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離婚篇

 倫子が梨本の家を飛び出してあずさを連れて長岡の実家に転がり込んだのは、結婚して二十年目の夏だった。すでに正道は東京の私大に進学しており、あずさは高校受験の真っ最中であった。

 あずさが帰宅して部屋で受験勉強をしていると、家に電話がかかってきた。階下に誰かいるだろうと思って放っておいたが、誰も受話器をとろうとしない。すでに八十を越えていた祖父は、耳が遠くなったとはいえ電話くらいわかるはずだが。誰も出ないところを見ると、祖母と二人で散歩にでも出かけたのだろう。この電話は普段家族の間の連絡のみに使っているので、会社の取引先などからかかってくることはまずない。母か父からだと思って受話器を上げると、見知らぬ太い男の声である。あずさの声を聞いて、男は父がいないか問う。不在を告げると、猫なで声だった男の声色が豹変する。

「ふざけんな、このクソガキ! 本当はそこにいるんだろ、出せや!」

びっくりしたあずさが本当に不在だと言うと、

「仕方ねえな、おめえじゃ。クソオヤジが帰ってきたら、早く五十万店に入れねえとおめえん家まで押しかけると言っておけ!金が作れねえんだったら目玉でも肝臓でも売って来いと言っとけ!」

そしてまた猫なで声に戻って、

「そのうちお嬢ちゃんにもいいとこで働いてもらうことになるかもしれねえからねぇ、いまのうちからきれいにして、覚悟しておいて頂戴ね。」

 あずさはあまりの恐怖にしばらくの間足が震えて止まらなかったという。弁当屋から帰った倫子はあずさからこの報告を受け、早急に正明に問い糺した。必死に隠そうとする正明を追い詰め、ついにサラ金から金を借りたことを白状させた。借りた金を正明は競輪につぎ込んでいたのだった。今日あずさが受けた電話は、先週金曜日が返済日だったのだが、忙しくてつい忘れてしまい、その督促だったのだ・・・。

 それにしては額が大きすぎないか、サラ金とは、初めての督促で電話の相手が子供でもそこまで人を脅すものなのか。何よりも五十万円などという大金を今日明日でどうやって返済するのか。アテがあるのか。どこかおかしいと思った倫子はさらに正明を問い詰める。育ちのいい正明は、倫子に理詰めで問われるとなかなか答えられない。ウソがウソを呼んでしまい、そこからさらに追求される。

 結局わかったのは、これまで正明は父の会社からきちんと役員報酬を受け取っていたこと、それを家に入れることなくすべて競輪につぎ込んでしまったこと、負けが込んでつい父の会社の金に手をつけてしまい、その穴埋めにずいぶん前からサラ金を利用していたこと、サラ金への返済のために別のサラ金からお金を借りようとしたが、もう通常のサラ金からはお金を借りられなくなってしまったこと、そして当座の返済をしのぐべく、やむなく闇金融から五十万円を借りたことなど、あらいざらい白状させた。サラ金への負債総額は一千万円近くに膨れ上がっていた。

 腹を立てた倫子は、こうしてあずさを連れて梨本家を出てしまったのだった。


 私は自分の子供たちの七五三のお祝いを東京でなく、わざわざ長岡に帰って来て行なった。親に喜んでほしいからというのが理由だが、それよりも自分の生まれ育った土地に対して子供達に愛着を持ってもらいたかったのだ。

 その年は次女の七歳のお祝いに当たっていて、家族総出で悠久山の蒼柴神社に出かけた。夏休みに子供たちを連れて遊びに来たときは油蝉の泣き響く山中の参道を歩いて境内に上がるまでの間に大汗をかいたのだが、すでにあたりは一帯に秋の気配が色濃く立ち込め、冬物の背広を着てきてよかったと思った。朱色の鳥居をくぐって石畳の参道を登るとき、突然目の前を茶色の蛇がSの字を描きながらしゅるしゅると横切った。皆一瞬息を飲んだ。東京育ちの子供たちは生まれて初めて目にする野生の蛇に大騒ぎし、一番下の男の子などは大声で泣き出してしまった。蛇も冬眠の身支度におおわらわなのかもしれない、と私は思った。

 私が家族で帰郷した時には私の家族用に二階の部屋があてがわれる。高校まで私が使っていた勉強部屋だ。その隣にも部屋があるのだが、そこは私が家を出て以来、ずっと物置部屋として使われていて、私が昔使った勉強机やら壊れたオーディオやら古びたアルバムやらフォークギターやらのガラクタ類が埃をかぶって置かれていた。

 その部屋がこのたび帰ったときには綺麗に片付けられていて、人の住める部屋になっていたのに、私は驚いた。しかもただ整理してあるだけでなく、裾にレースのついたピンク色の布団を敷いたベッドが二つ、ディズニーキャラクターの可愛い目覚まし時計、白い陶器に赤い擬似宝石を蓋にあしらった化粧箱、花柄模様のビニール製の簡易衣装ダンスなど、いかにも女の子らしい雰囲気をかもし出していたのであった。梨本の家を出てから倫子とあずさがこの部屋に住んでいたのだな、とすぐにわかった。あずさはまだ中学生だ。長岡から新潟まで中学生が毎日通うのは容易なことではない。あずさのけなげさが胸にしみた。しかし、肉親二人の同居のために汚い部屋を模様替えしたり、二人を連れて買い物に出かけ、新しい調度品類を選ぶ母の楽しげな姿が想像でき、親にとってはありがたいことのようにも思えた。父も母も口では倫子の里帰りを嘆くものの、どことなくうれしそうだった。家全体が活気づき、心なしか明るくなったようにさえ思えた。


 当然と言えば当然なのだが、倫子が長岡に帰っていることはすぐに梨本家に知れた。失踪して一ヶ月が過ぎた頃、正明が迎えにやって来た。正明は再び父の前で土下座した。土地を買わされたときよりさらにひどい叱責の言葉が矢のように父の口から正明に浴びせられた。正明はひたすら詫びるだけで、一言も返す言葉がなかった。

 父は次のことを正明に約束させたうえで倫子を引き取らせた。



  一.これまでの借金はすべて梨本の父に頼んで弁済してもらうこと

  一.今後は決して競輪に手を出さないこと

  一.父の会社の役員報酬は必ず生活費として家に入れること

  一.金銭に係わることは倫子に隠し立てしないこと



 これらの約束のうちどれかひとつでも破ったときは即離婚させる、と父はきつい口調で正明に申し渡した。

 これを聞いて、私は父と母に言った。

「おれは学生時代に新聞配達してたからわかるんだけど、いったんバクチにのめりこんでしまった人間はそこから絶対に這い出せないよ。新聞配達の専業さんって、そういう人達がほとんどなんだ。まっとうな職に就こうと思えば就けるのに、バクチやりたいばっかりに新聞配達

やってるんだよ。新聞配達って昼間はヒマだから、競馬でも競輪でも好きなときに行ける。そこで借金作って、集金した金を使い込んじゃまた店に何年か縛られる、そんな生活を送ってんだよ、連中は。正明は直らないよ、たぶん。」

 すると、結婚前は銀行で働いていた私の妻が、さしでがましいようですけど、と口を挟む。

「いま正明さんの競輪の負債が一千万円近くあるんでしょう?梨本のお父様がそれを一括返済できればいいんでしょうが、できないと自転車操業になってしまいますよ。お義姉さんの会社の倒産で家屋敷全部担保に取られていたら、これ以上どこからも借りれませんよね。何番抵当までつけられているのか知らないですけど、少なくとも銀行はもう貸してくれないですよ。

 正明さんは友達の弁護士を通じてなんとか清算するって言うけど、いったん弁護士介入された物件なんて、ややこしくなるばかりですから。そうすると残るアテはヤミ金しかないですね。」

 冷静な妻の口調に、父も母も俯いてしまった。私はたたみかけるように言った。

「この際こっちに火の粉が飛んでくる前に離婚させるのが一番いいんじゃないの?このまま雪ダルマ式に借金が膨らむと、いずれこの間みたいに親戚を頼ってくるよ。連中に取っちゃあ、そのための親戚なんだもの。」

 父は黙ったままだったが、母は大いに賛成であった。しかし義理堅い父は正明との約束があるのでもう少し様子を見たいと言った。


 《契約》とは、もしかしたら究極的な人間関係の在り方なのかもしれない。商取引はもちろん、恋愛だってセックスだって、そして結婚でさえ何らかの《契約》関係抜きでは存在しないのではないだろうか。そもそも言葉を使って人と話すことがすでに《契約》的な行為ではないだろうか。人間は本来個々バラバラな存在であって、人の痛みを自分が感じることはできないし、人が考えていることをすべて理解することなど到底不可能なはずだ。そこで何とかお互いに理解し合おうとして手始めに作ったのが言葉なのかもしれない。聖書が「はじめに言葉ありき」と言っているのは極めて正しいと思う。(もっとも聖書では神が作ったことになっているが。)ひとたび言葉を使い始めると次に人間は自分に都合のいいように己れの考えを主張しはじめる。漱石先生ではないが、本来バラバラな人間同士が己れの利害を主張しはじめるとそれこそキリがない。この世は闇だ。とてもやっていけるものではない。どこかに妥協点を見出さねばならない。利害の異なる人間同士がお互い妥協しあった内容、それこそ《契約》と呼ぶのではないだろうか。その意味で、話される言葉というのはすでに多分に《契約》的な存在だ。


 正明と父との約束は、残念ながら正明に一方的に破られてしまった。倫子が梨本家に戻って半年、正明は競輪から一切足を洗ったかに見えた。しかし孫を連れて弥彦に遊びに行った弁当屋のアルバイト主婦が新聞片手に競輪場から険しい顔で出てくる正明を見かけ、こっそり倫子に報告した。そこですべて発覚してしまった。借金はすでに一千万を軽く超えていた。倫子はもう限界だと思った。翌年の春、父との約束どおり倫子夫婦は正式に離婚した。倫子の子供達は、泣きはしたものの離婚に反対しなかった。

 倫子は梨本家に内緒で吉田町にアパートを借り、新潟市内の公立高校に進学したあずさとともにそこに住んだ。倫子は父のコネで長岡の福祉事務所で事務の仕事に就いた。給料は安いが、このご時世この年で職につけるだけでもありがたいと言う。父は吉田町の倫子のアパートの家賃を負担してやっている。

「いくつになっても、あいつばっかしゃ金のかかる子らいや。毎月十万近くおれが家賃払ってやってるがあれ。おれが死んでもあいつにやビタ一文遺産はやらねえや。」

 父はそこまで私にこぼすが、言葉とは裏腹に、実はうれしいのかもしれない。

 正道は私がそうしたように東京で住み込みの新聞配達のアルバイトをしながら大学に通っている。すぐ就職活動をすることになるが、父は正明に給料をタカられるかもしれないので、新潟では絶対に就職しないよう、正道に諭している。正道もそれを希望している。


 倫子が離婚して半年ばかり経ったある晩のこと、母から私に電話があった。

「私ちゃん、倫子が結婚したてぇ。昨日籍入れたがって。びっくりしたて、本当に急なことで。相手は高校の陸上部の先輩らって。あんたより二つばっか年上で、今までずっとOB会の幹事やってたがってさ。向こうも離婚してて、社会人の男の子が一人と大学生の女の子が一人いるがってさ。もう向こうの親も知ってて、来週会いに行かんきゃあならんがて。ほんとにあの子ばっかしゃ、思い切ったことをすぐ実行する子らて。二人とももう大人らし、二回目らすけんね。もう結婚式も何にもしねえでおくが。本人同士がいいと思えばもうあたしらは何にも口ださねえて。」

「そりゃまた、ずいぶん早いな。正明は知ってるのかい?そのこと。」

「いや、何にも言わねえでおくがて。正明はあの子がまだここにいると思ってがあて。吉田町にいることは何も教えてねえが。見つかると危ねえすけ、内緒にしてがあて。」

「確かに見つかるといつタカられるかわからんからな。」

「だいたいうちの親戚筋にもまだ何も報告してねえがて。お父さんは顔が立たねえすけんに親戚には何も言わんでいいと言ってが。あたしもそれでいいと思ってるけど、あんたにだけには報告しておかんとね、兄貴らすけ。

 で、今度長岡にはいつごろ来るが?正月らけ。そん時に新しい旦那さん連れてお前に挨拶したいって言ってるすけ、まあよろしく頼むて。」

 離婚後わずか半年にして再婚・・・。私は倫子の初めての結婚の時ほどの卑屈感はなかったものの、なにかまた大切なものを失ったような気がした。それは寂しさではなかったし、嫉妬でもなかった。あえて言えば苛立ちに似ていた。離婚のしたときにははっきりとあった倫子を見守る気持ちが薄れていくことへの苛立ちだったのかもしれない。そして私は母に言った。

「でもさ、あいつみたいに条件が悪けりゃ再婚なんてなかなかできるもんじゃないよ、普通。あいつ、もしかして最初からその人と再婚したくて正明と離婚したんじゃないだろうな。まさかとは思うけど、あんまり早すぎるからさ。」

 母は笑って冗談だと受け止めたようだったが、私は本当にそう思ったのだった。倫子が今度はどういう恋愛を経て再婚したのか、詳しい経緯を私はまったく知らない。二人の間にいつ恋愛感情が芽生え、どのような愛の言葉をささやき合い、いつどこで肉体関係を結んだのか、そして再婚に際してどんな約束が取り交わされたのか、お互いの親や子供をどのように説得したのか、離婚する前は不倫関係だったのではないかなど、いろいろなことが想像できる。しかし本当のことはわからない。これらの事柄は、離婚のときとは異なり、あくまで当事者二人の間だけでしか知り得ないことなのである。


 私はいまだに新しい義弟に会っていない。当然その家族や親戚についてもまったく知らされていない。逆に先方は倫子の言葉を通してしか私のことを知らないはずだ。それでいいのだ、と私は思った。なぜなら私は今、倫子の新しい夫と何らかの《契約》をするつもりはさらさらないからだ。

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