介護篇(下)
これでようやく落ち着いた日々を送れると誰もが思った頃、それは父が『天使の庭』に入居してほぼ一ヶ月が経つかという頃だった。またもや私の携帯に突然の電話がはいった。携帯電話は『天使の庭』と表示していた。久しぶりの父の電話攻撃だろうかと思い、一気に憂鬱になる。身構えながら電話に出ると、電話の主は谷崎さんだった。
谷崎さんは、らしくない落ち着きのなさで、そうでなくても聞き取りづらい携帯電話の向こうから、何事か滔々とまくしたてる。なかなか要領を得ないのでひとつひとつ語を切って確認しながら聞いていくと、どうやらこういうことらしい。
今日いつもどおり父を連れて散歩に出た。信濃川の土手近くまで行こうとしたところ、途中で父が「ちと待ってくれてェ」と足を止めた。どうしたのかと顔を見ると、額に冷や汗のタマを浮かべてゼイゼイといかにも苦しげな息をしている。顔色は青ざめ、今にも死にそうな雰囲気だ。決して長い距離を歩いたわけではないしましてや走ったわけでも何でもないのに、この表情は尋常ではない。さらに足をさすってくれと言うのでズボンの裾をたくし上げると、両足とも風船のようにパンパンに膨れ上がっている。その場でこれは危険と判断し、肩を抱いて母の入院した救急病院に何とか運び込んだ。病院もまた一目見て危険と判断し、とりあえずそのまま入院することになった・・・。
ああ、なんとわずかな平安であったことか!一体これからどうしたらいいのか、私はその場ですぐに判断できなかった。ただ「そうですか、そうですか」と返すしかなかった。谷崎さんは私から何らかの指示を仰ごうとしたのに私が一向にそれらしいことを言わないので、こう言った。
「ご自宅にお電話を入れたのですがお留守のようでしたので、息子様の携帯にお電話させていただきました。」
どうやら母は私の指示通り、私が与えた携帯電話以外一切電話に出ないようだ。谷崎さんの今の言葉で徐々に冷静さがよみがえってきた。
「で、いまオヤジはどうしてるんですか?」
「いまはとりあえずN病院の救急病棟で酸素マスクをつけて寝ておられます。何せちょっと動かれただけで息が上がってしまって、とっても苦しそうなんです。足は腫れているしどこかお加減が悪いに違いありません。」
「そうですか。で、私はどうしたらいいでしょう?」
思わずそう言ったものの、それはこっちが聞きたいことだ、というのが谷崎さんの気持ちだっただろう。谷崎さんは「えっ、えっ?それは、それは・・・」と口ごもってしまう。会話にほんのちょっと間が空いて、谷崎さんは言った。
「今は私がおそばについておりますが、私もずうっと付きっ切りというわけにはいきませんので、どなたかお越しになっていただきたいんですが、ご無理でしょうか?」
「そうですか。私が行ければいいんですが、今東京ですので、すぐと言うわけにはいきません。それより入院しないで、『天使の庭』でお預かりいただくわけにはいかないんですか?」
「それはできません。お医者様の診断ですから。」
谷崎さんはきっぱり言い放った。
さあ誰に行ってもらったらいいいか。母に行ってほしいのだがおそらく無理だろう。とはいえこのままにはしておけない。やむを得ず私は谷崎さんに言った。
「わかりました。すぐに誰か行かせるようにします。」
「よろしくお願いします。」
まずは母に相談だ。携帯に電話すると案の定母はすぐに出た。概要を伝えると大いに驚き、
「いやあ困ったねか。どうしたらいいが?」
と聞いてくる。気持ちは私と同じようだ。
「ばあちゃん、行けないか?」
と問うと、絶対に行けないと答える。「行けない」のではなく本当は「行かない」というのが正しい。もっと正確に言うならば「行きたくない」が正しい。その母の気持ちがよくわかるので私は言った。
「仕方ないな、じゃあ、おれから義弘叔父さんに電話して、とりあえず叔父さんに行ってもらうよう頼んでみるよ。で、おれはこれからすぐ会社を出て、病院へ向かうから。」
会社を早退して長岡についたのはその日の夕方だった。病室内にはオレンジ色の淡い夕陽が射しこみ、それが電灯の青白い光と交じり合ってけだるげで、かえって室内が暗くなっているように思えた。ベッドに横たわる父の周りを義弘叔父と私のイトコの貞夫さん、秋幸さん、そして倫子夫婦が取り囲んでいた。父の口には透明の酸素マスクをあてがわれていた。黒茶けたシミだらけの左腕が投げ出された枯れ枝のようにシーツの上にむき出しになり、その先端の人差し指にぐるぐる巻きにされた白い包帯からは電気のコードが延びていた。コードは脈拍を計測すると思しき機械につながっていた。父は自分がどういう状態にあるのかいま一つはっきりわかっていないようだった。
私は駆けつけてくれた義弘叔父とイトコ達にお礼を言い、父の容態を問うたが、誰も何も答えようとはしなかった。父は私の顔を見て一瞬私が誰であるか考える様子を示し、どうやら私だとわかったらしく、おもむろに上体を起こした。そして、いかにも邪魔だとばかり口元の酸素マスクを引き剥がした。それを見た倫子がマスクをはずさないように注意すると、父は「黙ってれいや!」と倫子を一括した。倫子はその言い方にカチンと来たらしく、きつい口調で父に言った。
「何言ってがあて、おめさん!これしてねえきゃ、死んでしまうって先生が言ってたろ?死んでもいいがきゃ勝手にはずせばいいさ。そのまま死んでもらったほうがこっちも楽らて!」
本音に近い。みんなが物静かになっていたのがなぜか、倫子のこの一言でガテンがいった。父のいつものワガママ三昧が始まっていて、だれも何も言い出せなかったのだ。
「倫子、何だお前は!親に向かってその口の聞き方は!」
父が怒鳴る。
「何さ、アタシはおめさんが心配らすけん言ってるがねかて!いっつも勝手なことばっか言って!」
私の来訪に力を得たのか、倫子も負けていない。
「何だァ〜!このズベは!」
おそらく母にそうやったのとまったく同じように、父はきつい目つきで倫子を睨みつける。まさに一触即発、壮絶な親子バトル開始寸前の気配が漂う。
読者のみなさんにはもう十分おわかりのとおり、この状況は父を説得するに最も悪い状況なのだ。父の周りをこうして目下の親戚が取り囲み、やいのやいのと言い聞かす。言っていることがいかに正論でも、そこは封建社会の真っ只中を生きてきた父だ、目上の者が白と言えば黒いものも白くなければならない。父は、生き残っているただ一人の兄弟である義弘叔父の助言に対しても、すでに代変わりして家督を継いでいる私のイトコ達の忠告に対しても、彼らがただ自分より年下だという理由だけで一切耳を傾けないのだ。むしろここぞとばかり彼ら目下の者達に年長者として説教をし始める始末。そして、悲しいかな、彼らもまた父とまったく同じ封建社会に育った人達であった。説教とも愚痴ともつかぬ、つじつまの合わない父の訓戒に対して、黙って恐縮するばかりで一言も返すことができないのだ。相手は単なる認知症のガンコジジイだぞ。でも兄貴分だから何も言えないのだ。
「ネラ(お前達の意味です)は親の面倒もきちんと見ねえで勝手なことばっかやって、死んだ一秋も隆治もネラにどれぐれえ手え焼いたか、わかってがらか!」
茶目っ気のあるイトコの貞夫さんは、訓戒をたれる父の目を盗んで、私にだけにわかるように指で小さなクルクルパーを作って示した。もうすぐ六十になる貞夫さんのその仕草は先生に叱られる脇でこっそりアカンベーをする子供とそっくり同じで、私は思わず吹き出しそうになった。
父の妙なお小言は続く。倫子はもう処置なし、といった感じで私のほうを見る。私は父にこう言った。
「じいちゃんさ、そうは言うけど、みんなこうしてわざわざ駆けつけてくれるってのは、すごいことなんだよ。みんながじいちゃんのことを心配してるんだよ。何でそこんとこわからないんだよ。こんなふうにみんなが来てくれるのを、もっとありがたいと思ったほうがいいよ。」
父は私の言葉に一瞬口をつぐむ。私には一目置いているのである。今こそチャンスとばかりに倫子が言う。
「そうらよ、兄ちゃんの言うとおりらよ。みんな忙しいのに心配でこうやって来てるがあすけさ、もっと人の言うこと聞いたほうがいいよ。」
普段は寡黙な義弘叔父も加勢する。
「お前さ、今残ってる兄弟は俺と千葉の康弘だけらねかて。それをよく考えれて。お前が人の言うこと聞かねえで死んだら、もう兄弟は二人しか残らんがあれ。そこんとこよく考えて、ちゃんと医者の言うこと聞かんきゃダメらねかて。」
父は義弘叔父の言葉にうたれたのか、急にしゅんとなって、
「俺はどうしたらいいがいや。」
と、オイオイ泣き出し始めた。私は父が可愛そうになった。私は言った。
「じいちゃん、まずは先生の言うことをよく聞くことだよ。そうすりゃ、いずれよくなるから。よくなったらばあちゃんの見舞いにも行けるじゃないか。」
父は声を上げて泣く。私はさらに念を押すように言った。
「じいちゃんが心配でみんながこうして集まってくれてるんじゃないか、幸せ者だよ、じいちゃんは。」
「そうらなあ、俺は幸せ者らいなあ。みんなが来てくれるがあすけなあ。」
父は泣きながらこう言うのだった。
一同が暗い気分に沈む中、病室の入り口からから年輩の看護婦さんが顔を出し、手招きして私を呼んだ。廊下に出て話を聞くと、明日の午後先生のほうから診断結果の説明があるから病院に来てほしいとのこと。ああ、明日も休みを取らなければならないのか。ようやく一息ついたと思ったのに介護生活の再開だ。平穏な日々は長くは続かないものだ。私は再び憂鬱な気分になった。そんな私に追い討ちをかけるかのごとく、看護婦さんは言う。
「それで大変申し訳ないんですけど、今晩どなたか付き添いの方を・・・」
その夜私は再び病院の簡易ベッドに横たわった。もう慣れたもので、このベッドの快適な寝つき方を十分心得ていたつもりだった。しかし今回はほとんど眠れなかった。夜中にいつ父が起き上がってベッドを抜け出しやしないか心配でならなかったからだ。ちょっとウトウトしかけたと思うと、すぐに父はむくっり起き上がって、寝苦しいのだろう、酸素マスクをはずそうとする。そのつど私はマスクをはずさないよう注意する。時にベッドを降りようとするので、どこへ行くのかと問うと、「便所らいや」と言う。仕方なく看護婦さんを呼んでマスクをはずしてもらう。まさかこんな夜が延々と続くのではないだろうな・・・。そう思うと憂鬱でいたたまれなくなる。目の前が真っ暗になる(真夜中だからではない)。
翌朝父を看護婦さんに任せ、赤く腫らした目をこすりこすりいったん家に戻る。倫子夫婦は昨夜のうちに福島へ帰っていたから母だけしかいない。ほとんど眠れなかった昨夜の状況を報告すると、母は眉をしかめてこう言った。
「そりゃあ困ったねえ、どうしたらいいろうねえ、これから毎日付き添えなんて言われたら。困ったてぇ。」
まさか母に付き添いを任せるわけには行くまい。病院には、今晩は誰も付き添いできないからヨロシクと言い置いてそのまま東京へ帰ってしまおう。母に余計な心配をさせてはいけない。ストレスで心筋梗塞が再発したら、今度はおそらく生きてはいないだろう。
「病院にはおれの携帯電話伝えてあるから、何かあったらおれのところに連絡があるはずだから心配ないよ。ばあちゃんは、家の電話には絶対に出なくていい。携帯電話にだけ出ていればいいからね。だから携帯はいつも持って出歩くようにしてくれ。」
父と母の生存競争はまだ終戦を向かえたわけではなかった。さしむね私は日中戦争で中国軍に武器等を後方支援する同盟国のドイツのような存在だった。いやいやそんなカッコいいものではない。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とうたっておきながらイラクに兵隊を派遣し、イラクの復興のためと称してアメリカ軍を後方支援するわが日本国に近いのかもしれない。
母はすべてを心得ていた。そして、戦闘に直接加わることなく、後方支援する日本のような私に対して深い感謝感激の念を送るのだった。しかしさすがに母は女であった。私がすっかり見落としているさまざまな現実を実に冷静に見ていた。母は言った。
「オヤジがこんげんなって、『天使の庭』のほうはどうなるがあろうね。」
そうだ、そのことをすっかり忘れていた。
『天使の庭』とはすでに契約を済ませていた。母は父の預金通帳から五百万円を引き出し指定口座に振り込んだ。父の預金通帳はすべて母に握られていたのである。認知症と判断されたその日から母は父から預金通帳を召し上げ、管財人として振舞っていたのだ。これじゃあ戦争になんか勝てるわけないじゃないか。すでに勝敗の決した戦争なんだ。太平洋戦争か、これは?
「今日の午後先生から説明があるから、それを聞いたらおれから『天使の庭』に連絡しておくよ。すぐ出てこれるようだったらそのまま戻れると思うよ。まあ家賃払った分だけちょっと損だけどね。」
私がそう言うと母はぼそりとこう言った。
「アタシゃ、今回の入院でオヤジはもう出て来ねえんじゃねえかと思うて。」
軽く仮眠を取ってその日午後一番で母を連れて病院へ行く。先生からの病状説明の前に父を見舞おうと何度も母を誘ったものの、母は病室にはまったく近づこうとしなかった。理由は「里心がつくとまずいから」だ。やむなく母を待合室に待たせて父の病室に行くと、すでに義弘叔父が見舞いに来ていた。父はベッドの上に起き上がってうつろな目でテレビを見ていた。ペイテレビのカードは義弘叔父が買ってくれたものらしい。酸素マスクが昨日のものと変わっていた。口全体を覆うマスク型ではなく、鼻の穴に二本、酸素口があって、チューブを両耳にはさんでかけるタイプのやつである。前のに比べるとこれなら多少楽だろうと思われた。それ以外に目を引いたのはベッドの下のベージュ色のマットである。ビニール製の奇妙なマットで、ちょうどベッドを降りたところに敷かれており、下からは電気コードが延びていた。看護婦さんにこれが何か聞いたところ、酸素マスクを勝手にはずして出歩かないよう、ベッドを降りた所にこれを敷いて、これが踏まれるとナースステーションにアラームが出る仕組みになっているとのこと。今はアラームの電源を切っているからマットを踏んでも大丈夫だが、夜中に電源を入れたら間違って踏まないよう気をつけてくれ、と言われた。世の中にはずいぶん便利な道具があるものだ。
父は私の顔を見るなり、
「陵、タバコくれいや。」
と病人らしからぬ要求をする。義弘叔父はタバコを吸わないので、父は私が来るのをずっと待っていたのかもしれない。やはり自分がどういう状態に置かれているのかわかっていない。「そんな体でタバコなど吸っていいわけないじゃないか」と叱りつけてとくと言い聞かせてやりたいところだが、そこはさすがに父の扱いにはすっかり慣れた私である。
「じいちゃん、健康によくないからタバコはやめたほうがいいよ。実を言うと、おれもうタバコやめたんだ。」
真っ赤なウソである。しかし父は目を丸くして私を見、口を尖らせて、
「ホントらか、タバコやめたがあか?」
と驚く。
「ああ、もう半年になるよ。」
これも大ウソだが、父はウソだなんて思ってもいない。だいたいつい最近『天使の庭』のエントランス前で一緒にタバコを吸っているのにすっかり忘れている。このウソは父が認知症であるからこそつけるウソで、これは父にタバコを吸わせないための新たな作戦なのである。名付けて《おれも禁煙したんだからじいちゃんもやれ作戦》。
さて、今度の担当の先生はずいぶん若い。一年前に転んで頭を打ったときに担当してくれた脳外科の若ハゲ先生、いたずらっ子のような表情と長岡弁丸出しのしゃべり方に親しみが持てるあの先生とも、母の心筋梗塞を診断した心臓外科の先生、いかにもマジメなエリート然としているがちょっと口臭のきついあの先生とも、まったく違うタイプの先生だ。医者と言うよりも、まだ合コンに誘われてもおかしくないサラリーマン新入社員といった風情があり、このテのタイプが合コンに行くと、だいたいエリート君だと言うだけでモテてしまう。そんな感じの先生だ。さほどイケメンというわけでも、背が高いわけでも、話がやたら面白いというわけでも、カラオケがものすごくうまいというわけでも何でもないのに、モテて当然と思っている医学部の学生に雰囲気が近く、それなりに遊んでいるようにも見える。
この合コン先生だが、机ひとつ置いてあるだけの殺風景な相談室に私と母と義弘叔父を通し、淡々と父の病状について説明をし始めた。先生の話はこうだ。
父の呼吸困難はおそらく肺気腫によるものであろう。「おそらく」というのは、まだ詳しく検査したわけではないのではっきりとした診断を下せないからだが、いずれにせよレントゲン写真と症状から推察するに、肺気腫を患っていると思われる。癌ということも考えられるが、いまの段階では断定できない。仮に腫瘍があったとしても、どこにあるのか部位を特定できない以上、措置のしようがない。部位を特定するためには放射線を使った特殊な検査をする必要があるが、機材、薬品ともに今日明日中に手配はできない。カテーテルを入れる方法もあるが、高齢であること、そして認知症であることを考慮すると、危険性が高いのでやらないほうがいい。また、足のむくみ方が尋常でないのは、腹に水がたまっているためであろう。この症状は腎不全と思われる。場合によったら人工透析の必要があるかもしれない。すべて糖尿病に端を発しているものいであろう。
「カルテを拝見させていただきましたが、前に脳梗塞や高血圧症などを併発されていますね。糖尿病は以前より悪化していますし、タバコもまだお吸いになっているようですね。いまや体中病気の塊みたいなものです。まさに成人病のデパートといったところです。」
合コン先生は若ハゲ先生やインテリ口臭先生のように図に描いて説明しはしなかったが、非常にわかりやすく説明してくれた。見かけによらず頼もしい話しぶりである。
「いずれにしても、癌検査と腎検査含めて、詳細な検査は来週させていただきます。診断と処方はそれ以降になります。その際改めてご説明しますので、ご連絡をお待ちください。」
暗澹たる気持ちで義弘叔父と病室に戻ると、父は上体を起こし、うつむき加減になって、何やら一生懸命手元をいじりまわしていた。目は手元の物体一点に集中しており、時折不思議そうな表情で指先を見つめた。父の手元の物体は、強烈な赤い光を発していた。それは小さな赤い豆電球であった。父は指先に巻かれた包帯を自分で外し、中にある脈拍計測器の先端部をバラバラに分解してしまったのであった。血のような真っ赤な光を鮮やかに発する豆電球。そこから緑と黒のコードとか細い針金が痛々しそうにむき出しにされていた。これは一大事だ。私は急いで看護婦さんを呼んだ。かけつけた年輩の看護婦さんは思いっきり顔をしかめ、
「まあ大変!あなた、これ壊しちゃったわね!まあ、まあ、どうしましょう。ダメよ、こんなことしちゃ!」
と父をしかりつけた。すまなそうな顔をする父。看護婦さんは本気で怒っている。
「この機械、高いものなんですからね!今度やったら弁償してもらいますからね!」
看護婦さんの強い言葉の調子に自分も一緒に叱られているように思え、私は恐縮した。
義弘叔父はこの一件をこう分析した。
「白い包帯の先から赤い光がちょっともれてたすけ、タバコと間違えて吸おうとしたがあねえろかね。」
その週の金曜日、私の携帯にまたも突然の電話が入った。携帯には「N病院」との表示がある。見たとたん一気に憂鬱になる。このまま出ないでおこうかとも思うが、そうもいかない。しぶしぶ電話に出る。年輩らしき看護婦さんの声がする。看護婦さんは言う。父の精密検査の日取りが来週の水曜日に決まった、その翌日木曜には診断結果が出るので、先生のほうからご説明をしたい、ついては来週木曜ないし金曜にお越し願えないだろうか・・・。冗談じゃない、またもや平日じゃないか。
「すみません、来週の土曜日になりませんか。」
そう言ったが、どうやら合コン先生の都合が悪いらしい。やむなく来週金曜の午後で承諾する。看護婦さんは「ああ、よかった」と喜ぶ。そして、畳み掛けるようにこう聞いてくる。
「今週末はお来しになりませんか?」
「今週はちょっとカンベンしてください、家のほうも忙しいので。」
「そうですか。」
それからちょっと沈黙があって、
「あの、たいへん言いにくいことなんですけど、今週末どなたか付き添いできる方はいらっしゃいませんでしょうか。」
ああ、また出た。付き添いのお願いだ。もう決まり文句だ。病院からの電話の何がイヤだといって、付き添いのお願いくらいイヤなものはない。私はやや腹立ち紛れに言う。
「そんな、毎週のように付き添いなんて、できませんよ!夜勤の看護婦さんがいるんだから、私らが行く必要ないじゃないですか。」
「大事なお身内の方の付き添いですよ、ましてや親御さんじゃないですか。家の方がいらした方が患者さんも安心というものです。」
確かにその通りなのだ。父が大事ではないことは、決してないのだ。看護婦さんは至極当たり前のことを言っているのだ。世の中の常識を語っているのだ。親を大事にしない者は親不孝者なのである。看護婦さん、私を親不孝者となじっているのか。常識のない人間だと非難しているのか。そんなことを考えると余計頭にくる。つい怒りの口調になってしまう。
「私はとにかく行けませんよ!だいたい何で付き添う必要があるんです?夜勤の看護婦さんではダメなんですか?」
「いえ、決してできないというわけではありません。ただ、他の患者さんもおられまして、看護婦もずっとつきっきりでお見守りするわけにはいきませんので。なにぶんにもお父様は認知症でいらっしゃるので、夜中に看護婦が気づかないうちにベッドを抜け出して院内を徘徊でもされて、何か事故があったら大変ですので。」
「そりゃあ、そちらの都合じゃないですか。だいたいオヤジはちょっと動くとすぐ息切れしてしまうから、夜中にベッドを抜け出しても徘徊なんてできないですよ。看護婦さん達で十分面倒見れるはずですよ。」
「こちらも努力はしております。しかし万が一と言うことがありますので・・・。事故か何かあったらこちらでは責任を負えません。」
「いいんですよ、責任なんて負わなくても!」
「そんな・・・。何かあってお父様がどうなってもいいんですか?」
「何もありませんよ、事故なんて、ゼッタイ!」
「そうですか。では、息子さんがダメでしたら、奥様に付き添いをお願いするわけには行きませんでしょうか?」
言いようのない怒りがこみ上げて来、声が震えはじめる。そして爆発する。声が荒ぐ。
「何を言ってるんですか!オフクロはこの間心筋梗塞でオタクに入院して、この間やっと退院したばかりじゃないですか!担当の先生からはしばらくは安静にしてるようにって言われてるんですよ。これでまた付き添いなんかやって、ストレスでまた心筋梗塞になるかもしれないじゃないですか!今度やったら命の保障はできないって先生にも言われてるんですよ!そんな病人に付き添いをさせるんですか!それでオフクロが死んだら、病院が殺したのと一緒ですよ!人殺しをするんですか、オタクの病院は!」
周りで私の電話を聞くともなしに聞いていた会社の同僚達が、何事かと思ってチラチラ見やる。それが気に入らない。怒りは収まらない。
看護婦さんとさんざん押し問答を繰り返した末にようやく見つけた落としどころはこうだ。まず私は今週末は絶対に病院には行かない、付き添いは、母以外の誰かに行ってもらうよう私が手配する。結局、私がやらないにしても、付き添い自体はやらざるを得なくなったのだから、看護婦さんの粘り勝ちだったのかもしれない。私は倫子に今週末の付き添いをお願いし、倫子はしぶしぶ引き受けたのだった。
精密検査の結果説明の当日、私は母を連れて病院へ行った。すでに義弘叔父が来ていた。母は相変わらず父を見舞おうとしなかった。
合コン先生の前回の診断説明を聞いてから約十日たったわけだが、その間に父はまるきり別の人間になってしまった。そこにいるのはもはや私の父ではなかった。あのYの施設の老人達とまったく同じ種類の老人、彼らに混じって遜色ない老人であった。灰色に変色した栄養が足りなそうな髪はところどころ抜け落ち、まるで中越大地震で木々が崩れ落ちて地肌がむき出しになったあの越後の山々のように、薄肌色の肌が覗いていた。頬はゲッソリとこけ、口は開いたまま閉じることはなかった。目は転んで入院したときのあの赤ん坊の目、クリクリっとした純心無垢な子供の目、一点の濁りもないガラス玉のようなあの目に戻っていた。
わずか十日前後の間、病院で絶対安静の療養体制に置かれるだけで、ここまで人間は変わってしまうものなのだろうか。ひょっとしたら病院というところは患部として認定した身体の一部を治療するために、身体の他の部分あるいは身体全部を犠牲にするしているのかもしれない。父の場合、呼吸器と腎臓は多少直ったかもしれないが、その分頭のほうが悪くなったのではないか。そんな風に疑いたくなるほど父の変わり様はすさまじかった。いや、病院のせいにしてはいけないのだ。だって父と同じように入院しても父ほど老け込み方が激しくならない人だっているのだから。父が急に老け込んだのはやはり父自身に原因があるといわざるを得ないだろう。今回の入院によって、父は生きる意欲を完全に失ってしまったのだ。『天使の庭』で暮らしていたときは若い女性に囲まれて心地よい刺激として脳にインプットされた欲望が記憶機能と結びつき、それが生きる意欲、生甲斐を生み出していたのにちがいない。今の入院生活のように、動くことも許されず、均質の白い空間の中で同じような毎日を過ごすようになって、生きることへの欲望そのものが認知症によって忘却の彼方に遠ざかってしまったのかもしれない。老いというのは、やっぱり生甲斐をなくすことから来るのにちがいない。生甲斐を失って何もすることがない、テレビを見ることと食事を摂ること以外に何の楽しみもない、そんな毎日の入院生活は、父を老いた人間から「老い」そのものへと変貌させたのであった。生きる意欲を失うということ、それはまるで流れ来る大きな濁流をかろうじて堰き止めていた泥の堤防が、もはや自らの存在意義を見失って自ら崩れ落ち、濁流に飲み込まれて、跡形もなく消え失せていくようなものである。生きる意欲は変化の濁流を懸命に堰き止め、時間の重みを必死に支えているのだ。そしてこの支えが刺激となって脳を活性化するのだ。
驚いたことに父は自分の変化にまるっきり気がついていなかった。病室に入って来た私を迎え入れようとベッドから上半身を起こしたとき、ベッドの右脇の洗面所の鏡に自分の姿が写った。その鏡の中の自分に父は「ごきげんようございますねえ」と頭をペコリと下げたのだった。
「じいちゃん、誰にあいさつしてるんだい?それ、鏡だよ」
私が笑ってそう言うと、鏡の中の人が自分であることに気づいたのか、あるいは気づかなかったのか定かでないが、父は鏡の中の人が自分とまったく同じ動きをするのをさも不思議そうに眺めていていた。
白衣のボタンをはずした合コン先生が颯爽と部屋に入ってきた。私達、私と母と義弘叔父は、先週合コン先生から一次診断説明を受けたのと同じ相談室にいた。私達の姿を見て先生は軽く会釈した。早速精密検査の結果を問う。先生は言った。
「実は精密検査はできませんでした。」
私達は唖然とした。理由を問うと「危険すぎるから」と答えが返ってきた。
「精密検査は体力的なものも伴います。人間ドックを受診されたことはありますか? それなりに疲れるでしょう? あれと同じです。」
そりゃあ何本も注射を打たれて、胃カメラだの内視鏡だのといろんな器具を体の中に突っ込まれれば疲れるに決まっている。先生の言う精密検査というのは、どうやらこれくらいのレベルのものらしい。検査ができないということになると、いったい父は、そして私達はどうしたらいいのだろうか。率直に先生に聞いてみた。
「もはや手の打ちようがない状態なのです。今できるのは、投薬による療法と酸素マスクを付けていただくこと以外にありません。」
はっきり言ってしまおう。合コン先生は、もはや何をやっても快復する見込みはない、寿命だ限界だと言っているのだ。父は、いわゆる「医者も匙を投げた」状態にあるのだ。追い打ちをかけるように、合コン先生は言う。
「酸素マスクをつけていてもすべて安心と言うわけではありません。おそらく心肺機能が今以上に良くなることはないでしょう。むしろ悪化する方のが確率が高い。最悪の場合、呼吸が薄れていって、そのまま停止してしまうでしょう。」
「それじゃ父はこれからずっと酸素マスクをして生活しなければならないんですか?」
「そのとおりです。」
「でもあんな状態じゃマスクなんてすぐはずしてしまいますよ、手足を縛ってでもおかなきゃ。」
「手足を縛るのは拘束医療に当たりますので、法的にやれません。」
「じゃどうやってマスクをつけさせるんですか?」
「ご自身でマスクをつけておいていただく以外にないのです。マスクをはずすと危険であることに変わりはありませんから。」
見かけによらず、慎重この上ない先生である。先生は続けてこんなことを言った。
「まあ人工呼吸器をつければ、呼吸が停止することはありませんから、最悪の事態だけは免れますけどね。」
「人工呼吸器?」
私と母は声を見合わせた。
「ええ、機械を使って、人工的に気管から直接肺に空気を送り込むのです。これならば呼吸が停止することは絶対にありません。ただし、これをいったん取り付けたら、患者本人の意思がない限りは誰にもはずすことはできません。これは法律で定められたことなのです。」
また法律か。固いな〜、合コン先生。
「とはいえ、長沢さんの場合は酸素マスク同様、勝手に呼吸器も外してしまうでしょう。」
「それじゃ、おんなじじゃないですか。縛ることもはずすこともできないんじゃ、いったいどうしたらいいんですか。」
「ずっと眠っていていただく以外方法はありません。」
ずっと眠っているだって?漢字にすると「永眠」じゃないか。つまり死んでるってことだ。でも呼吸してるんだから生きているということになるわけで。私と母は目を合わせた。お互い考えていることは同じだった。その考えを先に口に出したのは母のほうだった。
「それは植物人間になる、ということですか?」
「そういうことになります。」
先生は迷うことなく言い切った。私達は再び目を合わせた。
植物人間・・・何と言う嫌な響きだろう。少なくともこの言葉は私が子供の頃にはなかった。もし子供の頃この言葉を聞いていたら、仮面ライダーの怪人かウルトラマンの宇宙星人を想像していたことだろう。子供から思春期を過ぎ大人になって今に至るまでの、それなりに長い年月を経る間に医療の技術はぐんと進み、ついに植物人間を生み出すまでに至ったのに違いない。脳死という問題は一昔前にはずいぶん議論になった。そもそも脳死という言葉もまた妙な言葉だ。脳だけが死んでいて他が生きているから脳死というのだろうが、そもそも脳が死んでたら、人間生きていないんじゃないのか? そもそも人の死というのは、何をもって死と定義するのだ? 脳は死んでいてもほかの部分が全部生きていれば死ではないということなのか。そこまで発達した医療技術、脳が死んでいてもほかの部分を生かす医療技術、その一部が合コン先生の言う人工呼吸器なのだろう。人工呼吸器があるくらいだから、勝手な想像をさせてもらうと、ほかにもきっと人工心臓作動器だの人工消化器官動作器だの人工排泄器だのといった技術があるのではないか。もしかして人工生殖器なんてのもあって・・・・、ん?人工生殖器?それに近いものは、ずいぶん前から世の中にあるな。病気の人じゃなくてむしろ正常な人(?)が大いに利用している。俗に『オトナの玩具』っていう、そう、あれだ。南極一号だの張形だの、いろんなやつがある。まあ、これを使ったからといって生殖できるわけではないから、医療技術ではないし、正確には人工生殖器ではないが。弁解するわけでないけれど、私は使ったことはない。
おっと話が変な方向に行ってしまった。
脳が死んでいながらも生命活動を維持する医療技術の話だった。そんなもの、一体なんの役に立つというのだろう?手足を動かすことはなく、話すこともせず、笑いも泣きもしないが、呼吸をし、栄養を摂り排泄するといった生命活動を機能がある限り人は死んでいない、という考え方。そんな考え方が世の中にあっていいのか?母と私が目を合わせたとき、お互いの心の中にあった気持ちはこんな感じだった。私達の気持ちは決まっていた。しかしそれを私のほうから言い出すことはできなかった。私にはそんな権利はないのだ。なぜなら、父は血を分けた私の親であるから。今や父の生死は私達の手に委ねられているのだが、私が思っていることを先に口に出したとたん、私は親殺しの烙印を押されるのである。私は母と目をあわせながら、一言も発することができなかった。母はそんな私の気持ちを汲み取ってくれたようだった。私達がお互いに思っている気持ちを、母のほうから先に口に出した。
「そこまでして生かさんでもいいろう。どんげんバカになっても頭がおかしくても、ワガママでどうしょうもない人間であっても、普段動き回ってなんかしゃべったり、ご飯食べてうまいと言ったり、テレビ見て笑ったり泣いたりしてるうちは、まだ人間らねかて。ウンともスンとも言わねえでただ眠ってるだけらきゃ、それは人間じゃあねえやね。」
母の声が涙をこらえているように聞こえたのは私の気のせいだったのだろうか。いずれにせよ私は母の言葉に「そうだな」と全面的にあいずちを打ったが、そのときこんなことを考えていた。脳が死んでいても生命活動を維持する医療技術、それはあっていいのだ、むしろ必要な医療技術なのだ。それを必要とする人がいるからこそ、そのような医療技術が生まれたのである。この技術の登場によって脳死も植物人間も問題としてクローズアップされただけであって、本来的に医療技術として必要な措置であることは変わらないのである。そんな必要な医療技術を受けている人はたとえ植物人間であっても「患者さん」なのだ、病気に苦しむ人間なのだ、立派に生きているのだ。仮に植物人間となるのが父ではなく私の子供であったとしたら、私はどうするだろう。迷うことなく生き続けてもらうほうを選ぶだろう。植物人間となってもだ。
私達は、仮に人工呼吸器をつけざるを得ない事態になってもそこまでする必要はない、延命治療は不必要、との決定を下した。合コン先生にそれを告げると、先生は事務的に「わかりました」と言うだけだった。私達のこの決定は戦勝国による軍事裁判の判決と同じだ。連合国による極東裁判だ。生存競争という戦争に勝利した母は父の生殺与奪の権利を握り、父を裁いたのだ。
そのとき私は急に義弘叔父の視線が気になった。義弘叔父は先ほどから私達の会話を黙って脇で聞いているだけで、横から一切口を挟まなかった。義弘叔父は普段から寡黙な人ではあるが、根は陽気な人で、ここぞという時にはしっかり自分の意見を主張する人であった。しかもその意見は健全な常識に裏打ちされていたものだったので、父母はもちろん、私にとっても頼りがいのある相談役といった役どころの人だった。その義弘叔父がこのような重大な私達の決定に対して黙って脇で見ているだけで、一言も意見を発しないのだ。私にはそれが気になってならない。義弘叔父の沈黙が無言の圧力となった感じられてならない。義弘叔父の視線は私達にこんなことを告げているように思われた。
<お前の父親はお前にとって父親であると同時におれにとっては今やわずかに存命する血を分けた兄弟なのだぞ。お前のやっていることはおれの兄弟を殺すことなのだ。そこのところをお前達は理解しているのだろうな。とはいえお前達にも生活があるだろうからこのまま生きていてもらうのは困るし元気になってもらっても困るという事情はよくわかる。やむを得ないとおれも思う。おれがお前達の立場であっても同じ事をするだろう。しかしおれはまた一人この世から兄弟を失うのだぞ。だが今さらそれを言って何になる。生きることのほうがはるかに重要だ。だからおれは何もあえて口を出さないのだ。だがお前達の決めたことは人殺しと同じだと言うことをよくわきまえておくように。殺される人間の兄弟としてはお前達の事情を察するゆえにお前達を許すことにする。>
押し黙ったままの義弘叔父の眼鏡の奥から、かすかな悲しみの光が漏れているように思えた。
合コン先生の説明が一通り終わった。先生は言った。
「それでは当面のことについてお話し合いをしましょうか。今日、向こうのお部屋にいま長沢さんがお入りになっている介護施設の責任者の方に来ていただいていますので、相談してみてください。今ご説明したことは、すでに先方の方には大まかに伝えてあります。」
『天使の庭』から来ていたのは谷崎さんではなくマネージャーの××さんだった。××さんはナースステーションの奥の小部屋で、机の隅のほうにちょこんと座り、まるでようやくアポをもらえたキーマンを緊張して待つ営業マンといった面持ちで私達の入室を待っていた。私達が小部屋に入るとすっくと起立し、背筋を伸ばしたまま一礼する。先に立った合コン先生が、
「遅くなりました、今ご家族の方にはご事情を説明しました。」
と言って××さんの対面に座る。一同も座る。
私は××さんの左隣に座り、母は私の左に座った。義弘叔父は母の対面、合コン先生との間に席を一つ空けて座った。折りたたみ椅子を引く金属音がおさまると、××さんは座ったままで私に名刺を差し出した。私は横を向いて、こう切り出した。
「先生から聞きましたが、父はこれから一生酸素マスクを付けて暮らさなければならないのです。そんな状態でも『天使の庭』で預かっていただけるのでしょうか?」
××さんは神妙な表情で答えた。
「結論から申し上げますと、お預かりすることはできません。」
頭の中が一瞬真っ白になった。××さんは続けた。
「せっかくご入居いただいてさあこれから第二の人生を楽しんでいただこうという矢先に、大変申し上げにくいのですが、何分にも当施設は介護療養施設でして、医療施設ではごさいませんので医療行為が認められていないのです。」
「医療行為? 酸素マスクを付けて生活するだけなのにそれが医療行為になるんですか?」
「はい、りっばな医療行為です。」
「でも自宅で酸素マスク付けて生活してる人もいるって聞きましたよ。それと同じじゃないんですか?」
「ご自宅でやられる行為は法律で禁じられているわけではありませんから、何でもできます。」
なるほど。カゼひいて家で寝込むのは医療行為ではないが、入院して寝込めばそれは立派な医療行為になる。それと同じだ。××さんは、さもすまなそうに話を続ける。
「お父様はとても明るく気さくな方で、谷崎をはじめ、職員には大変ご親切にしていたたきました。ほかの入居者の方々とも仲良くなられまして、毎日のようにお部屋を行き来されていました。会合でも積極的に皆さんを笑わせてくれて、こちらとしましてはぜひこのままご入居いただきたいのはやまやまなのですが、何分にも医療行為ができませんので、ご退居いただくほかはありません。」
「そこを何とか面倒見ていただくわけには行かないのですか?」
私は食い下がるが、××さんは頑として受け付けてくれない。私も母もあきらめざるを得なかった。××さんは言った。
「ご契約金ですが、ご入居いただいた期間が一ヶ月以内ですので、契約書記載の通り全額を払い戻しさせていただきます。月々の介護料につきましては日割り計算というわけには行きませんので一か月分だけ頂戴いたします。」
たとえ五百万が一千万になってもいい、何とか父を引き取ってくれないだろうか、そんな思いで私達は××さんの言葉を受け入れた。
すべては振り出しに戻ってしまった。こうなってしまった今、父は単なる介護老人ではなくなっていたから、父の面倒を見れる施設は病院以外になかった。とはいえ単なる病人でもない、介護付き病人なのだから、介護を行うことができ、さらに医療行為も行なえるような病院を探さなければならない。しかし世の中にそんな都合のいい病院ありゃしない。じゃあどうするのだ? こんなになってしまった父をいったいどこの誰が面倒見てくれるというのだ? ××さんが帰った後、私達はすがりつくような思いで合コン先生に相談したのであった。合コン先生は言った。
「拘束医療が認められている病院で療養してもらう以外ないですね。」
「どんな病院なんですか?」
藁をもつかむ思いで必死に先生の次の言葉を待つ私達。合コン先生は至って冷静な口調で言った。
「精神病院です。」
合コン先生が紹介した精神病院は、長岡のはずれ、海に近いMの町にあった。三階建ての病院で、周囲は常緑樹の生垣で囲まれ、広い中庭には小石が敷き詰められていた。車が敷地内に入ると、タイヤに踏み潰された砂利がジョリジョリときしみ、窮屈そうな音を上げた。受付で用件を告げ、待合室で呼び出しを待つ。この病院は精神科だけでなく内科もある。内科はそれなりに流行っているらしく、待合室に順番を待つ外来患者が数多くいた。
このときは私と母と、そして倫子夫婦が一緒だった。前の日、何日かぶりで父を見舞った倫子は、父のあまりの変貌ぶりに愕然とし、泣いた。可動式ベッドに座って背中を曲げ、開いたまま閉じない口からは涎を垂らして、うつろな目でテレビに見入る老人、それがよもや自分の父親だとは、倫子はにわかには信じられなかった。ここまで現実を目の前に突きつけられて、倫子には泣くことくらいしかできなかった。父はもはや倫子の前で封建主義から来る威厳を振りかざそうとさえしなかった。そんな父は、倫子にとってもすでに父ではなくなっていたのだった。倫子はM病院へ向かう車の中で私にこう言った。
「昨日オヤジ見たけど、あんげんなったオヤジ、あたしは見たくなかったて。あのガンコ者のオヤジがあんげん哀れなジジイになってさ、あれが自分の親らと思うとアタシは涙が止まらんかったて。」
とは言うものの、合コン先生の診断結果に対する倫子の意見は私達とまったく同じであった。倫子もやはり延命治療を望んでいなかった。
待合室で順番を待つ患者はほとんどが地元の人だった。農作業用の野良着に、一昔前のオレンジ色の農協マークが刺繍された紺の帽子を被って、熱でもあるのか赤い顔してぼうっとした目つきで空を見上げるオジサンがいる。鼻水をズルズルと音を立ててすする泥だらけの割烹着姿のオバサンがいる。薄汚いTシャツに下はジャージという妙な取り合わせの中年男がいる。いずれも農作業の合間に外来に来ている地元の人たちだろう。長岡の街中から来た私達はこの中でちょっと浮いている。
それにしても結構待たせる。どのくらいの時間が経ったのだろう。倫子はかなり疲れているらしくソファにもたれうとうとと居眠りをし始めた。私もいい加減週刊誌に飽きてきた。ようやく名前を呼ばれ、倫子が眼を覚ます。一同、緊張の面持ちで立ち上がる。度ぎつい黒ぶち眼鏡をかけた化粧の濃い年輩の看護婦さんが待合室に入って来る。看護婦さんは紙の挟まったピンク色のプラスチック板を手に私達をキョロキョロ見回して言う。
「長沢さんですか? どうぞこちらへ。」
看護婦さんの後をいそいそとついていくと、事務机と回転椅子があるだけの殺風景な小部屋に通される。看護婦さんが抱えていた紙に、指示されるがまま必要事項を記入する。初診の際に問われるようなごくありきたりの事柄を記入する。合コン先生からすでに連絡が行ってるのではないか、何で今さらこんな紙に、などと訝しく思いながらも指示に従って「はい」「いいえ」の欄に丸印をつけていく。わからぬところはいい加減に記す。先ほどの看護婦さんが「書き終わりましたか?」と言って、いったんプラスチック板を取りに来、またせかせかと出て行ってしまった。部屋に戻ってきた看護婦さん、
「じゃあ長沢さん、こちらのお部屋へお越しください。」
と、また別の部屋に私達を通す。なんだ、この部屋で先生とお話するんじゃないのか。
改めて通された部屋は、先ほどの殺風景な小部屋とはうって変わった壮麗な応接室であった。応接室の真ん中にはヒノキか何かの木目調テーブルが置かれ、周りを高価そうなふかふかのソファセットが囲んでいた。木製テーブルの上には白い花柄刺繍のクロスが敷かれ、その上に可愛らしい黄色い小花を生けた花瓶と厚手のガラス灰皿、シガレットケースが小奇麗に置かれていた。壁を見回すと、額縁に入れられた医師会の感謝状やらドイツ語で書かれた表彰状らしきものがズラリ並べかけられている。中には写真入の賞状もあって、ヒゲ面の外国人と一緒に賞状を見せながらニッコリ微笑んで写っている銀縁眼鏡の初老の日本人が写っている。これがおそらくここの院長先生なのだろう。
先ほどの看護婦さんがお茶を入れに来た。蓋のついたお茶が茶卓に乗せられて運ばれて来る。
「すぐに先生がいらっしゃいますから、いましばらくお待ちくださいね。」
そう言って看護婦さんはお盆片手にちょこんとお辞儀をして、そそくさと部屋を出る。
ノックの音がして白衣を着た初老の紳士が現れた。賞状の写真の人だ。写真よりも若干白髪が増えている。
「どうもどうも、大変お待たせしまして。」
先生は明るい表情でこの病院の院長だと自己紹介し、ソファに座った。両手の指を組み合わせ、立てた肘を膝に乗せて、前のめりになって話し始める。左の薬指には銀の指輪が光っている。
「お話はN病院の先生からうかがっております。だいぶ深刻なご様子ですね。」
それなら話は早い。すぐにでも入院させたいのだが、いつごろ入院できるかと問うと、先生は銀縁眼鏡の向こうから私の目をじっと見つめて言った。
「その前に、ここが精神科の病院であることはすでにご存知ですね?」
「十分承知しております。」
「それでは精神科というものがどのようなものであるかはご存知ですか?」
改めてそう言われてみれば、精神科というものがいったいどのような所であるか、実のところはっきりわかっていない。だいたい先生の言う「どういうもの」というのが何を指すのかよくわからないから素直に聞く。
「どのようなもの、というと?」
「具体的にどのような治療をしているのか、ということです。ご存知ですか?」
「いえ、よくわかりません。」
「そうですよね。だいたいみなさん精神病院と聞くと、名前を聞いただけでいろんなことをイメージされて、勝手な想像を思い浮かべる方が多いのですが、さすがに慣れていらっしゃる。」
私が慣れているだって? いったい何に慣れていると言うのだ? 問いただす暇も与えず先生は父の病状について切り出す。先生がはめている金の腕時計に目が行く。どう見てもロレックスだな。
「たしかお父様は老人性の認知症でしたね。老人性の認知症自体は快復はほぼ不可能と考えていいです。アルツハイマー症もまったく同じです。これらの病気は現在の医学では治療は不可能です。治せないのです。抑うつ質やてんかん質といった精神障害ならば投薬等の処方も考えられますが、そういうものとは違う病気です。ここのところはよろしいですね?」
十分理解しているわけではないが、この先生にじっと見つめられながらそう言われると、なんとなくわかった気になってしまう。要するにここに入院したからといって父の認知症が治ることを期待するなということだろう。
「この病院には認知症の方もかなり入っておられます。認知症の場合、症状によって入っていただく病棟を変えています。軽度の症状の方と重度の方とお入りいただく病棟が違うわけです。もしお父様が入院されるならば、軽症の病棟に入っていただくことになります。」
「そうですか。そこでは酸素マスクをつけておいていただけるのでしょうか?」
「問題はそこです。」
先生は銀縁眼鏡の奥から黒真がちな大きな目で私の目をじっと見据えて言う。
「酸素マスクをつけていただくことも可能ですが、おそらくずっとつけておくことはできないでしょう。理由はもうおわかりですよね。」
「ええ、わかります。でも、N病院の先生は酸素マスクをはずさないためには拘束するしかないと言っていました。この病院であれば拘束してでも酸素マスクをつけることができると聞いて先生に紹介されたのですが。そうではないのですか?」
どうも合コン先生からうまく話が引き継がれていないのではないのか。そんなふうに思え、私は確認するように問うた。
「ここなら確かに拘束して治療することはできますヨ。」
なんだ、できるんじゃないか。
「それなら手足を縛ってでも酸素マスクをつけさせておいてください。」
そう言ったとき、院長先生が一瞬笑みを漏らしたように見えた。
「事はそう単純ではありませんよ。これだからシロウトは困る。」
その笑みはこう言っているように思えた。
拘束すること、つまりは患者から自由を奪うということの重大さに対して、私はあまりに鈍感でありすぎたのかもしれない。たとえその拘束が患者を治療するために、あるいは患者の生命を守るために行なわれるものであったとしてもだ。自分が手足を縛られて、猿轡をはめられ、大声を上げることさえできない存在と化したときのことを想像してみたまえ。先生の無言のまなざしは、そんなことを私に訴えているように思えた。私は質問を変えた。
「父のように認知症で酸素マスクをつけろと言われてもはずしてしまう患者さんって、他にもおられるんでしょう?」
「認知症で酸素マスクをされている患者さんは、確かに何人かおられます。ただ、みなさん認知症ですが、拘束まで至った方はおられないのです。」
「どういうことですか? 手足を縛りもしないで酸素マスクをははずさない方法が何かあるのですか?」
「いや、そうではなくて、はずそうにもはずせないんです。ほとんどみなさん寝たきりで、手足の自由も利かないような方ばかりですから。つまり酸素マスクが必要な方は、相当重い認知症の方ばかりなのです。」
「それじゃ、拘束ってどういう時にするんですか?」
「暴れたり喚いたり他の患者さんに危害を加えそうになった時がほとんどですね。老人でそういう方はおられません。」
なるほどそういうことか。確かに認知症で酸素マスクの療養をやっているのは寝たきり老人だけということか。そして精神科が拘束するのは精神病患者によって他の患者に被害が及ぶ場合だけだということか。どうも話が違う。父の場合、寝たきりではなくそれなりに動けるから始末に悪く、それゆえこちらの要望は、手足を縛ってでも動けないようにして絶対酸素マスクを取らないようにしてほしい、ということである。とはいえ、暴れて他の患者に危害を加えることなどあの父からしてまずあり得ない。ガンコでわからずやで封建主義者でカッコつけたがり人間ではあるが、根は善良な人間であって、人様に暴力を振るうようなことは絶対にない。その証拠に、あれだけ普段から怒鳴り散らし続けてきた母に対して、実は結婚してから今に至るまで、一度も手を挙げたことはない。そんな父を拘束していいものだろうか。拘束するということ、それはまさに父の自由を奪ってしまうことだ。これは悪魔のような仕打ちではないのか。私達はそのような状態にされたときの父の気持ちをまったく考慮していなかったのだ。当然のことながら、認知症とはいえ父にもまだ人間の感情がある。ところどころボケはするものの、それなりに会話はできるし、食事をしてうまいと言うこともできた。一人でトイレに行くこともできた。テレビを見て笑うことも怒ることもできた。私達は自分の生活を守ることばかりに意識が行っていて、そのために必死になっており、父がまだ持っているそんな人間としての在り方、人として感じる心にまで思い至る余裕がまったくなかったのである。院長先生はそんな悪魔のような私達の気持ちを見透かしたように、ただ私達を見つめるだけだった。
しばらく座は沈黙した。院長先生が口を開いた。
「もしお父様を拘束するとなると、認知症の一般病棟ではなく精神病棟の方になります。そこならば拘束してでも酸素マスクをつけることができますが、それでいいのですか?」
誰も答えなかった。私は答えることができなかった。あまりに残酷な選択だ。そのとき倫子が口を開いた。
「そこでしかできないならば、そこに入れてください。」
そして母のほうを振り向いて、
「ばあちゃん、いいよね? もうそうするしか方法ねえろ?」
同意を求める倫子に、母は言った。
「そうらね。それ以外に方法がねえきゃあ、そうしてもらうしかねえね。」
そして倫子は院長先生に向き直り、改めてきっぱりと言った。
「他に方法はありません。私達も困っているんです。ぜひここに入れてください。」
すると院長先生は、軽く笑みを浮かべてこう言った。
「一度精神病棟がどんなものか、実際にご覧になってからお決めになったらいかがですか? まずは中を見てください。それから決めても遅くはないでしょう。」
院長先生の受け答えには、まるで悲壮感丸出しで突進してきた格下の力士を軽く受け流して土俵外に出してしまう横綱といった風情が漂っていた。
「他の病棟は普通の病院と同じでお見舞いの方も自由に行き来できますが、精神病棟は許可された人間しか入れません。患者さんはそこに監禁され、私ども職員が責任を持ってしっかり監視いたします。脱走でもされたら困りますからね。」
先生は私達を精神病棟に案内しながらこう言った。私は先生に聞いた。
「脱走しようとする患者さんなんているんですか?」
「これからご案内する階は認知症のご老人しか入院されていませんから、そこで脱走はありませんが、若い患者さんのおられる病棟ではまれにあります。」
脱走を企てた若い患者が身体ごとすっぽり袋詰めにされて手足の自由を奪われ、皮の紐で猿轡されて大声を上げようと必死でもがくが声にすらならない、そんな映画のワンシーンのような映像が頭をよぎった。アメリカ映画でジャック・ニコルソンがそんな患者を演じていた。タイトルはたしか『カッコーの巣の上で』。ここに入院すると、父もあんなふうに拘束されてしまうのだろうか。ここから脱走をしようとした若い患者さんは、もしかしたら父のように我が家に帰りたくてたまらなかったのかもしれない。その悲痛さを想うと胸が痛む。
旧式のエレベーターが二階で停まり、扉が音を立てて開いた。いきなり目の前に厚手の摺りガラスのドアが現れた。通路は四方を壁で囲まれ、狭苦しい。ガラスのドアの右横にはテンキーのような数字の並んだセキュリティボックスが据え付けられていた。先生は首から下げた自分のIDカードをセキュリティボックスに通し、数字を打鍵しながら言った。
「ここから先は別世界になりますから。」
ガラスのドアが音もなく開くと、いきなり私達の目に飛び込んできたのは、青いポリバケツを抱えて走り回る白衣の若い女性の姿だった。女性は私達には目もくれず、せわしそうに前を走り去った。女性の去った向こうから、熱帯ジャングルの奥に潜む珍鳥が鳴きたてるような「ヒィーッヒッヒッヒィ」という甲高い奇声が聞こえた。辺り一帯に異様な臭いが漂っていた。先ほど女性が走り去った方から今度は別の女性が、やはりりポリバケツを両手で抱え、それもいかにも重そうに体を斜めにかしげながらやってきた。前を過ぎる時ポリバケツの中を覗くと、そこには薄黄色に汚れた大量のオムツが入れられていた。バケツを抱えた女性は反対側から来る別の女性とすれ違い様に、何事か声をかけた。声をかけられた女性は白いタオル地の布を片手に、先ほどの女性を振り返りながら何度もうなづき返し、これまた大急ぎで小走りに私達の前を走り去った。映画がドラマの一場面を見ているようだった。あの『天使の庭』が文字通りこの世の至高の楽園だとすると、ここはまさにその対極に位置していた。まだYの施設のほうが人間の生活に近かった。ここはまるで野戦病院だ。
「この時間帯はまだ平和なほうですよ。食後の休憩時間ですからね。」
訳知り顔で先生がそう説明する。首を伸ばして奥のほうを覗き込むが、うまい具合に壁やパーティーションで仕切られていてよく見えない。また奥のほうから奇声が聞こえてくる。
「さ、よろしいですかね。だいたい雰囲気はおわかりいただけたと思います。戻りましょうか。長くいる所じゃない。」
先生は人事先生は他人事のように言い、エレベータに乗り込んだ。
私達は沈鬱な面持ちでM病院を後にした。帰りの車の中では、自然、みんなの口が重くなった。突然倫子が啜り泣きを始めた。
「あんげな精神病院に入らんきゃダメらなんて、じいちゃんがあんまりかわいそうでさ。『天使の庭』にいた時は生き生きしてたがあろ? それがあんげん中に入れられてさ、手足縛られてさ、そんげんがきゃ死んでもらったほうがよっぽど楽らかもしんねえねぇ。」
誰も倫子の言葉に返す人は誰もいなかった。倫子のすすり泣く声だけが聞こえた。隣に座った矢野さんは倫子の肩を抱き寄せた。倫子は矢野さんの胸に顔をうずめた。運転席のルームミラーからそんな二人の姿を見て、私はちょっと恥ずかしくなった。さきほど院長先生に対して最もはっきりと入院させる意思表示をしたのは、いまよよと泣き崩れている倫子ではなかったのか。この涙、果たしてホンモノなのか。倫子の奴、自分をメロドラマの主人公か何かと勘違いしてるんじゃないのか? ・・・おっと、そうだった、倫子の場合、決して勘違いではないのだ。この小説のタイトルどおりなのだ。倫子は自分のこれまでの人生そのものをメロドラマと見立て、自分がその主人公であるとみなしているのだ。だからこのときの涙はホンモノである。もちろんM病院でキッパリと父を入院させるようお願いした倫子もまた、間違いなくホンモノである。
M病院で精神病棟を見た後、私達はいったん応接室に戻り、入院に必要となる書類に必要事項を書いたのだった。その書類の中に拘束医療を実施する際の同意書が含まれていた。
「これを書いていただかないと法的に罰せられます。」
院長先生は言った。いつ入院できるかについて、院長先生は「早ければ一、二週間後、おそくとも一ヶ月後には入れるでしょう。」と言うだけで、確実なことは一切言わなかった。ここもYの施設と同じで空きができるまで入れない状態なのだった。その間、父を今のN病院に入れておく以外、私達には方法がないのであるが、果たしてN病院がそれを許可してくれるかどうか。仮に許可したとしても、またもや「付き添いを・・・」などと言ってくるのは目に見えている。私達の不安は尽きなかった。憂鬱だった。不安と憂鬱は父への罪悪感と入り混じって増すばかりであった。
応接室を出るとき、院長先生は私達にこんなことを言った。
「ここに入院されている患者さんのご家族の方々は、みなさん一様に同じ思いで毎日を暮らしておられますよ。みなさん決して自分の行為を悪くとらないようにしてくださいね。すべて善悪の彼岸でお考えになってください。長沢さんなら十分にできるはずですから。」
このニーチェみたいな言葉は、院長先生からの私達への励ましだったのだろうが、暗に非難しているとも思える妙な言葉で、私は訳がわからず「はあ」とうなづくことしかできなかった。
Mの病院の一件を合コン先生に報告し、とりあえず空きができるまでの間、父をこのままこのN病院に置いてもらうよう私達は再三先生に頼み込んだ。とりあえず了承をもらい、いったん私は東京に戻った。この時みんなタカをくくっていた。すぐにでもM病院は空くだろう、と。病院側も私達も、一ヶ月もすれば空きができるだろうから、ほんの少しの辛抱だと思っていた。しかし事態はそう甘くなかった。三週間がたち、一ヶ月がたってもM病院からは何の音沙汰もなかった。N病院のほうも「まだ連絡ありませんか?」と何度も聞いてくる。空きを願うのは私達だけではなく、看護婦さんたちも同じだったのだ。徐々に父をヤッカイ者扱いにしだしていたのだ。やむなく私のほうからM病院に電話して、まだ入れないかと問うてみたが、何度聞いても「あと一、二週間で空くと思います。」の繰り返しだった。なんだか蕎麦屋の出前のように思えてくる。「まだですか?」「たった今出ました。」
これに追い討ちをかけるかのように、最悪の事態(いや最良か?)が発生した。酸素マスクと投薬療法の効果なのだろう、父の容態が徐々に快復し出したのである。入院した当初はほんのちょっと歩いただけでゼイゼイ息を切らして今にも死にそうだった父が、この頃を境に、急に元気になり出した。ひどかった足の腫れはすっかり引き、膨れ上がっていた腹もおさまって、腹の水もなくなった。そうなると自力でどこへでも歩いて行けるようになるから始末が悪い。それならもう酸素マスクはもう不要かというと決してそうではない。いつ再発するかわからないからしばらくそのままつけておくようにとの合コン先生の指示で、そのままつけなていなければならなかった。やっぱりこの先生、顔に似合わず慎重だ。
さあ大変なことになった。大変なのは患者本人ではない。周りで世話を焼く人々が大変なのだ。病気が快復するということは本来大いに喜ばしいことであり、誰だって健康であることを望まない者はない。しかし今の父くらい快復を望まれていない人はなかった。それにしてもあれだけひどかった症状がここまで回復したのだから、この病院の措置はきわめて正しかったということがわかる。医療技術の高さも十分に証明している。さすがN病院、病院はこれを誇りに感じてくれていい。医者というのは本当にたいしたものだ。私達としても感謝の言葉もない。しかしこと父に限っては、決してそうではなかった。病院は自分で自分の首を絞めてしまったのだ。労苦のタネを自ら撒き、自ら育ててしまったのだ。そして私達は、父の快復を喜んでいいのか、あるいはヤッカイな火種の再発火を悲しむべきなのか、複雑な思いで成り行きを見守るしかなかった。
すっかり元気を回復した父は、救急病棟の個室から一般病棟の六人部屋へ移された。早速その週末見舞いに行くと、部屋の入口で何やら揉め事が起きていた。何事かと思ってそばまで行くと、人だかりの中心に、何と、父がいるではないか! 父は口をとんがらせ、唾を飛ばしながら、目を吊り上げて見知らぬ他人に怒鳴り声を上げている。父が食ってかかっているのは灰色の作業着姿の年輩の男性だった。作業着の男は怒鳴り立てる父に薄ら笑いを浮かべながらも、明らかに戸惑いの様子を見せていた。一体このジジイは何をそんなに怒っているのだろう、俺がこのジジイに何か悪いことをしたのか。腕っ節には自信があるからいつでも殴り倒せるが、見るからに弱々しそうなこのジジイに対して変に暴力を振るって大きな問題になるのも面倒だし、第一大人げない、はてさて一体どうしたことやら・・・。そんなふうな表情がありありと見て取れた。一方父のほうは真剣そのもので、今にも男の胸倉に掴みかからんばかりの勢いであった。義弘叔父がそんな父を必死に食い止めている。その脇で、年輩の看護婦さんが顔をしかめて何事か父に言いきかせている。若い看護婦さんがその隣で心配そうに事の成り行きを見守っている。父と同室の患者とおぼしきバジャマ姿のボサボサ頭の若い男が一同から一歩下がったあたりで、なすすべもないといった表情で佇んでいる。他の人たちは単なるヤジウマだろう。もの珍しげに父と男のやり取りを眺めている。
私は憤りと焦りと羞恥心で頭がカッとなり、突撃ラッパを聴いた兵隊のように人だかりの中へ割って入った。
「じいちゃん、何怒ってるんだよ! ホラッ、ベッドに戻らなきゃダメじゃないか!」
そう言ってか細くなった父の二の腕を引っ張る。体を斜めに傾げながら、まだその場を去ろうとしない父。まだ男に一言何か言ってやらねば気がすまないようだ。私は年輩の男を振り返り、
「すみません、老ボケで自分が何をやっているのか全然わかっていないんです、すみません。」
と謝る。すると父は、
「誰が老ボケらいや!」
と怒鳴る。もう処置なしだ。
なんとかなだめすかしてようやくベッドに戻すが、まだ腹の虫が収まらないらしく、ブツブツと文句を言っている。
ようやく事が落ち着いたところで、先に見舞いに来ていた義弘叔父に詳しい事情を聞くと、どうやら被害者の作業着の男は単なる通りすがりの見舞い客で、急に便意を催し、近場にあったこの病室のトイレを借用したらしい。父はベッドの上からその様子をずっと見ていて、男がトイレから出て来ると、急にベッドを飛び出してつかつかと近寄り、男の腕を捕まえて、
「おめさん、何のことわりもないで人の家の便所に勝手に入るてや、どういうことら!」
と、詰め寄ったのだそうだ。
いかにも父らしいガンコさである。筋の通らないことには断固抗議するし、自分が納得しない限り絶対妥協はしない。どこか倫子に似たところがある。もし遺伝による類似が精神的特長にもあてあはるのであれば、父のガンコ気質は私ではなく、倫子に伝わったのにちがいない。だからこそ父は、倫子がこれまでに起こした数々の身勝手なふるまいを決して許さなかったのだし、それにもかかわらず倫子が可愛くて仕方なかったのだ。一方、倫子もまた自らの行動を信じて疑うことがなかったから、父の倫理原則の上に築かれた行動上の規律をうるさいものと感じてならなかったのだろう。お互い似たもの同士の反目というわけだ。
そして、私には母から伝わった優柔不断さとお人よしさがあった。ガンコ一徹な父が、私には弱みを隠さないのは、母に対してそうするのと同等なのである。確かに私にも母にも、自らを律する行動原理もなければ倫理もないような気がする。仮にそれらに似たものがあったとしても、他者に強要することはまずない。私や母のそのような心の在り方は実に日本人的な在り方ではないだろうか。聖徳太子は言ってるじゃないか、「和を以って尊しと為す」と。それが日本人の心の在り方、社会の在り方ではないのだろうか。そう考えると、父と倫子の心の在り方は、若干ではあるが一神教の世界の在り方に近いような気がする。
「なあ陵、どうらや? 人ん家に勝手に上がりこんで便所借りて、なんも言わねえてや、おかしいねかや。あんまりに常識がねえこてやなあ。お借りしますの一言ぐれえあって当たり前らろうが。おれはこういう性格らすけんな、ちっと注意してやったこてや。」
理屈は合っている。極めて正しい。違っているのはここががわ家でないことだけだ。しかしこのわずかな違いが大きな問題なのだ。精神科にかかる必要のある人と健康な人を隔てるのはこのわずかの差だけであって、それ以外は変わらないのかもしれない。この差は人が持つ行動原則そのものに表れるわけではないだろう。自分の行動に関して何らかの原則を持たない人というのはこの世に存在しないはずだが、その原則自体は理路整然としていて人を納得させるに十分なのに、精神病と認定されてしまう人は、原則に則って発現される行動のほうに問題があるのだろう。それはタイミングであったり場所であったりする。いわゆるTPOというやつだ。今の言葉で言えばKYとでも呼んだほうがいいのか。いずれにしても言っている内容自体、間違っていないこの父をM病院に入れることについて、私の心にいまだに何かひっかかるものがあった。といって父が健常者であるなどというつもりは毛頭ないのだが。
父を見ながらそんなことを考えていると、いつもの年輩の看護婦さんが病室に入ってきた。看護婦さんは私の顔を見るなりこう言った。
「この人、ほんとに手に負えなくて、今みんな困ってるんですよ。今日なんてまだいいほうですよ。この間なんて大暴れしましてね。病室が大騒ぎになりました。」
「ええっ!ほんとですか? 今まで暴れたことなんてなかったのに、いったい何があったんですか?」
「いえね、こちらでおむつを穿かせてさしあげようとしたんですよ。そしたら嫌がって大暴れして、若い看護婦を突き飛ばしましてね。看護婦は腕に軽い傷をつけました。」
「そうだったんですか・・・。それは大変申し訳ないことをしました。すみません。」
看護婦さんの言をにわかには信じられなかったが、私にできることはただひたすら謝ることしかない。父は私達の心配をよそに、会話には上の空で、うつろな目でぽかんと口を開けたまま、何事も起こらなかったかのように大相撲中継を見ている。その姿は、先ほどの怒鳴り声を上げて人に食って掛かっていった父ではなく、のんびりと余生を過ごす好々爺といった雰囲気であった。だからこそ看護婦さんの言葉を簡単には信じられないのだ。看護婦さんは言う。
「最近元気になられたせいでしょうか、ちょっと目を離した隙にお一人でフラフラ出歩かれることが多くなって、私どもみんな大変がっています。この間なんて一人でエレベータに乗って、一階まで降りていってしまいましたからね。私達、大慌てで探したんですがなかなか見つからなくて。下で息が上がってゼイゼイ苦しんでいるところを他科の看護婦が見つけて通報してくれたんです。こちらとしてはもう毎日心配のし通しでして、実は大変困っております。」
「すみません。」
「Mの病院のほうからは、まだ連絡がないんですか? 先生ともいろいろ相談しているんですが、やっぱりM病院で診ていただくのがいちばんよろしいかと思います。」
看護婦さんもひたすらM病院の空きを待っているようだ。合コン先生の力でなんとか早めにM病院に入れることはできないものだろうか。
「M病院からはまだ連絡がありません。もう少し待つようにとは言われてますけど。」
「そうですか。早く空くといいんですがねぇ。あ、そうだそうだ、今お父様はご自分で紙おむつを穿いていらっしゃいます。後でで結構ですから下の売店で大人用の紙おむつを買っておいてください。」
「わかりました。」
「それからですね、ちょっとこちらへ。」
と言って看護婦さんが私をいざなった先は、見舞い客用ロビーの奥にひっそりと置かれた灰色の公衆電話の前だった。看護婦さんはひそひそ声で言う。
「今週末の三連休ですが、ちょっと看護婦が足りなくなるものでして、申し訳ないのですが、付き添いをお願いできませんでしょうか?」
巨大掲示板じゃないが、キターッ! である。どうやらこの病院、週末になると看護婦さんの人数が減るものと見える。それは仕方がないことだろう。手こずる父に対して、普段からこれだけのことをやってもらっているのだ。ありがたいと想わないではいられない。しかしながら、この三連休の間に、子供の通う小学校で秋の大運動会が入っていたのである。今年は用具係という大役(?)もあり、絶対にここだけははずせない。看護婦さんたちには大変申し訳ないが、付き添いはできない。はっきりそう言うと、看護婦さんは、
「そうですか、わかりました。いろいろご都合があるのですものね。」
と言う。ここでまた母に付き添ってもらうように依頼すると、また私に「殺す気か」などと言われかねないので、いったんは引き下がったのであろう。すると看護婦さん、
「あのですね、あまり大きな声では言えないんですけど、世の中にはヘルパーさんという職業がありまして、そこでは病院の付き添いという仕事もやっているようですよ。ホラ、ここに。」
と言って公衆電話の下の棚から黄色い電話帳を取り出し、ページを繰って、とあるページの下方にある広告を指差した。広告は黄緑色の四角い枠に囲まれており、橙色の菱形の地に、白抜き文字で『ヘルパー派遣!お気軽にお問い合わせください』と書かれている。そのすぐ下に小さく「家事・冠婚葬祭手伝い」などと並んで「病院付添」というのが書かれていた。経営しているのは大手通をちょっとはずれた殿町の有限会社である。殿町と言うのは長岡の飲み屋街で、なんとなく胡散臭そうな感じだな、と一瞬思う。
「決して病院はここを紹介しているわけでも斡旋しているわけではありませんからね。あくまでこういった方法もあるというお話をさせていただいているだけですから。こういうところをお使いになるかどうかはそちらでご判断ください。」
看護婦さんは繰り返しそう言う。病院の紹介だと何か病院にとって都合の悪い事でもあるのだろうか。いずれにしても、初めて聞く話であったので、早速家に帰って母と相談することにした。
母は二つ返事で承諾した。看護婦さんに教えてもらった電話帳のページを開いて、まず広告のヘルパー会社に電話する。何度かの呼出音の後、年輩の女性が出る。
「あの、電話帳見て電話したんですけど。」
「はいはい、毎度ありがとうございます。ご用件は?」
「病院の付き添いをお願いしたいんですけど、できますか?」
「ええ大丈夫ですよ。病院はどちらになりますか?」
「N病院です。」
「ああ、やっぱり。」
やっぱりって、そんなお得意様になっているのか、あの病院は。
「うちの付き添いの依頼はほとんどがN病院の患者さんです。ですから慣れてますよ。ご安心してお任せください。」
どうもN病院というところはそういうといころらしい。
「あの病院もけっこう組合が強くてねえ。看護婦さんってホラ、つらいお仕事じゃないですか。いろんな患者さんがいるし、夜勤とかもあるし。やる人が少なくなってきてるって聞きますよ。人手不足なんじゃないですかねえ。」
介護の仕事も大変そうだが、それでも看護婦さんに比べればそれなりに人が集まるらしい。あずさがそうだった。
「そうですか。で、付き添ってもらうのは父なんですが、これが認知症がひどくって、病院でも手を焼いているらしいんです。付き添い、できますか?」
「ええ、大丈夫ですよ。何かあったら看護婦さんをお呼びすればいいんでしょう?」
「ええ。そうです。」
よくわかってるじゃないか。
「付き添っていただける人ってどんな人なんですか?」
殿町の有限会社だということで、ついよからぬ想像をしてしまう。まさかフーゾクの派遣じゃないだろうな。
「みなさんこちらで契約している方々です。主婦の方が多いですかね。派遣するヘルパーはそれぞれみなさんの都合によって決まります。」
値段は一日当たりで決まっていて、昼間の時間帯と夜間とで違っているそうだ。当然夜のほうが値段が高い。私は来週日曜の夜から翌日早朝までの派遣を依頼し、東京へ戻った。
翌週月曜は国民の休日であった。月曜のお昼前に新幹線で長岡へ行き、早速N病院へ父を見舞う。
昨夜ヘルパーさんが来なかったか父に聞くと、誰も来なかったと言う。
「そんなことないだろ、昨日の夜、付き添いの女の人がここへ来て泊まっていったはずだよ。だってヘルパー頼んだんだもん。」
「いやあ、誰っれも来んかったなあ。」
「いや絶対に来てるって。昨日の夜泊まって今朝帰っていったはずだよ。じいちゃん忘れてんだよ。よお〜く思い出してみ。」
ヘルパーの来訪が事実であることを半ば強制するような口調になる。すると父は言った。
「おお。そう言えば来たなあ。来た、来た。」
「そうだろ、やっば来てるだろ。じいちゃんが心配だから高い金払ってヘルパー雇ったんだぜ。」
ほっとしてそう言った。それからヘルパーという職業にちょっと興味があったので、さらに突っ込んで父に聞いてみる。
「来たのはどんな人だった?」
返ってきた答はこうだ。
「あの人らいや、ホラ、バレーボールの県代表らった女の人。名前なんらったかなあ。」
バレーボールの県代表だった人?それって、もしかして・・・・
「谷崎さんかい!? 『天使の庭』の?」
冗談じゃない、『天使の庭』とはとっくに解約手続きを済ませているし、第一なんで谷崎さんが父なんかの付き添いで泊まらなければならないんだ。ああ、そうだった、マトモに受け取ってはいけないのだった。マトモに取るだけこちらがバカを見る。父は言う。
「おお、谷崎さん言うたかなあ、あの人。」
「何言ってんだよ、じいちゃんボケちゃって。あの谷崎さんが来るわけないじゃないか。そうじゃなくてさ、昨日の夜から来てここに泊まっていった人だよ。」
「ああ、市役所の人のことか?」
ダメだ。全然記憶してない。簡易ベッドと綺麗にたたまれた貸し毛布が置いてあるところを見ると、誰かが付き添いをしたことは疑いようがない。病院からの付き添いの催促電話もなかったし、ヘルパーの人は絶対に来ているのである。間違いない。
私は父の記憶をたどるように、そして父の記憶力がどこまで正常に機能しているのか確かめようとして、こう聞いた。
「じゃあさ、じいちゃん、昨日の昼間、誰か見舞いに来たかい?」
「昨日か、昨日は柴田が来たったかなぁ。」
柴田さんというのは私もよく知っている。父が勤めていた会社の後輩で同じ町内に住む人で、何年か前に退職し、父とは庭いじりの趣味が合って長いお付き合いをしている人である。たしか私より五つ六つ下のかわいい娘さんがいたはずだ。今頃あの娘さんはどうしていることか。すっかりオバサンになっているんだろうな。そんな柴田さんが昨日見舞いに来たというのは、ホントかどうかは措くとしても十分信憑性のある話である。
「ああ、柴田さんが来てくれたのか。そりゃあよかったな。結構来てくれてんの?柴田さんは。」
「おお、毎日来てるいや。いい男らいなあ、あれは。」
おいおい、いくら定年退職してヒマになったとはいえ、柴田さんも毎日は来ないだろう。
結局ヘルパーさんが本当に来てくれたのかどうか、最終的な確認はできなかった。しかしこの一件で私はひとつだけ父を見舞う際の決めごとを作った。それは、父の顔を見たらまず最初に必ず誰か見舞客が来なかったかどうか聞いてみることだった。これを毎回繰り返していれば、少しでも認知症の進行を遅らせることができるのではないか、そんな淡い期待があった。私は父を見舞うたびに、必ず昨日誰が来たか聞いた。父の言を信用すれば、毎日のように誰かが見舞いに来ていて、数に換算すれば、一日あたり十人近くの人が見舞いに来たことになる。そんなバカな・・・。
そんなほんのわずかな努力にもかかわらず、父の認知症はますますひどくなるばかりであった。M病院からの連絡はあいかわらずなく、私達は不安な毎日をすごすことしかできなかった。
(介護篇・了)