得意げにそう言った。

 そのときばかりはそう言って反省した父であったが、さすがは認知症、前の日に言ったことなどほとんど覚えていなかった。翌日には再び自分だけが正しく自分より劣る母は自分の命じることに従って当然とばかりに母に当たり散らし、ますます母を悩ませるのだった。

 だいたい何故に父は母が自分より劣ると思っていたのか。父のどこかに母に対して優越感があったに違いないのである。この優越感は至って単純なものである。それは出自の差から来ている。父も母も長岡の在の農家の生まれであるが、同じ農家であっても、父の家は戦前は地主階級であり、母の家のような小作農とは格式が違う、というわけだ。父には、自分が「イイトコの坊ちゃん」であるという自負心があり、そんな「イイトコの坊ちゃん」が格下の家柄からお前を嫁にもらってやったのだからありがたく思え、そんな感じなのだ。実際には単なる長岡のはずれの田舎の農家の五男坊であったから、決して「イイトコ」でもないし、ましてや「坊ちゃん」でさえもない。いざ結婚する際には泣いてプロポーズしたとの話もある。しかし、他の人にはどんなにヒクツになっても、母にだけは優位な気持ちを抱く、あるいは見下して女中さんのように思って来た父なのであった。このような傾向は、昭和一ケタ世代の男にありがちなようだ。実を言うと私の妻の家も似たようなところがある。


 認知症の父のワガママ三昧に付き従う生活を続けていた母がとつぜん心筋梗塞で倒れたのは、まさに必然的なことだったのかもしれない。


 父が無事退院した半年後の夏、私達一家は四家族合同で伊豆のキャンプを楽しんでいる真っ最中だった。照りつける日差しの中、懸命に海岸でバーベキューの火を起こしていると、突然私の携帯に電話が入る。倫子からだった。母が救急車で運ばれた、もしかしたらこれから大手術になるかもしれないから、即刻長岡まで戻って来い、とのこと。すわ一大事である。私の火お越しを手伝っていた美人のSさんの奥さんは看護婦さんで、私の会話から、いかにも専門家らしい冷静な口調で、「まずカテーテル入れるんだろうね。」と言った。カテーテルって何?と聞いて返って来た答を聞いても私には何やらチンブンカンプンだったが、大ごとであるらしいことだけはわかった。だいたいシンキンコウソクとは、いかにもすごそうな名前だ。病気の名前と言うのはどれを聞いてもすごそうに聞こえる。そういえば、昨年父が倒れたとき呼び出されたのもやっぱりキャンプの真っ最中だったな。

 さて、私は即刻長岡まで帰らなければならない。どうやって帰ったらいいだろうかと妻と相談し、まず私だけ新幹線で長岡まで行く、その後家族みんなでいったん東京に戻り、何日かつきっきりになるだろうから泊まる準備をして、それから全員で車で長岡まで向かうということになった。

 キャンプ場から三島駅まで車で送ってもらう。JRの窓口で「長岡まで」と駅員さんに告げると、ここでは買えませんというので、同じJRでもここは東海だからダメなのかな、と思って運賃表を見上げると、東日本線の新幹線にちゃーんと載っているではないか。

「上越新幹線の長岡なんですけど・・・」

と改めて告げると、駅員さんそれでガテンがいったらしく、

「ああ、越後長岡のことですね。」

と切符を切ってくれた。どうやらこの近辺の伊豆長岡とカンチガイしたらしい。なるほどね。

 キャンプ場を出たのが二時ちょっと過ぎ、三島で新幹線に乗ったのが四時半頃だったと記憶する。ようやく長岡に着いたのは九時近かった。母は病院三階の集中治療室でみんなに囲まれて横たわっていた。薄目をあけて私の顔を見、

「来てくれたがあけ、キャンプ中に悪かったね」

と言う。意識はしっかりしているようでまずは一安心した。ベッドに横たわった母の鼻には呼吸器のチューブ、手首には脈拍を計測すると思われる器具、胸元にも何やら機器が取り付けられていて、そこからチューブが伸び、脇の計測器につながっている。なにやらSFチックな、まるで人造人間の生誕とでもいった物々しさである。

「手術は?」

と問うと、倫子が

「それがさ、手術しなくて良さそうんがて」

と答える。

 倫子は、私の到着によってつかの間の安堵感を得たが、早急に事態を伝えたいという思いが混じった表情で私を見る。その脇で、矢野さんが心配そうな表情を浮かべている。その隣に、すっかり目の光を失った父が立っている。急な事態にいったいどう振舞ったらよいのやらわからぬといった表情である。私の到着と同時に勢いづいたのか、父は母に向かって怒鳴りつけた。

「ナァ(お前)がこんげんなるすけ悪いがらいや!」

おいおい、それが瀕死の病人に向かって吐く言葉かよ。しかしさすがに母は大人であった。

「あんた、悪かったね、あたしがこんげんなったばっかりにさ。」

と、やや芝居がかった言葉を父にかけるが、顔の表情はもううんざりと言っていた。父が怒鳴ってきたらこう言ってやろうとあらかじめ考えれていたことを思わせる言い方であった。

 医師から病状を簡単に聞いたところによると、通常は血栓が詰まったままで緊急手術となるところであったが、血栓は幸いにも流れた様子なので、あえて手術は避けた、それでも血栓が完全に流れ去ったのかどうかわからないし、仮に流れたとしてもいつどこでまた詰まるかわからない、最悪の事態は免れたものの、今後しばらく絶対安静が必要なのは間違いなく、しばらくの間入院してもらって、様子を見守る必要がある、とのことであった。母の入院、これは大変なことである。母にとってではなく、むしろ父にとって大変なことなのだ。さあどうしたらいいか、誰が父の面倒を見るのか・・・。

 そんな私の心配をよそに、見舞い客が次々訪れた。久しぶりに会う親戚の面々だった。私以上に倫子には久しぶりだったに違いない。何しろ先の梨本との結婚以来、親戚一同の前に倫子が姿を現したことは一度もなかったはずだから。世間体を気にしすぎるほど気にする父は、親戚一同が集まる機会があってもあえて倫子の話題は出さなかったし、またその父の思いを親戚一同みな察していたらしく、向こうからあえて聞こうともしなかった。

 母の弟夫妻(つまり私らの母方の叔父、叔母です)が来たとき、倫子に矢野さんを紹介され、あれ、ちょっと前に会った人と違うな、と彼らが感じたのは当然のことだ。何しろみんな二十年以上倫子に会っていないのだから。おばさん、矢野さんに思わず「すっかりご無沙汰しまして・・・」と挨拶してしまったそうだ。後でこっそり私に「失敗したて」とつぶやいた。おばさんに「倫子ちゃん、再婚したがあけ、いつ?」と聞かれ、私はことの顛末をかいつまんで話した。父方の親戚にとっても事態は同じであった。親戚全員が矢野さんとは初対面だった。そんなわけではからずも母の入院が倫子の新しい夫・矢野さんのお披露目となってしまったのだった。

 とりあえず母は手術しなくて済んだが、当面の問題、実はこれが最も大きな問題なのだが、母が入院している間、一人で生きていけない父の面倒を誰が見るのか。母はそのへんをよーく心得ていた。すでに倫子に担当の介護士に電話連絡させていて、明日介護士が家に来るから倫子と矢野さんとお前で会って、父を施設に入れる段取りをしろと言う。それだけではない。母は入院の際に持参した手提げバッグから茶色の封筒を取り出し、その中から厚みのある札束を引き出して、指を舐め舐め勘定しポッキリ十万円を倫子に渡す。

「何かあると悪いすけんね。」

 この病院、例によって、誰か家族の方に付き添ってくれと言ってきた。集中治療室を出たすぐの所に宿泊所がある。その日は倫子が泊まり、明日は私が泊まるということで話がついた。私は矢野さんと一緒にひとまず父を連れて帰った。


 母のいなくなったわが家はどこか陰気で、幽霊屋敷のような静けさだった。帰りがけに買ってきたコンビニ弁当を開ける。父はシャケ弁をいかにもまずそうに食う。矢野さんは一人黙々と焼酎をあける。夏真っ盛りであったにもかかわらずエアコンもつけず、扇風機だけで済ませている。モーター音が静かさを助長する。早速私は父を説得する。

「ばあちゃんが入院してる間、施設に入ってくれ。」

「嫌らいや。おれは自分で何でもできるいや!」

何度私が言っても、この一点張りである。

「どうやってメシ食うんだよ! 自分でメシ作れんのかよ!だいたい料理で火を着けて、そのまま忘れたら火事になってしまうぞ!火事になったらこの家だけじゃない、隣の佐野さんの家まで燃えちまって、家財一式なくなってしまうぞ! それでもいいのか!?」

怒鳴りつける私。怒鳴り声には怒鳴り返すのが適切とばかり、

「だいじょぶらいや!そんげことを言わんでもちゃんと一人でできるいや!今までらってばあちゃんがお前んとこ行ってたときはおれ一人で何でもやってたねっかや!」

確かにそうなのだ、大地震の前までは、転んで入院する前までは、痴呆の始まる前までは。

「昔はそうらったかもしらんが、今じゃお前一人じゃ何にもできねえじゃねえか!お前は介護されてるんだぞ、病人なんだぞ!」

だんだん腹が立って来て、父に対し「お前」呼ばわりになる私であった。

「おれのどごが悪いてがいや。どっこも体悪くねえねかや。」

「どこも悪くねえヤツが、何で薬飲んだり毎週施設行ったりするんだ?お前は一人じゃ何にも出来ないんだよ。赤ん坊と一緒なんだよ!」

「そんげんことまで言われたら、おれらって腹立ついや!嫌らいや、ぜったいに施設なんか入らねえすけんな!」

「じゃあ勝手にしろ!火事出すなりのたれ死ぬなりすりゃあいいや!こっちは一切面倒見ないからな!」

 あまりの父の聞き分けのなさに私のほうがむしょうに腹が立ち、大声を上げてテーブルを叩く。バーンという音とともに、矢野さんが飲んでいた焼酎のグラスがグラグラ揺れる。怒りに口の中がむしょうに乾いてくる。こんな聞き分けのない男と母は毎日暮らしていたのかと思うと、本当に不憫に思えてくる。体を壊すのも無理はない。私の怒りに圧倒されたのか、父は今度は急に涙声になる。

「じゃあ、おれはどうすりゃいいがいや。家にいらんねえきゃあ、どうすりゃあいいがいや・・・。」

この父の態度の急変を見て、それまで黙ってやりとりを見守っていた矢野さんが、すかさず父に声をかける。

「お父さん、陵輔さんがこうやって怒鳴るのはもっともな事なんですよ、お父さんを心配してるんですよ。ここは陵輔さんの言うことをよく聞いて、いったん施設に入ったほうがいいと思いますよ。お母さんが帰ってくるまでの間だけじゃないですか。お母さんだって、お父さんの心配がなければ、きっと早く退院できると思いますよ。お母さんを安心させてあげられるのは、お父さんだけなんですよ。」

矢野さんの優しい言葉に泣き出す父。

 そうだった、相手は子供なのだった。プライドの高い駄々っ子相手には、ガミガミ叱り付けるよりほめたほうが効果的なのだ。自分の子育てを思い出した私であった。

 結局その日は矢野さんの一言で何とか施設に入ることを納得した父であったが、明日になればまた同じことの繰り返しになるにちがいない。何せ認知症とはそういうものだ。

 翌朝目覚めたとき、驚いたことに父が朝食の用意を済ませていた。私たちの前にほかほかのごはんと味噌汁、そして茶色の玉子焼きが運ばれてくる。ごはんと味噌汁は母の作り置きだったが、この玉子焼きは父が今朝焼いたものだった。この茶色い玉子焼き、見た目といい味といい、私が子供の頃から覚えているあの父の玉子焼きにちがいなく、私は久しぶりに父の手料理を食べた。実は、私は母が作った玉子焼きよりも父のこの玉子焼きが好きだった。母の玉子焼きは黄色の光に輝いていていかにもうまそうに見えるが、やや塩気が強い。それに比べ父のは茶色くひなびていかにもまずそうなのだが、味はけっして悪くないのである。気色悪い茶色はどうやら玉子に醤油を混ぜるせいらしい。これに砂糖を効かせた味を想像してみてほしい。その玉子焼きが何十年ぶりかで私の目の前に蘇ったのだ。懐かしくてたまらなかったが、それと同時に昨夜怒鳴りつけた手前、父の気遣いに対してすまなく思い、また、自分はまだまだ一人で何でもできるというところを私達に見せたいのだろうなと察せられ、そんな父がいじらしく思えてならなかった。


 しばらくすると母の担当医から電話で呼び出しがあった。

 父を矢野さんに任せ、私と倫子と義弘叔父さんと三人で見舞いがてら、母の病状について説明を受けた。担当医は若い医師で、相談室に私たちを通し、パソコンを操作しながら、カテーテルを流した母の心臓の映像を見せた。パソコンの画面に映し出された母の心臓の内部と思しき映像に、黒い影がさぁっと走る。影は徐々に先細りになり、やがて複雑な血管の形を形成する。その様子はさながら濡らした紙にぽつんと垂らした墨がとぐろを巻いて流れるのと同じイメージだ。

 先生はさらに診断説明書に心臓の絵を描いて説明する。一般的に心臓には血管がこう這っている、母の場合この血管が多少人より長めだが、この血管の先端に血の塊が詰まったのだ、幸なことに血の塊はいつの間にか勝手に流れていったため、最悪の事態は免れた、しかし心臓の一部は壊死してしまった。そう説明する先生の息がちょっと臭い。

「いずれにせよしばらく入院してもらった後、もう一度カテーテルを入れて調査する必要があります。その間安静にしていてもらう必要があります。」

説明を聞いて、倫子がすかさず聞く。

「どのくらいの入院期間になりますか?」

心配なのは、母の体ではなく、むしろいつ母が出てこれるか、そしてその間父をどうするか、という自分自身に差し迫った問題のほうだと言わんばかりの質問だ。

「最低でも二ヶ月くらいは入院してもらう必要がありますね。」

私たちは愕然とした。長くてもせいぜい一月ほどと踏んでいたのに、まさか最低二ヶ月とは・・・。


 午後になって介護士が家に来た。私たちはまさに地獄に仏の気持ちで彼を迎え入れた。介護士が紹介した施設は長岡のはずれのYという町にあり、父以上の認知症の老人もいれば、寝たきりの老人もいて、さらに内科医が常時勤務するという老人専門の施設であった。父以上の高齢者も多くいるそうだ。介護士の話を聞く限り、そこに預けておきさえすれば今回の一件はすべて丸くおさまるように思われた。ただし、である。入居期間は一ヶ月間のみ。どうやら空きがあるのが短期入居用のベッドしかない状況らしい。厄介なことに、連続して二ヶ月間入居するのはダメとのことで、仮に母の入院が二ヶ月だとすると、残る一ヶ月間、どうしたらいいのか。これが入院期間が三ヶ月と言い渡されたら・・・。介護士は言う。

「ひとまずここに入っていただいて、その間に次の施設を見つけるしかありません。何とかがんばってみますが、果たして空きがあるかどうか。」

「○○さんのお力で、そこを何とかして、一ヶ月だけでも延長できないものでしょうか。」

と私は食い下がったが、返事はこうだった。

「何度か掛け合ってみますが、おそらく無理でしょう。ご存知のように(さほど存じているわけではなかったが・・・)、いま老人施設の数が逼迫していて、なかなか空きがない状況なのです。空きを待っている人が次々におられますので、施設側としてもそう簡単に規則を曲げることはできないと思われます。」

 家族があまりにしつこいようだったらこう言えばいい、という介護士マニュアルに従ったような言い方である。来たときには後光が差していたかに見えた介護士だったが、とたんにタダの人、それも役所の木っ端役人に見えてきたから不思議なものだ。いずれにせよ引き返す道はない。私たちは介護士の提案をのんだ。ついては、ひとまず入居のための診断と介護レベルの症状を把握するために本人と面談したい、連れて来てほしいと施設側が言っているとのこと。何のことはない、テイのいい入居審査だ。

「じいちゃんが今度入る施設は、Yにあるんだってさ」

そう父に言うと、

「何の施設ら?」

もう忘れている。

「じいちゃんがこれから入る施設だよ。昨日入るって言ったじゃないか。」

「いいや、そんげん施設なんか、おれは入らなくていいや。家がいちばんいいや。」

ああ、また始まった。

 と、ここで怒りを露わにしてはいけない。先ほど母にコッソリ教わった理屈を使って、駄々っ子をあやす要領で言ってあげなければならない。

「そうじゃなくて、施設のほうがじいちゃんにぜひ来てくれ、と言ってるんだよ。ホラ、じいちゃん、今まで週に一、二度ずつ市の施設が迎えにきてたろ?あれと同じような施設がどうしてもじいちゃんに手伝ってほしいんだってさ。若い女の子ばっかりで手が足りないんだってさ。じいちゃんのあの手品を年寄り連中に披露してあげてほしいんだってさ。」

父の目の色が変わる。

「そういうことらきゃあ、何日か行ってもいいろもな。」

 母のマニュアルは実に正しい。いまの父の扱い方をよーく心得ている。さすが夫婦である。《駄々っ子あやし作戦》は大成功である。小心者のくせに見栄が強く、見ず知らずの人の前に出ることをあれだけ恐れる父が、なぜ毎週二回欠かさずに老人福祉センターに通うことができたのか。母の情報によると、どうもそこに勤める若い女性が目的らしいのである。その中に気に入った女性がいたに違いない。若さを保つ秘訣が生きがいを持つことにあるとはよく言われることだが、人間が生き物の一種である限り、その生きがいの根元にあるのが種の繁殖であることは間違いない事実らしい。人間の行為のすべての根本はリビドーであると言ったフロイトは、正しいのかもしれない・・・・自信はないが。

「じゃあ、明日いっしょにその施設行ってみようよ。」

「どこにあるが?」(さっきYだって言ったじゃないか!)

「Yだってさ。」

そう言うと、父はいきなり目をむいて、「なにやぁ?Y?」と怒鳴る。失敗か?「Yなんかおりゃあ行きたくねえいや、あんげん田舎。長岡がいいや。」

こいつは困った、予想外の事態だ。母のマニュアルに対処法はない。とっさに私は言った。

「そう言うなよ、じいちゃん。Yって、たしか死んだ隆治おじさんが郵便局長やってたとこじゃなかったか?おじさん、あそこで死ぬまで働いてたんじゃないか。おれも倫子も隆治おじさんにはずいぶん世話になったしなあ。これはきっと隆治さんがさびしがっていて、じいちゃんを呼んでるんだよ。」

普段から鈍重な私にしては機転が利いていた。隆治伯父という人は父の八人兄弟の次男で、もう亡くなって二十年数年たつ。倫子の最初の結婚で一族総出で猛反対したとき、倫子に情を説いて一度は納得させた、あの伯父である(結婚篇参照のこと)。Yの町と聞いて私が第一に思い浮かべたのがこの隆治伯父だったのである。父は懐かしそうに言った。

「おお。そうらったなあ、隆治がずうっと局長やってたとこらなあ。そうらろうかなあ、おれを呼んでがあろかな。」

「そうだよ、きっと。とりあえず、明日行ってみようよ。そうだ、義弘おじさんも来てもらおう、だって隆治さんがずっと郵便局長やってたとこへ行くんだからね。いま残ってる兄弟は義弘さんしかいないじゃないか、兄弟で言ったほうがいいだろ?」

父は納得した。死んだ隆治伯父にまた助けてもらった。私は感謝の思いを新たにし、心の中で合掌するのだった。


 その夜、私は倫子と母の付き添いを交代し、病院の宿泊室に泊まった。

 宿泊室といっても、畳十畳分くらいのだだっ広い部屋をカーテンレールで仕切っただけの極めて殺風景な部屋で、私達にあてがわれたカーテンの敷居の中に入ると、昨夜倫子がヒマにまかせて読んだと思われるレディースコミックが置いてあった。私はそのイヤラシイ描写のすごさに感動しながら一夜をすごした。同じ部屋の隅のほうの敷居には別の家族がおり、若い女性と年輩の男性のひそひそ声が聞こえた。今晩どちらかが泊まるのだろう。女性のほうだといいな、同じ部屋で女性と二人きり、何かあったらどうしようか、などとレディースコミック的な変なワクワク感を胸に抱きつつ床についたが、消灯の際に「デンキ切りまーす」と男性の声がしたのでがっかりしたのであった。倫子は家に戻って矢野さんといっしょに一晩父の面倒を見たのであったが、翌朝病院に来て私に会ったときの第一声は、「ほとほと疲れたて」であった。

「あたしゃ、あんげんワガママ者とは絶対に一緒に暮らせねえわ。こっちが腹立つばっかりで、精神衛生上よくねえわ。こっちがおかしくなってしまう。ばあちゃんが嫌がるの、よくわかったわ。」

 施設に入る入らないでまた相当もめたらしい。《駄々っ子あやし作戦》を、倫子は母から教わっていなかったのか?ふと考えると、倫子にも駄々っ子っぽい部分があることに気づく。父に似たのかどうかわからないが、駄々っ子でなければ最初の結婚はできなかっただろうし、離婚にも踏み切れない、再婚できなかったにちがいない。駄々っ子同士が意地の張り合いをしてももめるだけだ。どちらかが大人にならなければならない。

 倫子は家に帰って早速カレーライスを作ったそうだ。カレーだったらしばらくの間作り置きがきくので、男所帯でも大丈夫と考え、あえてカレーにしたそうである。それが今朝になって、早起きの父がまたまた気をきかせて朝食の準備をしようとしたらしく、カレーを温めたはいいが、それをすっかり忘れて散歩に出て行ってしまい、焦がしてしまったそうだ。物のやけこげる強烈な臭いで倫子夫婦は目を覚まされたとのことだった。まったく危険極まりない。

「朝から焦げたカレーを食わされましたよ。」

矢野さんは苦笑いしながら、あきれた様子でそういった。

「やっぱダメらね。こりゃもう、何があっても施設に入れねえばならんて。あやうく火事になるところらったて。」

倫子の決意は固そうだった。

 矢野さんとの再婚生活ですっかり落ち着いたと思っていたが、こうと決めたら何物をもおそれず突き進むあの倫子の姿を、私はこのときひさしぶりに見出したのだった。


 介護士が紹介した施設はYの街外れの小高い山の上にひっそりとあった。

 私が運転する車の中で、助手席に座った父が「これはYへ行く道らろう。」と言うのでそうだと答えると、「何しに行くが?」と聞いてくる。昨日からいったい何度同じことを説明したことか。

「施設へ行くんだよ。」

「施設?何の施設ら?」

「じいちゃんがこれから入る施設だよ。」

「いやらいやぁ!そんげん施設、俺は入らねえいや!」

ああ、せっかくここまできて、また始まってしまった。またも《若い女の子が手伝ってほしいとお願いしている》理論と《隆治伯父が待っている》理論とを使って、一から説得する。とりあえず納得したようだ。すると父は、若い時に何度も通ったと思われる道路のルートをそのつど逐一解説する。この橋をわたった先に○○小学校がある、そこを左に曲がるとSの町へ出るなどと、こちらが聞いてもいないのに次から次へと教えてくれる。うるさくて仕方ないが、そこは私ももはやすっかり慣れたもの、《駄々っ子あやし作戦》で、そうかそうかよく覚えているなー、と感心してみせる。するといかにも得意げに「何度も通った道らすけな。あん時やほんに苦労したいや。」と昔を懐かしむ。 昨日のことは全然覚えていないくせに、何十年も前のことはやたら鮮明に覚えている。

 施設に着いて入り口でスリッパに履き替え、すぐ右手の受付で事務服姿の無愛想な年配の女性に用件を伝えると、奥から紺の縦縞のユニホームに身を包んだ若い女性が二人、にこやかな表情で現れた。こちらへどうぞと奥の部屋へ促され、受付を右に曲がる。そこから先は、別世界になった。長い廊下の壁の下方には色紙を切って作ったチューリップの花々が彩り鮮やかに貼られ、上方には色紙の輪をつなげて作ったモールが波打っている。ところどころに絵が飾ってあるが、どれも入居者がクレヨンで描いたものと思われ、子供っぽいのだが、どこか子供らしくない絵だ。これはまさに保育園だ。

 廊下の突き当たりを左に行くと、大きな食堂らしき広間に出る。広間にも色紙細工が所狭しと貼り付けられている。並んだテーブルの向こうにテレビがついており、その周りを車椅子に座った老人達が取り囲んでいる。誰も何も話さず、死んだ魚のような目で、ぼうっとテレビを見つめている。中には口から涎を垂らしているおじいさんもいる。テレビから軽快な音楽に乗って若い女性タレントのCMが賑やかな流れ、それが老人たちの亡霊の集いのような雰囲気をいやおうに目立たせている。おっと、一人だけさもおかしそうにゲラゲラ笑っている人がいるぞ。単なる住宅関係のCMなのに、何がおかしいのか。笑い方も独特で、かすれた声の、ひきつけを起こしたような笑い方だ。みんないったいどんな気持ちでテレビを眺めているのだろうか。

 なにぶんにもこうした施設に来たのは初めてなので興味はつきないが、彼らを見ること自体にどこか罪の意識を感じるものがあって、私は見てはいけないものを見てしまったかのように目をそむけた。だが父はちがった。興味津々で彼らを眺め、汚いものを見るときの表情、ガキ大将の子供が相手を見下してさも得意になるときの、あの表情で彼らを見ていた。この二ヶ月後に自分が彼らの仲間入りし、他の患者から同じように見られるようになろうとは、まさかこのとき思ってもいなかったことだろう。

 ユニホーム姿の眼鏡をかけた男性職員が一人、車椅子を押して広間に入ってきた。車椅子にはしわくちゃのおばあさんが座っている。おばあさんは白目を剥いて、天井の一点を見つめたままだった。私達とすれちがうとき男性職員は軽く会釈し、明るく「こんにちは」と挨拶する。

 大広間の隅の「相談室」と描かれた部屋で、職員との面談が始まった。二人の女性職員がにこやかに父の名と年齢を訊く。転倒直後、脳外科の先生から同じ事を訊かれたときとはさすがにちがう。しっかりとじぶんの名前と年をいえる。事前に私達が書いておいた資料に目を通しながら、職員は言う。

「長沢さん、スポーツが得意だったんですってね。お若い頃にはいくつも賞をもらったって聞いてます。」

この資料に必要事項を記載したのは私だが、そこには「過去にご本人が経験された出来事で最も自慢としていることをご記入ください」との質問に対して陸上競技でいくつか賞をもらっている旨を書いておいたのである。

二人の女性職員、どうやら父の好みのタイプの女性ではなったと見えて、来た当初はさほど生き生きとしていなかった父であったが、いまの言葉ですっかり気を良くしたらしく、突然熱い口調で語り始める。

「陸上のせんしゅらったがあて。四百メートルらて。三島郡でずうっと一位らったがあて。おれを知らねえもんはいねかったて。」

「それはすごいですね。それじゃあ、さぞかし女性にももてたでしょう?」

「いやあ、そんげんでもねえて。」

ちょっと照れながらも得意満面の笑みで返す父。調子付いて言う。

「まあ町を歩いてて『あれ、陸上の長沢さんらて』なんて女の子達がキャーキャー騒いでるのはわかったけどね。」

それ、ホントかよ・・・。

「そうですよねぇきっと、お若いときだったら、私達でもウットリしちゃうますよ。」

おいおい言い過ぎじゃないの、などと思いながらも、女性職員の父との応対ぶりが、私がすでに実践している駄々っ子相手の大人の態度であることに気づく。しかもうまい。おそらく『認知症老人との応対方法』などというマニュアルか何かに、父のようなガンコ者タイプの認知症患者との応対方法が書かれていて、それに従って応対しているのだろう。マニュアルには、《軽度の認知症患者は直近の出来事より過去の出来事を詳細に記憶している。それも人生の最も輝かしい一時期の経験を最も記憶しており、これを唯一の生甲斐とする患者が多いため、面接等応対に際しこの生甲斐に触れることによって患者は応対者に心を開くものである。》とか何とか書かれているのかもしれない。職員はさらに訊く。

「長沢さん、ここへ来る前は長岡市内の福祉センターに通われていたんですって?」

これも私が資料に書いておいた事柄である。

「そいがあて。おれは行きたくねえがあろも、センターの女の子がどうしても来てくれっていうもんでなあ。いろいろと手伝ってがあて。いい子らよ、あの子は。」

「お手伝いって、何のお手伝いしてるんですか?」

「ああん?いろいろらて。」

自慢すべきことが少ないからか、あるいは記憶が薄いからか、父の言葉がそこで止まる。すかさず私が父に言う。

「じいちゃん、誕生会かなにかでみんなの前で手品やって喜ばせてるらしいじゃないか。」

「おお、そうらったな。」

私は決して認知症患者応対マニュアルを読んだわけではないが、だいたいのことはわかる。マニュアルにはきっとこうも書かれているに違いない。《老人の生きがいは自身が社会的に必要とされていることを自覚することによって生まれるため、患者には自らの社会的行為がどのように役立っているかを説き、生きることへの希望を忘れさせないよう努める必要がある。》

「ええっ、長沢さん、手品ができるんですかァ?すっごーい。見たい、見たーい、ここでやってもらえませんかァ?」

若い女の子が人にものを頼むときの、いかにもといった言い方で職員は言う。すると父はさらに調子付き、「でぇ、じゃあやってやろうか」とタバコをポケットから取り出し一本火をつける。

「この火がついたタバコがあっという間になくなるすけ、見ててみ。」

「ええーっ、ホントになくなるんですかァ?」

「なくなるがあて、どぉれ、ハイッ!」

そう言って、父はタバコを指の間に挟んだ手で顔を覆う。両手をぱっと広げたとき、その手からタバコは消えていた。手を表裏にしてどこにもタバコがないことを確認させ、自慢げな表情をする父であったが、その口元が大きく膨らんでいるので、口の中にタバコが入っていることは一目瞭然である。誰の目にもタネがわかっているのにさも得意げに演技する父の姿がおかしくてたまらず、腹を抱えて笑いたくなるのをぐっとこらえる。普段おとなしい義弘叔父が「アハハハ」と大声で笑い出す。しかし女性職員はさすがであった。パチパチと拍手し、大げさに「すっごぉーい、タバコ、どこへ行ったか、全然わかんない。」などと手品そのものに感動している素振りを見せる。再び顔面に持っていった手をパッと手を開くと、指の間に火のついたタバコがある。口元は手品をやる前と同様の、やや開き加減の口だ。父は言う。

「どうやってるか、タネあかししようけ?」

「ええ、ぜひ教えてください。」

「どうしようかなあ、これ教えるとなあ、あとで面白くなくなるしなあ。」

私はもうおかしくてたまらず、思わず笑いながら言ってしまう。

「いや、もう十分面白いよ、じいちゃん。」

余計なことを言うなとばかり、ゲラゲラ笑う義弘叔父と私を一瞬目で制して、女性職員は父に言う。

「ここにはそんな手品できる人はいませんよ。こんど、ぜひみんなの前でやってもらいたいなあ、お願いしますよ、長沢さん。」

 一通り面談を終え、父を誘ってタバコを吸いに行く。女性職員に喫煙所を訊くとこの施設にそんなものはないという。まったくどこもかしこも禁煙で、喫煙者にはつらい。喫煙者はどうしているのかと問うと、庭の隅に灰皿が置いてあるから、そこで吸っていると言う。先ほどの大広間を抜けてさっそく庭へ出ようとすると、ガラスの出入り窓の戸が全然開かない。鍵がかかっているのだなと思って鍵を探すが、通常はガラス戸の真ん中にあるべき鍵がなく、はるか下方に鍵がかかっている。ああこれだ、と鍵を開けるが、それでも戸はびくともしない。そんな私達の様子を見て女性職員が声をかける。

「ああ、それは上のほうにも鍵がかかってるんですよ。」

上を見ると、たしかに鍵がかかっている。

「勝手に外へ出ちゃう人がいるので、上下に鍵をつけてるんです。でもさすがに背が高いと便利ですね、私達じゃなかなか上まで手が届かなくて・・・。」

 庭へ出ると、そこにはさきほどすれ違った眼鏡の男性の職員が来ている。男性職員はスタンド型の灰皿の脇に立って、いかにもうまそうにタバコを吸っている。私達を目にして軽く会釈をするので、思わずこちらも会釈を返す。

「タバコはここでしか吸えないと聞いたものですから。」

と男性職員に言うと、

「そうなんです。一応医療機関の施設ですから、館内は全面禁煙なんです。」

と答える。

「タバコ吸いにはつらくないですか?」

「もう慣れましたよ。」

毎日毎日老人介護に追われ、さぞ大変なのだろう。先ほどのおばあさんのように、寝たきりの人ならまだしも、父のようなガンコなワガママ者を相手にしていれば気も滅入ってくるだろう。母はそれで倒れたのだ。介護の仕事なんて、仕事だと割り切らない限り、普通の人には到底できるものではない。たとえ介護の対象者が血を分けた肉親であってもだ。これが老人ではなく自分の子供であれば、その子のために必死で尽くすだろう。しかしそのときの無償の行為のことは介護とは呼ばない。

 ここには椅子がないので、ずっと立ちっぱなしでタバコを吸う父を気遣い、職員は「すみませんが、これで・・・」とそばにあったバケツをひっくり返し即席の椅子として父に勧める。男性職員は言う。

「タバコを吸う方の入居は今回が初めてですね。これからは一緒に吸いに来れますね、よろしくお願いします。」

「こちらこそよろしくお願いします。一人ではここへ来れないので、そのつど誘ってやってください。」

「わかりました。私もタバコをすいに出る口実ができてありがたいばかりです。」

と職員は言って、大きく吸い込んだ煙をふうっと鼻から出す。

「ここは眺めがいいですね、長岡の街がすっかり見渡せる。あれは病院ですね、いま母があそこに入院してるんですよ。」

私がそう言うと、

「あの地震の前までは向こうは見えなかったんですよ、このすぐ前に杉の林があって。この間の地震で山が崩れて、すっかり見晴らしがよくなってしまった。」

 小高い山の上からは、一面田んぼが広がるYの田舎町が見渡せた。ところどころにこんもりした林が見える。人家は道路に沿ってぽつりぽつりとしかなく、目立つ建物といったら農協のマークのついた古びた建物が一軒見えるだけである。農作物の共同集積所か何かなのだろう。その建物のすぐ横を小川が流れている。小川には小さな橋がかかっていて、まれに軽自動車が橋を渡るのが見える。信号はほとんどないようだ。田んぼのはるか先には信濃川の土手が見え、その向こうには霞にかかった長岡の街並みがある。母の入院する病院はその土手のすぐ手前の灰色の建物で、マッチ箱を立てたように見える。一部残った杉林からはアブラゼミのザワザワ鳴く声がうるさい。まだまだ暑い日が続いていた。冷房の効いた施設の中から外へ出ると、すぐに汗が出てくる。

「じいちゃん、暑いからそろそろ中へ戻ろうか。」

と父を促すが、タバコはとっくに吸い終わっているのに

「もうちょっと待ってれいや。」

となかなか動こうとしない。逆さバケツの即席椅子に腰掛けたままはるか遠くの長岡の街を見ている。汗をかいている雰囲気がまったくないのに驚く。

「暑くないのかい、じいちゃん。」

と訊くと、

「ぜんぜんあっちゃくねえ。」

と答える。まさか暑さまで忘れたわけじゃないだろうな、と少々心配になる。


 その日の面接の結果、明日から父の入居が許可された。これで当面心配ない、ようやく一段落したと思いきや、わが父はそれほど甘い男ではなかったのであった。父の駄々っ子ぶりは通常の駄々っ子の域をはるかに超えていた。


(介護篇・中へ続く)




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