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軌跡と行方  作者: ろく
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皇紀648年 菜の月 更夜

 羽姫は森の中に在った。傍らには熊がいる。

 といっても、本物の熊ではない。彼は長兄である秀元の有する家臣団・獣衆の一員だ。

「ねえ、熊。まだ歩かなくてはいけないの?」

「姫、お声を小さく」

「うるさいわね、熊のくせに。私に指図しないでちょうだい」

「申し訳ござらん」

 熊は大きな体を丸めて謝った。羽姫はフンと鼻を鳴らす。

 羽姫の機嫌は、かつてないくらいに悪かった。

 先日、長兄から便りがあった。それを携えてやってきたのが、熊だった。

 文には兄らしく甘い香が焚かれており、添えられた菜の花も羽姫の心を華やがせてくれた。

 ただ、持ってきたのが熊だというのが気に食わない。熊は獣衆の中でも一等むくつけしい男で、側によると秣のようなにおいがする。それに無精ひげが汚らしい。

 どうせ獣衆を寄こすなら、猫か鬼を寄こしてくれれば良かったのだ。猫は物腰柔らかな優男だし、鬼は何を考えているのか良く分からないが、見ているだけならば充分目の保養になるのだ。

 辺境に住まう長兄とは、羽姫のお徴の祝い以来、もう三年も会っていない。というよりもその時初めて、羽姫は長兄に会ったのだ。

 というのも、長兄は父皇に厭われ、辺境へと遠ざけられているからだ。父皇は「あれは鬼だ」「会えばお前も食われてしまう」と言っていたが、初めて会った長兄は羽姫にとても優しく、決して鬼には見えなかった。

 以来、羽姫は二十ほども年の離れた長兄を慕っているのだ。

 羽姫は詳しい事を知らないが、雪の月より梅・桃・桜・そして今、菜の月の数月間。我が皇国は大帝国《ツァイ》と戦をしているらしい。長兄である秀元の領する北の辺境は皇国の護りの要で、家臣団も精強揃いだ。心配する事は無い、と父皇は言っていたが、羽姫はやはり長兄の身が心配であった。

 父皇に、長兄を辺境より中央に呼び戻すよう頼んだが無駄だった。父皇は耳を傾けてくれない。羽姫は皇家ただ一人の姫君だ。いつもならば、わがままを聞いてくれるのに。

「ねえ、熊。私足が疲れてしまったわ」

「では、熊の背に」

「嫌よ。だってあなた、臭いんだもの」

「さようで、ござるか」

「そうよ。気付いていなかったの?」

「……申し訳ござらん」

 熊は着物の胸元を引っ張り、くんくんとにおいを嗅いでいる。困惑したように寄せられた眉がおかしくて、羽姫はころころと笑った。

「ねえ、熊。少しだけ休憩にしましょう。ほら、あちらに小川があるわ」

「…………では、少しだけ」

 熊は周囲を窺った後、潜めた声で頷いた。

 小川に足を浸す。ひんやりとした清水が足の熱を吸い取るのが心地良く、羽姫はほうっと息を吐いた。

「ねえ、熊。気持ちが良いわよ。あなたも浸してごらんなさいな」

「いえ、熊はご遠慮申し上げまする」

「なぁに? 私のいう事が聞けないの?」

「申し訳ござらん」

 まさか断られるとは思っていなかった羽姫だ。むうっと頬を膨らませ、唇を尖らせた。

「良いわ。後で休憩にしましょうなんて言っても、知らないんだから」

 拗ねた羽姫の口振りに、熊は少しだけ笑ったようだった。

 おや、と羽姫は思う。熊が笑うところを初めて見たかもしれない。熊はいつもむっつりと、つまらなさそうな顔をしているのだ。

「ねえ、熊。あなた、いつも笑っていると良いわ」

 きょとんと熊が目を瞠る。

「笑っている方が、少しだけマシよ」

「……さようで、ござるか」

「ええ、そうよ」

 熊はどことなく照れくさそうだった。

 少しだけ、羽姫の機嫌は良くなった。四十路近いむさくるしい男を手玉に取っているようで、何だかオトナになった気分だ。

 しかし、船に乗るのも大変だ。森を抜けたその先に波止場があるというが、まだ歩かなくてはいけないのだろうか。

 羽姫はずっと、景海の向こうの大陸に渡ってみたいと思っていたのだ。長兄が文と共に送ってくれた旅券のおかげでその夢は叶おうとしているのだが、こんなにもたくさん歩くならば、やめておいた方が良かったかもしれない。季節が一巡りする間だけの留学だという話だが、早々に羽姫は帰りたくなっている。

 一巡りの間だけとはいえ、兄達や父母と離れるのも少し不安だ。侍女だっていない。最近仲良くなった侍女は同じ年で、同じくらいの背格好をしている。それにどことなく似た顔立ちをしていて、まるで妹(姉か?)ができたかのようだった。

 しかし着物を交換しあい、着せ替えっこをして遊ぶのもしばらくできない。熊はついてきてくれるのかもしれないが、熊のような大男が始終側にいるのは、落ち着かない気分にさせられる。

 不安が押し寄せてくる。しかし熊にそんな顔を見せるのは癪だった。何でもないような素振りで、羽姫は水を跳ね上げる。

「ねえ、熊。何をしているの。ほら、早くお拭きなさいな」

 濡れた足を差し出す。熊は恐る恐る、羽姫の足を手のひらに乗せた。

「……小さいおみ足でござるな」

「あなたの手は、大きいわね」

 熊の固い手に、羽姫の足は包み込まれてしまいそうだった。

「肉刺ができてござるな」

 まじまじと見られ、何だか恥ずかしくなってしまう。その恥ずかしさを隠すように、羽姫はつっけんどんな物言いをした。

「だってたくさん歩いたのだもの。私は繊細にできているの。あなたみたいなむくつけしい人と一緒にしないでちょうだい」

「さようでござるな」

 ふ、と熊は小さく息を漏らすようにして笑った。息が爪先にかかってこそばゆかった。思わず声が漏れそうになったが、唇を噛みしめてどうにか堪えた。

 熊は丁寧に水を拭き取り、壊れ物を扱うように足袋を履かせてくれる。羽姫の細い足首を大きな手で掴み、太い指で小さなこはぜを一つ一つ嵌めていく。

 熊は、そっと羽姫の足に草履を履かせ、地面に下ろした。足に触れていた熊の温もりが遠ざかるのが変に寂しくて、羽姫はおかしな気分になってしまった。

「さて、出発いたそう」

「……ねえ、熊。私、足が疲れてしまったの」

「しかし……」

「だから、おんぶしてちょうだい」

 羽姫は両の腕を広げた。熊は困惑している。

「私の言う事が聞けないの? 早くなさいな」

 熊はこくりと頷くと、羽姫に背を向けてしゃがみ込んだ。羽姫はその広い背に負ぶさった。あたたかかった。

「はは、まさしく羽姫でござるな。羽のように、軽うござる」

 熊は立ち上がり、ぐんぐんと森の中を歩んでいく。流れる景色は、自分で歩いていた時とは比べ物にならないくらいに速い。

 熊は羽姫の荷物も持っているというのに、物ともせずに突き進む。しばらくするうちに熊は汗をかいたのか、秣のようなにおいは余計に色濃くなった。

 胸いっぱいに吸い込めば、羽姫の胸は締め付けられた。理由は分からなかった。

 やがて、森を抜けた。視界に広がる波止場の広さと、波の音に羽姫の胸は高鳴る。

 案内された船は思いの他に小さかったが、そんな事は気にならぬほどに羽姫は高揚していた。

 とん、と地面に下ろされる。手渡された荷物はずっしりと重く、羽姫は思わず手を離してしまった。

 熊は苦笑して、羽姫の荷物を拾い上げた。再度渡された荷物を、今度はぎゅっと両手で抱え込んだ。

 ふいに、す、と熊の手が羽姫の頬に伸びる。

「……失礼。枯葉が、ついてござったゆえに」

 思わずびくりと肩を竦めてしまった羽姫を気遣ってか、熊は優しい声でそう言った。羽姫の頬に、かっと血がのぼる。

「無礼者! 熊ごときが許しもなく、私に触れても良いと思って!?」

「申し訳ござらん」

 これで熊が謝るのは何度目だろうか。数えていなかったが、先日からずっと謝られてばかりな気がする。

「謝りなさいとも言っていないわ」

 熊は申し訳なさそうに、太い眉を情けなく下げた。

「姫、もう出港でござる。さ、お早う」

 熊の手を借り、船へと移る。ざん、と押し寄せる波の音が、夜の静寂を揺らしていた。

 手を離す。

「熊も、一緒に来てくれるのではないの?」

 熊は佩いた太刀に手をかけた。何かを確かめるように、柄を強く握りこむ。

「……姫は羽じゃ。羽姫じゃ。どこへでも飛んでゆける。どうぞ、お幸せになりなされ」

「熊?」

「熊は、辺境公鬼秀元が獣衆の熊。戻るべきは、主殿の傍らよ」

 熊は懐から取りだした何かを破り捨てた。それは、旅券のように見えた。

「それでは、御免仕る」

 そう言って笑った熊の目には、うっすらと涙が浮かんでいるようだった。だが同時に、まさしく獣衆の熊を名乗るに相応しい獰猛な光を宿していた。

 来た道を駆け往く熊の背を羽姫は見送る。瞬く間に熊の背は夜に消え、見えなくなった。

 そっと、熊が触れた頬に指先を触れさせる。

 そうしてようやく、羽姫は熊の本当の名を知らぬ事に思い至った。

 船は桟橋から離れようとしている。




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