表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/12

再婚篇(上)

 離婚篇からこの再婚篇を書き記すまで約一年半が過ぎた。その間に中越大地震が発生し、長岡の我が家は半壊一歩手前まで崩れた。

そのとき私は東京の自宅でサッカーの衛星放送を見ていた。鹿島アントラーズ対浦和レッズ戦。浦和が優勝するか否かの大一番だった。浦和の勝利で試合が終わらんとする頃突然グラっと来、それから大きな揺れがしばらく続いた。部屋の蛍光灯が左右に揺れて埃を舞い上げ、娘の机の上の立てかけたマンガ本がバタバタ倒れた。ようやく揺れが収まった頃、テレビは鹿島アントラーズの某選手がサポータと取っ組み合っている映像を映していた。一体何があったのか、地震よりもそっちのほうを知りたかった。(後でわかったことだが、どうやら負けた怒りを選手にぶつけるサポーターがペットボトルを選手に投げつけ、そのボトルを選手がサポーター席に投げ返したことから来るイザコザだったらしい。)サポーターにボコボコにされ、9.11テロで倒壊するビルさながらにゴールネットに崩れ落ちるH選手の絵をもうちょっと見ていたかった。しかし画面は突然地震情報に切り替わった。

「震源地は新潟県中越地方、震度5強」

そう告げるアナウンサーの声に、えっ?と思って見入ると、ちょうど長岡の中心部あたりに赤い×印がついた地図が映し出されている。

 東京で感じる地震の震源地はだいたいが茨城県沖かそこらだから今回もその辺だろうな、などとタカをくくっていたら、まさか新潟で発生した地震が東京にこれだけの揺れを引き起こすとは・・・。


 新潟はさぞやすごいことになっているのではないかと懸念され、私は即座に実家に電話した。しかしすでに時遅し、全くつながらない。何度かけなおしてもプープーいう嫌味な金属音が受話器から流れるだけだ。すでに新潟への回線が集中しているのだ。懸念は心配に変化する。心配はさらに大きくなると不安に変化する。

 父も母も無事だろうか。火事など起きていないだろうか。あのボロ屋のことだ、屋根が崩れ落ちて下敷きになっているかもしれない・・・。

 情報はテレビからしか入らない。手当たり次第チャンネルを回しニュース速報を見る。当然詳しい映像は出ないが、現地のリポーターからわが家の近所で大きな火災が発生しているとの情報など入る。私の通った小学校のすぐ近くだ。不安はますます募るばかりである。


 ようやく母と連絡が取れたのは、夜九時近くになってからだった。私たちが心配しているだろうと気を遣って、母のほうから電話をかけてくれたのだ。こちらからつながりにくくても、向こうからだとそれなりにつながるものらしい。とりあえず父母の無事を確認し、私はほっと胸をなでおろした。

 母から家の被害状況を聞く。

 まず台所。ここは冷蔵庫が前面に押し出され、食器棚から食器が全部飛び出して、床はガラスの破片だらけになった。

 次に玄関脇の小部屋。ここには私の書棚が二つ置いてあるが、これが両方倒れてここもまたガラスの破片だらけ。

 さらに奥の小部屋。ここは父が一日中何もせずテレビを見るためだけの部屋なのだが、この父専用の小型テレビが宙にふっ飛んだ。書棚も倒れて、これまたガラスの破片まみれ。

 最も被害がひどかったのが二階の二部屋だ。私が性欲に芽生えた中学、高校時代、誰にもジャマされずに落ち着いたプライベート時間をすごした最も思い入れの強い部屋だ。この部屋の壁がすべて崩れ落ち、部屋一面、壁土まみれだとのこと。

「でもまあ人間が無事でいかったこてや。」

普段は東京弁しか喋らない私が長岡弁でそう言うと、母は、

「ほんと、そうらいね〜。」

と返す。

 最初に揺れが来た時母は夕食の支度で鍋をかけていた。あまりに揺れが大きいのでこれは危険だと本能的に判断し、慌てて外へ飛び出した。慌てはしてもガスの火をちゃんと消したのはなかなかエライ。ちょうど近所の人たちもみな外に出ていて、お互いにこわごわ顔をのぞきあいながら無事を確かめ合ったという。

「オヤジはどうした?」

と聞くと、しばらくしてから鳩が豆鉄砲を食らったような顔でひょこひょこ出てきたとのこと。まずは我が身とばかりに、母は父を家に置き去りにして、一人脱出したのだ。

 そんなふうに電話で話している間、地震はなおも続いていたようだ。母のおびえた声が電話口に響く。

「あきゃあ、また揺れてるてえ、わあ大きいて。おお、おっかねえ。じゃあね、電話切るすけね。」

「気をつけてな。また落ち着いたら電話してくれ。」

そう言って受話器を置いた私は、まさにリアルタイムで大地震の真っ只中で恐怖に叫ぶ人の生の肉声を耳にしたわけだ。


 読者の皆さんすでにご存知の通り、中越地震はそれからもしばらく続いた。各地に避難所が設けられ、たくさんの義捐金が集められた。崖崩れに埋もれた車の中から奇跡的に救出された子供の映像を見たときは、本当に泣けた。お母さんもお姉ちゃんも助かっていてほしいと心の底から願ったのだが、不幸にして亡くなったとわかると、余計涙が出た。新潟にはアルビレックス新潟というサッカークラブがあるが、震災の翌週も試合があった。アウェイのジュビロ磐田戦、私はこれもBSでテレビ中継を見ていたのだが、試合開始前、ホームの磐田のサポーターの人たちが、敵方にもかかわらず『新潟のみなさんがんばってください』と書かれた大きな横断幕を掲げてくれ、キックオフ直前には、スタジアム全体で震災で不幸に会われた方々への黙祷が捧げられた。これにも目頭を熱くせずにはいられなかった。


 いつ大きな余震が来るかわからない不安から、母は夜を避難所ですごすことにした。避難所に寝泊りし、朝方家に戻って壊れた家屋の後片付けなどをする。そして明るいうちに風呂に入り、夕方になるとまた避難所に戻る、そんな毎日を過ごしているという。

 何でも避難所では夕食と朝食をもらえるとのことで、

「何だ、そりゃ避難してんじゃなくて、タダメシ食いに言ってるだけじゃねえのか?」

そう私がからかうと、

「そうらあねえがあて。やっぱりね、大勢の人といると、安心して眠られるがあて。家にいるとちょっと揺れただけで目が覚めて、とっても落ち着いてなんて眠らんねえて。」

などと言い訳する。てっきり父も一緒なのだろうと思っていたら、あにはからんや、一人で家に閉じこもっているという。

「何、そりゃあ大変だ。だめだよ、首に縄つけても避難所に連れてけよ。」

「だめんがて、もう私の言うことのなんかちっとも聞かんがあて。家つぶれてもいい、おれが苦労して建てた家らすけ、おれはこの家と心中するとか言って、動こうともしねえて。」

 年を取ってからの父のワガママぶりはすでに皆の知るところだったが、まさかそこまで強情を張るとは・・・。私はあきれてものが言えなかった。

 母は続けて言う。

「たぶんね、なんだかんだとでっけえ事言ってても根は小心者らすけ、本当はよその人と一緒に寝泊りするのが嫌んがろと思うよ、私は。」

なるほど、それは合点がいく。

 七十をこえた今でも社交ダンスの会に入り、友人たちとたまに旅行などして老後を楽しむ母と違い、父は小部屋に引き篭ってテレビを見るだけの毎日を過ごしている。外に出るのはせいぜい朝の散歩くらいのものだが、その散歩も近年めっきり回数が減った。昔から旅行嫌いで、私の子供の頃の思い出に家族旅行はほとんどない。

「私ゃもう放っておくことにしたて。自分の思うとおりにすればいいて。」

 年をとるほどにワガママになり、母にしか己をさらけ出せない父。母に対してありったけのワガママを通し、少しでも気に入らぬことがあると大声で怒鳴りつける父。世間の気に入らぬすべてを母に愚痴る父。そんな父をいつしか母も見放しつつあったのだが、この大地震でその傾向にさらに拍車がかかったようだ。

 そんな父に私自身が投影されるときがまれにある。私もまた妻に対してだけワガママを言いがちなのだ。そんなときわが妻は私にこう言う。

「私はあんたのお母さんじゃないんだからね!」

まったくそのとおりである。しかし、男が最後に求めるのはいつだって母親なんだよ、きっと。ある高名な文芸批評家が何かの中で「『女が書けていない』小説家の書く『女』とは、すべてその小説家の母親だ」と書いていたのを思い出す。


 さて、その後私は家に再三再四電話を入れ、何か手伝えることはないか訊いたのだが、母から帰ってくる答はいつも同じだった。いま帰ってきてもらってもこの先大きな余震がないとも限らず子供には大いに危険だ、だいいち崩れ落ちた壁を片付けないと寝泊りする場所もない・・・。

「みんなで来ても、後片付けが終わらんきゃあ泊まるとこねえよ。」

そんな母の言葉の裏に、家族みんなで来てほしい、孫たちに会いたいという希望が透けて見える。そもそも私は自分一人で帰ろうと思っていたので、その旨を言うと、母はちょっとガッカリした声色で、

「いや、もうすぐ後片付けも終わるすけ、無理して来んでもいいて。あんた忙しいがろ?」

などと言う。

 そう言われても無理を押して親のために手伝いに行くのが親孝行な息子の在り方というものだ。母も内心は私が無理を押すことを期待していたのではないか。「あんた忙しいがろ?」という言葉に母の本心が集約されている。しかし私は自分に都合のいいように母の言葉をまったく文字通りに受け取り、結局後片付けに行くことはなかった。まったく親不孝この上ない男である。


 ようやく実家に行ったのは震災から一ヵ月も経ち、余震の心配もなくなって、復旧が進み始めた頃だった。震災で家を失った人たちはいまだに避難所暮らしを余儀なくされていたが、ニュースで目にした上越新幹線の脱線車両はみごとに復旧していたし、関越高速道も何とか通行可能になっていた。そろそろ冬の訪れを感じようかという直前の季節、長岡にいた頃私が最も好きだった季節で、もちろん私一人で行ったのではなく、母の望みどおり家族そろって車で行ったのだった。

 長岡インターに近づくにつれ、アスファルトの道路が激しく脈打ち始め、車は上下に気持ち悪く揺れ出した。関越道は所々ひしゃげていた。震災前は美しく整列していた道路脇のガードレールは風に揺れる稲穂のように波打っていた。トンネルの上部には補強のためであろうか、それまでに見たこともないパイプ状の設備が穿たれていて、瀕死の病人を助けるべく差し込まれたチューブ管を思わせた。小千谷に入ろうとする頃、二車線道路はとつぜん一車線に規制された。脇に赤い字で『震災復旧』と書かれた看板が立っている。高速道の向こうに見える山々は、ところどころ緑の山肌の間から赤茶けた土がのぞける。まるで生皮を無理矢理はがされたようで痛々しい。

 インターをおりると、交差点の脇のビルが完全に倒壊していた。電柱は微妙に傾いているように見えたし、一般道はどこか走り心地が悪い。震災後の長岡の街並は、一様にガタついたような、いびつな印象がぬぐえなかった。


 ガタが来たのは街だけではなかった。なんと父にまでガタが来ていたのだ。


 震災後、父はすっかり老け込んでしまった。以前の父は、お世辞にも若いとは言えぬものの、白髪染めやおしゃれな服装で若作りを欠かさない、それなりのバイタリティを備えた老人で、決して人に老いを感じさることはなかったものだ。しかしいま私の目の前にいるその人はまさに「老人」の二文字が相応しい人であった。

 平安時代ごろの絵で、飢えた亡者らが京の街路の片隅にうずくまりいかにもうらめしげに世の中を眺める様子が描かれたものがあったと思うが、そのときの父の第一印象はまさにその亡者にそっくりだった。肌艶悪く、長い髪の毛はまばらで、垂れた目に光は失せ、顔こそ私の知る父にちがいないが、これは父ではないと私は思った。私の中の父は、顔の皺が増えようが髪の毛が薄くなろうが総入れ歯になろうが、子供の頃からまったく変わっていない。実際は多少姿形が変わっているのだが、最も身近な肉親という存在が必然的にかもし出す関係性が築き上げたイメージとでもいうべきものなのだろうか、父は父だった。家の中では暴君でやりたい放題、外面は親分肌で大声でしゃべる闊達な人、しかし実は極度の小心者、父はそんな人だった。


 もしかしたら「若さ」とは「何かしたいことがある」ということかもしれない。言葉を変えれば「生きがいを持つ」ことだ。若い人に「生きがい」などといっても始まらない。彼らには生きていることがすでに自明なのだから。生きていることそのものがすでに生きがいなのだから。「生きがい」を失った人は年齢に関係なくおしなべて「老人」といえるだろう。

 そもそも父の「生きがい」とは何だったのだろうか。これさえやっていれば他に何もいらないというようなものが、父にあったのだろうか。私が記憶する限りそんなものは一切ない。強いてあげれば、自分の部屋で一日中テレビを見ること、人と会って話をすることくらいだったろう。実は、この半年後さらなる悲劇が私たちを待っていたのだが、それに比べればこのとき父はまだまだ人並みの人間だったのである。半年後、長岡の町並み以上に崩れ落ちた父に対して、私は改めてこう聞いてみた。

「オヤジの生きがいってなんだ?これさえやっていれば他に何もいらない、というようなものがあるのか?」

もはや半分あちらの世界に行っていた父は、うつろな目で空中を見上げ、しばらく考えるふうな表情を浮かべた後、まるで自分に言い聞かせるかのようにポツリとこう言ったのだった。

「そうらな・・・。ねえな。」

 私にはそんな父の姿が震災後の長岡の街並みと妙にダブって映し出されて仕方がないのである。


 長岡の街は徐々に復興していったが、父は逆にますます老いが進んだ。決定的だったのは、あの地震から一年後の転倒事件だった。


 家族そろって群馬のキャンプ場にいた私は、母からの突然の電話に即刻キャンプを中止し、上越新幹線の上毛高原駅から長岡に戻った。夜、家に着いたとき奥の部屋の布団にうつぶせになって私を迎えたのは、見るも哀れな父の姿だった。それはすでに父ではなかった。老人でさえなかった。転んだ時に作ったと思しき青味がかった大きな瘤が左目の上にでき、まるで四谷怪談のお岩さんのようで、入れ歯をはずした口は開けっ放しで、ヨダレが流れるままに糸を引いていた。地震直後の父は、たしかに老いはしたが、これほどではなかった。いま布団の中から私を見つめるその人は、見た目は老人だが、赤ん坊を思わせた。その人のまなざしがまさに赤ん坊のそれであったからにちがいない。無邪気で世の中のしがらみを何も知らず、純真な愛くるしいほどのまなざし、悪く言えば人間の眼ではなく、ガラス玉でできた人形の目玉、死んだ魚の目玉であった。その目玉がしばらくの間私をじっと見据えていた。その間、父はいま部屋に入ってきた人が自分の息子であることを認識していなかったのではないだろうか。

「おいどうした、じいちゃん、ひどい格好だな。」

私が声をかけて初めて、彼は私が自分の息子であることを悟ったようだ。だらしなく開けられた口元からは、わずかながら笑みがもれたように見えた。


 母によれば、転んですぐ救急車を呼び、信濃川を渡ってすぐの救急病院に運んだが、あいにく脳外科の先生が不在で研修医だけだったため、とりあえずの措置として左目上の瘤の痛み止め薬と化膿止め薬をもらい、CTスキャンを撮ってきたとのこと。専門の先生に見せたほうがいいと言うので、明日病院に連れて行きたいのに本人が嫌がって、絶対に受け付けない。昔から気が小さく、医者嫌い、ワガママ頑固一徹な人であったので、イヤだといったらテコでも動かない。母が何度も明日病院へ行こうと言っても、「へえ治ったいや!」と大声で怒鳴るだけで埒が明かない。母が急遽私を呼び出したのは、父を病院に行くよう説得するためだったのだ。ガンコな父も息子の言うことなら聞くかもしれない、ワラにもすがる思いで母は私に連絡を入れたのであった。


 父は明らかに様子がおかしかった。何を問いかけられても以前のような反応がなく、どこか遠くのほうを見つめているような表情で、まるでこの世の向こう側へ行ってしまったように思われた。

「おい、じいちゃん、おれが何言ってるか、わかってるか?」

何を語りかけても無反応な父であったが、明日病院へ行こうという私の言葉にだけは、

「何でらいや? おれはどっこも悪くねえねかや」

と反応する。母は言った。

「私が言うことはまったく聞こうともしねえで、全然反応しねえくせに、今日病院行って医者が両手を挙げて、というとしっかり挙げるがあて。ほんとにわかってがあかわかってねえがか。ボケが進んでがあろかね。」

すると父は、

「誰がボケてるいや!」

怒った表情で母をにらみつけた。どうやら都合の悪いことは聞こえているらしい。しかしそれ以外はまったく無反応で、私はいま自分が相手しているのが人間だと思えないのであった。

 そんな崩れ落ちた父がちょっとだけ戻った気がしたのは、何とか風呂に入れ、その後テレビでスポーツニュースが流れたときである。大相撲で人気力士がコロリと土俵から転げ落ちる映像を見て、その滑稽な姿に私が笑うと、父も笑ったのだった。父の笑顔を見たのが本当に久しぶりに感じられた。


 翌日、嫌がる父を改めて説得し(実は昨夜からずっと説得していて、寝る前にようやく納得してもらったのだが、今朝になって全然覚えていなかったのだ)、ようやく病院まで連れ出した。当然歩けないので、車椅子で外来まで異動する。しばらく待って脳外科の医師に呼び出されると、母は転倒した顛末から救急車で運ばれたこと、CTスキャンを撮ってもらったこと、そして昨夜来の父のおかしな言動などについて、医師の前で一気にまくし立てた。

 まだ若いのだろうが頭の禿げ上がった人なつこそうな先生は、カルテを書きながら長岡弁でさもうるさげに答えた。

「まあちっと待てえて。順番に聞いていくすけ!」

母に順番に質問する形で必要とおぼしき事項を一通り聞き終えると、先生は父に向かって聞いた。

「お名前は言えますか?」

「長沢三郎」

「お年は?」

「五十六・・・らったかなぁ」

「五十六ねぇ!?」

先生は笑いながら驚いた様子をし、さらに聞く。

「今日は何年何月何日らかわかりますか?」

「今日かね、今日は平成六年の・・・いつらったかねぇ・・・」

先生はおどけた目で「ダメだ、こりゃ」という表情を私達に向けた。

「ここがどこかわかりますか?」

「ここ?ここは石地らろがね。」

石地というのは、長岡から車で四、五十分ほどの海岸の名前で、田中角栄出生の地、西山町にある。ここ、長岡市内の総合病院が石地などであるわけがない。

先生は質問を変えた。

「じゃあね、長沢さん、"十一ひく七"はいくつらかわかりますか?」

父は首をひねりながら答えた。

「"十一ひく七"ね。"十一ひく七"・・・・いくつらったかな・・・・。"六"らったかの?・・・」

おいおい、じいちゃん、ウチのガキだってその程度の計算できるぞ。

「じゃ長沢さん、ちょっと両腕を上げてみて。」

先生の指示に父はさっと両腕を上げた。私や母がああしろこうしろと指示してもボケたフリして一向言うことをきかないくせに、医者の言うことは子供のように素直に従いやがる。ふざけたオヤジだ。


 その日先生の下した診断はこうだ。まずCTの写真を見るかぎりでは、確かに年齢のせいで脳が痩せ気味ではあるが(つまりちょっと老ボケしてるということだ)、脳に目だった損傷はない。記憶が正常でないのは転倒の衝撃から来る一時的なものかもしれない。しかし、転んだときの衝撃でCTでは見えない部位に損傷ができている可能性もあるので、MRIを撮ってもう少し詳細に診断する必要がある。

CTとかMRIとか言われても、何がどう違うのかよくわからないが、先生の話の前後の文脈から想像するに、ともかくMRIというのはCTよりも詳細に体の中を調べる機械であるらしい。

「で、今日はどうしたらいいでしょうか。」

母がそう聞くと、午後からMRIを撮って、顔のキズもひどいので、ひとまず緊急病棟に入院してほしいとのことであった。

 これで一安心とほっとするも束の間、看護婦さんが緊急病棟入院の際に家族の方に付き添いをお願いしたいと言ってきた。誰か父といっしょに一晩病院に泊まれ、と言っているのである。冗談ではない、明日は会社だ、今日中に東京に戻らねばならないと母に言うと、MRIの結果は明日出るから、何とか会社を休んで、今日一晩父のそばにいてくれないか、と言う。

「その後は私が付き添うすけ、あんたは明日帰っていいて。」

母のその言葉に私は翌日東京に帰ったのだが、今にして思えば、倫子を呼んで母の変わりに付き添いさせるべきであった。一年後、まさか母まで介護疲れで倒れてしまうとは・・・。


 倫子は当時、再婚して山形に嫁いでいた。倫子が正明と離婚したのが震災の約1年半前、再婚はその半年後だというから、ずいぶん早い。どういういきさつでいまのダンナと知り合ったのか、いまだに私にはわからない。ただ離婚して半年後に再婚というのは、あんまりに早すぎやしないか。もしかしていまのダンナと再婚したいがためにバクチだの倒産だのと理屈をつけて離婚したのではないだろうななどと、ついゲスの勘繰りを入れたくなってしまう。まさかそんなはずはあるまいが、いずれにしても倫子の再婚はあまりに唐突であった。

 倫子の新しいダンナ・矢野隆行氏は私より四つ年上で、倫子同様バツイチで二人の連れ子があったが、二人ともすでに成人していて、再婚する上で問題はまったくなかったという。私たち家族は、否が応でも矢野氏と前夫・正明を比べてしまう。そこでまず矢野氏の人となりから記そう。

 矢野氏は、背は倫子より高く、天然パーマに前夫同様のタレ目、濃い髭に浅黒くたくましい顔、笑顔がとても人なつこそうな、朴訥な東北人である。山形市内にある某メーカーの工場に勤めるサラリーマンで、「ヤングエグゼクティヴ」を気取った没落資産家の前夫と比べると、前夫にあったどこか人を見下したような嫌味な風が一切なく、同じサラリーマン家庭に育った私たちには、親近感が持てた。大酒のみであるにもかかわらず、酔っても少しも乱れることなく、陽気にニコニコと明るい笑顔を浮かべるだけで、父も母もかくいうこの私も、この人になら心を許せると思った。どうやら矢野氏、倫子と二人で毎晩大酒をあおっているらしい。焼酎が好きで二人で一晩でボトル一本を空けることもあるという。

 そんなふうに語る倫子の幸せそうな表情が私に安心感を与えると同時に、どこかでくすぶっていた兄としての自分を呼び覚ましたようである。私が新しい倫子の夫に好感を抱いたのは、本人のキャラクターも無視できないが、もしかしたらこちらの影響が大きいのかもしれない。

 しかし誰より彼になついたのは私の子供らであった。倫子は彼を「タカちゃん」と呼んだが、子供らは、彼の明るい笑顔がちょっと前に売れたお笑い芸人・ギター侍の波田陽区に似ているところから、「ハタちゃん」などと呼んだ。もっとも本人は「中村雅俊と呼んでくれ」と言っていたが。(たしかに若い頃は似ていたかもしれないな)

 二人の再婚には、これから新たな家庭を築くのだというような初々しさ、人生への期待感はほとんど感じられなかった。すでに子育ての終わったバツイチ同士が、お互い気の合ったところで「じゃ結婚しよか」みたいな軽いノリではじめたというような、どこかしら軽いおもむきがあって、それはそれで幸福に思えた。しかし父も母も世間体を気にし、倫子が離婚、再婚したことについて、親戚には一言も告げなかった。

 再婚に際し、倫子は正道とあずさには相談したという。正明と離婚するときは大泣きした二人の子は、この再婚には大賛成だったようだ。とはいえ、二人が矢野家の籍に入れることはなかった。これは正明以降の跡取りを不在にできない梨本家の事情を鑑みてのことらしい。この頃、正道はすでに私立大生で東京に下宿していたし、あずさは梨本家を出て新潟市内にアパートを借りて住んでいたから、籍だけ梨本に置いたまま、実際は正明とは別居していた。梨本家の家業は、以前よりずいぶんよくなったというが、正明はいまだ競馬狂いから抜け出せないらしい。

(再婚篇・下へ続く)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ