再婚篇(下)
(再婚篇・続き)
話を父に戻そう。
救急病棟の病室の窓からは、晩夏の信濃川ののどかな河川敷風景が見えた。
窓の右手には大手大橋、左手には長岡大橋、この二つの橋に挟まれた河川敷はその昔、鬱蒼と藪が生い茂り、ヨーロッパの森のような不気味さをかもし出していたものだ。今現在はそんな面影は一切ない。あるところは畑になり、あるところは野球場になったりしている。藪に包まれたその頃、この当たり一帯にツツガムシが出るというので、全国的に有名になった。今のような姿になったのは、田中角栄以降らしい。さすが土建屋だ。
そんな風景を横目に見ながら、「本島一の大河なる信濃川」(このフレーズ、ウチの高校の校歌のパクリだ)は、長生橋のはるか彼方から流れ来て、人間の欲望と思惑にまみれ平らにならされた河川敷を時に暖かく時に厳しく見守りながら、ゆったりと静かに、まさに「北海さして流れゆく」のであった。
対面の土手を超えた一帯は旧長岡の街並。積み木のようなビル群が軒を並べ、それなりの誇らしさで街を彩っている。窓のほぼ正面にオレンジ色の帽子をかぶった「水道タンク」が目立つ。ここは小学校一年生の遠足で行ったところだ。子供の頃は感じなかったが、今見るとこの建物の形、にょっきり立った男性シンボルを思わせるものがあって結構イヤラシイ。
街並の背景になっているのは「名だたる連峰ノコギリ山」(これも高校の校歌のパクリ)である。東の空の下に薄青くかすんで聳え、その前面の人工の街を包み込むようにして際立たせている。東の山々が脈々連なる風景に見入るたび、故郷に戻ったなあと実感できる。地震の傷跡はまだ完治してはいなかったが、それにしてもよくぞここまで立ち直ったものだと感慨深くなったりする。
病室のベッドに横たわってだらしなく口を開け、ぼんやりと窓の景色を見つめる父。その横で簡易ベッドに座って、父を見つめる私。父と私との間には、まるでゆったり流れる信濃川のリズムに相呼応するかのように、長くて静かな時間が流れた。そこには何にもなかった。私から呼びかけなければ父は話そうとしなかったし、私はこんな父に一体何を語りかけたらいいのか、まるでわからなかった。いったい何を考えているんだろう。試しに
「じいちゃん、今どこにいるか、わかるかい?」
と問うと、
「ここか、ここは左近の土手らろが。」
と答える。
左近の土手というのは、我が家からさらに信濃川上流にある土手のことで、今私たちがいるところでないことはもうおわかりだろう。当然石地でもないし・・・。
「あれは左近のブドウ畑らろが。」
そう言って父は河川敷の畑を指差す。いったいどこから左近の土手のブドウ畑が出てきたのか、医者じゃなくとも父の脳の中を開いてどんな構造をしているのか覗いてみたい気持ちになる。その後私は折にふれて父にここがどこかわかるか聞いてみたのだが、そのつど答えは違っていた。答えにはだいたい三つのパターンがあることがわかった。「左近の土手のブドウ畑」と「石地」と「七日町」。
病室は夜中でもエアコンがガンガン効いていた。簡易ベッドで一晩付き添った私はそのせいで風邪をひいた。
翌日、例の人懐こそうなワカハゲ先生からMRIの検査結果を聞かされた。
どうやらMRIというのはCTに比べ、より立体的に体内の写真を撮れるシロモノであるらしい。ワカハゲ先生、私と母の前に父の脳内のMRI写真をズラリと並べて、こんなことを言った。
「今回の転倒による大きな損傷はありませんね。痴呆が進んだように見えるのは、転倒した際の何らかのショックと思われます。」
この時点ではああそうですか、としか答えようがない。先生は続ける。
「しかしですね、今回の検査でそれとは別な部分に大きな問題が見つかりました。」
大きな問題? 今以上に大きい問題があるというのか?
先生によると、まず小脳に脳梗塞の跡があるとのこと。あくまで跡であるから、今回の転倒でできたものでなく、ずいぶん前に発生して、それと知らずに今日まですごして来たのであろうとのこと。
さらに問題。脳には大きな動脈と静脈がそれぞれ行っておりそれが途中で二股に分かれそれぞれ左右の大脳・小脳に行っているが、小脳へ行っているほうの血管の一つがまったく無くなってしまっている、さらにもう一方の血管は今や塞がる寸前で、大変危険な状態だ、とのこと。
「ホラ、ここの血管ですね、見てください、こんなに狭くなってるでしょ?」
先生はMRIの写真を指してそう教えてくれた。確かに写真を見ると、黒く浮かんで映し出された血管は途中でキュッと萎んでいて、まるでウインナーソーセージがつながったような形をしている。
「ここが血栓で詰まるともう呼吸もできなくなります。生きていられない、ということです。」
当たり前だ、呼吸できなきゃもう死ぬしかないじゃないか。心の中でそう思った私であったが、実はもっと後になって、必ずしも呼吸ができなくても、生かす方法がある、いや死なさない方法があることを教えられたのである。しかしこのときは、なんとか父を元に戻したかった。その思いは母も同じであっただろう。
「どうやったら治るんでしょう?」
母が聞くと、先生は答えた。
「手術でこの血管を広げることもできます。しかし、長沢さんの年齢の方になると、血管自体がもろくなっていて、手術すると余計に危ない。そもそも体力的にも手術には耐えられないでしょう。」
「じゃあどうすればいいんでしょうか。」
「血液を流れやすくする薬で何とか血管を詰まらせないようにするしかないでしょうね。もしかしたら、いま痴呆がひどいのはこれが原因で脳への血液の流れが悪いからかもしれません。」
なるほど、要するに血の巡りが悪いってことか、アタマの悪いやつをそんなふうに言うことがあるが、昔の人はよくわかってたんだな・・・などと、どうでもいいことが頭をよぎる。
先生の解説は続く。
「血液の流れを良くする薬というのは、実は血小板を固まりにくくする薬なんです。血小板というのはご存知ですか? 傷ができたときなんかに血の流れを止める働きをする血液の成分です。(そのくらい知ってるヨ!と心の中で私)ですから大怪我などすると、血が止まりにくい状態になりますから、これはこれで危険です。十分に注意してください。とりあえず、しばらくこちらに入院してもらって、薬で対処しながらリハビリテーションを続けることですね。」
結局、父はそれから約三ヶ月間、入院生活を送った。その間、母はほとんど父に付きっきりで、好きな社交ダンスにでかけることもままならなかった。それが後に母の不幸を引き起こすことになるとは、そのときの私には思いもよらなかった。
リハビリと薬の効果で、無事退院した父は、以前とまったく同じというわけにはいかなかったが、それなりに回復していた。
リハビリセンターは病院の脇に設置されていて、体操用のマットがあったり、自転車のような器具(名前を何というのか知らない)や平均台があったりと、一見アスレチック・ジムのような雰囲気であった。ジムとの違いは、そこにいる人が健康であるかどうかの違いのようだ。若いオニイチャンなんかもいるのだが、バイク事故か何かで足を骨折したんだろう、大きく石膏で膨らんだ足と松葉杖が痛々しい。父の車椅子姿ももちろん痛々しいのだが、オニイチャンの場合若いだけにちょっと気の毒だ。
私が顔を出したとき、父は若い看護婦さんに介添えされながら(ちょっとうらやましかったりする)、必死の形相で平行棒につかまって歩いていた。この当時、父にはまだそれなりの認知力があった。この一年後、父は家族でさえも声かけされなければ、誰かわからなくなってしまっていたから。私の顔を見ると笑みを浮かべ、急に元気を取り戻したようなそぶりを見せて言う。
「どうら、だいぶ歩けるようになったろう。おれは昔からスポーツは得意らったすけんな。」
これってスポーツじゃないんだけど・・・。
父の退院後、快気祝いをやろうと言い出したのは誰だったのだろう。いつの間にやらわが家にはそんな会話が飛び交い、あれよあれよという間に旅行好きなわが妻が県内の温泉場を予約してしまった。
もしかしたら言いだしっぺは父本人だったのかもしれない。というのは、この一年後父は再び入院したのだが(二度と家に戻ることがない入院だった)、その際父は私たちに繰り返し「良くなったらみんなでまた温泉行ごうな」と語っていたからである。その口調は、まるで病気になったのが自分ではなく私たちのほうだと思われるような、優しいいたわりに満ちていた。
十一月半ばの、もうすぐ雪が降ろうかという季節だった。この時期の新潟が私はいちばん好きだ。やや肌寒いものの秋の日差しはここぞとばかりに最後の輝きを見せ、田んぼは刈られた稲穂が日差しを受けて浅黄色に毛羽立っている。赤とんぼの群れがせわしそうに飛び回る。中には車のフロントガラスにぶつかってグシャリ潰れる慌て者もいる。農家の庭には熟しすぎた柿の実がぶら下がり、それをカラスがあさりに来る。どことなくのんびりしながらも、仄かな寂しささえ感じさせるそんな晩秋の新潟を味わいながら、黄色い田んぼの平原を貫く田舎道を車は走り抜けた。赤茶色に萌えた山々を夕陽がすまなそうに照らす頃、私たちは新発田に近いひなびた温泉宿に着いた。
倫子の再婚以後、家族が一同に会したのは、このときが初めてであった。私達家族はもちろん、倫子夫婦と、すっかり大人になった正道とあずさが来た。二人はちょっと遅れて車で来たのだが、運転は正道だという。ずいぶんと成長したものだ。叔父としてはちょっと感慨深いものがある。この大学二年生、いまどきの若いモンらしく、ナマイキにも茶髪にアゴヒゲなんぞをたくわえていやがる。あずさは”女性”のとばぐちに差し掛かっていて、初々しいほの色香が何気ない動作にのぞいて見える。
部屋に入るなり、メシ前に風呂に行こうということになった。
「お父さん、おじいちゃんを連れて行って来なよ。」
妻が余計なことを言う。
「何でだよ、面倒だな。」と私。
「当然でしょ、一人息子なんだから。」
「大丈夫だよ。もう良くなったんだから一人で行けるよ、心配ないよ。」
「何言ってんの、風呂場で何かあったら大変でしょ!」
テレビの大相撲中継に集中している父を尻目にそんなやりとりをしていると、横から矢野さんが口を出す。
「いいですよ、私が付き添いますよ。・・・さあ、お父さん、温泉行きましょう。」
他人からそう申し出られたら私も行かないわけには行かない。しぶしぶ父を連れて矢野さんと風呂へ行った。ちょっと気詰まりなので、保育園年長さんのわが息子を一緒に連れて行くことにした。部屋を出がけに、妻は追い討ちをかけるように言う。
「矢野さん、すみません。うちのお父さんだけだと心配だけど、矢野さんとアキちゃん(コレ、わが息子の名前です)がついていれば大丈夫。アキちゃん、おじいちゃんのこと、よろしくね。」
裸の父はところどころ皺くちゃにたるみ、シミの斑点をつけた皮膚が太い骨を覆っていて、一見ホラー映画に出てくる人工の怪獣のようで、大いに薄気味悪かった。矢野さんは父の浴衣を脱がせるところから手助けし、風呂場に入るときはその肩をしっかりと抱きかかえた。血を分けた親子でありながら私は何一つできなかった。
湯船に仰向けになって細い脚を伸ばし、肩まで湯に浸かった父は、薄目を閉じて幸福そうな笑みを浮かべた。その表情は、まるで極楽へ行ったかのような安らぎに満ちていた。そして矢野さんに言うのだった。
「ありがとうのォ、矢野さん。ありがたいてェ、ありがたいてェ。」
「陵輔さん、私、先に背中流してきますから、お父さんを見ていてください。」
矢野さんに言われ、ハァわかりました、としか言えない私。
「いいなぁ、陵輔、ありがてえや。ありがとうなァ。」
私は何もしていないのに、父は言う。温泉に連れてきてくれてありがとう、ほどの意味だろう。
「極楽らて、ありがてえて。」
すると、今度はわが息子・アキちゃんが湯船の中の父の手を引いて、
「おじいちゃん、お風呂あがって。アキちゃんが背中流してあげるよ。」
アキちゃんは皺だらけシミだらけの父の細い腕を取り、湯船から引き上げる。父は顔を歪めて言う。
「おお、アキちゃん、おじいちゃんうれしいてェ。アキちゃんも大人になったねェ。ありがとう、ありがとう。また小遣いあげるすけんね。」
結局四人で一緒に風呂に行ったものの、私は何一つ父の面倒を見なかった。父は矢野さんとアキちゃんには最大限の感謝の言葉を述べていた。そこまで言うかというくらいの感謝。わざとらしいほどに聞こえたのは、実の息子たる私へのアテツケなのか・・・。
夕食になって、一家総勢十一人はお座敷をコの字型に囲む。コの字の真ん中に、風呂で疲れたのかちょっとやつれたふうな父と、うれしそうな母が並ぶ。季節の料理に彩られたお膳が運ばれて来る。大人の脇にはビール瓶、子供の脇にはオレンジジュースが立つ。乾杯の音頭を父が取る。正道は結構飲めるらしく、あっと言う間にコップのビールを飲み干した。うまそうに呑むその姿をちょっとナマイキに感じたりする。
みんな酒が回って来た。父はほとんど何もしゃべらない。
倫子が部屋の隅に置かれた大型のカラオケボックスを引っ張り出して来、カラオケをやろうとはしゃぐ。宿に着いたときから上機嫌の母、この誘いに乗る。
「おお、カラオケあるがあけ、いいねえ、やろてやろて。」
「なあに、おめさんも歌うてがかね、歌えるがあけ?」
倫子が母に言う。最近倫子が母を呼ぶとき、母を「おめさん」という。この言い方は、長岡で「あなた(you)」を呼ぶときにありがちな言い方だ。長岡では、話者が熱心に語っていて、相手に軽い同意を得る時などに会話の中に挟まれることもある。「・・・だこてや、もしそれがそうなったらおめさん、世の中ひっくり返るこてね。」というふうな使い方だ。「おめさん」これくらい長岡的な表現もなかろう。
「だうじょぶらて、昔の演歌らきゃあ歌えるて。」
はしゃぐ母。
「おばあちゃんが歌うの? ウッソー!」
あずさと正道が大笑いする。
「まかしとけて!」
ノって来た母に、
「おめさんは後らて! まずはあたしから。」
と、倫子は勝手に予約を入れてしまった。曲はドリカムの”うれし楽し大好き!"。
やっぱりそうだ
あなただったんだ
決してうまくはないが、この歌を倫子が歌うのを聴いてると、心の底から矢野さんにほれてるのがわかる。今、本当に幸せなんだな。
倫子が歌っている間、母は一生懸命に自分の持ち歌を探していた。ようやく見つかった時には、すでにあずさが次の曲を入れてしまっていた。いま風な曲で、誰の何と言う曲か、オジサンにはサッパリわからん。
「おめさんも何かやれて。」
倫子は私にも「おめさん」と言って歌を促すが、家族でのカラオケなど、どうにも気分が乗らない。
「おれはいいよ」
と断ると、
「決まったて。これ入れて。」
と母。正道が予約を入れる。
母の選んだ曲は懐メロ。何と、今ではコロッケバージョンのほうがすっかり有名なチアキナオミの"喝采”ではないか! イントロが流れた瞬間、一座は爆笑に渦に包まれる。母はうろ覚えのチアキナオミの振り付けを真似し、ゆっくりと右手を上げながら「いつものよぉぉおに」と歌いだす。さらに大爆笑。顔までコロッケにしていやがる!
母のヘタクソなチアキナオミが終わると、次は矢野さんだ。矢野さんがカラオケボックスのところに行くと、
「ハタヨウクやれー」だの「ギター侍やれー」だの、うちの子供たちからヤジが入る。
「きみら、うるさい!」
笑いながら矢野さんは言い、歌った曲は"恋人も濡れる街角"。ナカムラマサトシの曲だ。
「若い頃はハタヨウクじゃなくて、ナカムラマサトシと言われたもんだけどな・・。」
と矢野さんはマイク越しにつぶやく。
「おめさんも歌わねえかね?」
倫子は父にもカラオケを促すが、父は私同様「いいて」と断るばかりであった。
その後も正道の最近のロックをはじめ、わが妻のマツモトイヨ(容姿はともかく歌声だけはソックリなのだ)、子供たちの”ドラえもん"と、カラオケはつきることなく続いた。その間、母ははしゃぎっぱなしだった。年取った母のはしゃぐ姿がまた子供たちの笑いを誘った。父のというより母の快気祝いのようだった。
みんながはしゃぐ中、つまらなそうにしていた者が二人いた。それは父と私であった。倫子も子供たちも、父に何度も歌うよう促したが、父は決して席を立とうとはしなかった。それは私も同じだった。私と父との間には、二人で病室にいたときのように、相変わらず長くて静かな時間だけが流れていたのだった。信濃川の流れるリズムのように。