人食い峠の怪
月の無い夜の峠道。一寸先も見えない暗闇の中、真夏だというのに、肌を撫でる空気はいやに冷たく、虫の鳴き声の一つさえ聞こえないほど、周囲は不気味に静まり返っていた。
灯りと言えば、左手の指に引っかかっている小さなランプだけ。しかし暗い峠で頼りのはずのランプの明かりが、かえって闇の中に影を作り出し、より一層の深い闇を私の周囲にどろどろと垂らしているようで、私はもう、ただただ心細く、一刻も早くこの気味の悪い峠を越えることばかり考えていた。
そんな折、突然目の前の藪から、がさりと音がした。私の身体は、蛇を見た猫のように飛び上がり、その目は視えるはずのない音を捉えるかの如く素早く、闇に煙る藪へと走る。
音の先、闇の中にうすぼんやりと浮かぶ草木は、風に揺れるでもなく、ただじっとこちらの様子を伺うかのように微動だにしない。
獣だろうか…?いや、それにしては異様な音だった。
言葉では「がさり」としか表現できないが、草木を掻き分けた時に鳴る音と、ラジオに走るノイズの音を掛け合わせたような音だ。
でも私が飛び上がるほど驚いたのは、その奇妙な音の奥に、無機質な、それでいてどこか怒っているような、悲痛なような、男とも女とも、子供とも大人とも判別のつかない、複数の人間の低い呻き声のような響きが混ざっている気がしたからだ。
気のせいだ、聞き間違いだ、と頭の中で念じてみても、体は吸った息を吐くことも忘れるほどに強張っている。ぎょろぎょろと目玉だけを動かして、辺りを確認するが、視線の先の藪は何食わぬ顔で闇の中に佇んでいる。
生唾を飲み込み、意を決して、音の正体、その主を見破ろうと、震える手で、ぎこちなく、ランプを高く掲げる。
光に照らされて、音の正体を隠さんとする闇の帳が暴かれる。そこには…。
何もいない。
ほっと胸をなでおろす。所詮噂は噂。一時でも"人食い峠の怪"などという子供だましにビクビクした自分が可笑しいやら恥ずかしいやら。人という生き物は、一目、暗闇を見れば、実に想像力豊かに、そこに様々な空想の絵具を塗りつけるものらしい。
深呼吸をして、額に浮いた汗を右手で拭い、掲げたランプを下げて、歩き出そうと体を捻った時、藪の中の闇がぬるりと歪に動いた。
――がさり。
半歩踏み出した足がピタリと止まる。凍りついた体が、総毛立っていくのを感じる。今度は目すら動かせない。見てはいけない。そんな稲妻のような直感が私を貫いた。
得体のしれない"なにか"が、すぐそこにいる。直視したわけじゃない、でも見間違いじゃない。確かに私の視野でガサガサと、ザワザワと蠢いている。
視界の端で、黒いなにかが木に纏わりついて、幹を真っ黒に覆い隠していた。そいつが動くたびに、木が揺れて枝葉のこすれる音に混じって、あの奇妙なガサガサという音がする。そしてガサガサと鳴るたびに、低く呻くような複数の人の声が、小さく混じって聞こえてくる。
震えと寒気が止まらず、恐怖からガチガチと鳴る歯。その奥から洩れる呼吸のリズムが不規則に早くなっていく。
縋るように左手のランプの火を凝視する。しかし安心感は得られないどころか、おかしな疑問が鎌首を擡げる。今、視界の端で揺れたのは、光だろうか?影だろうか?頭では分かっている。影は光に連動するものだ。だが震える左手に握られたランプの火を見るほどに、視界の端で揺れる暗闇が、光を無視して自ずから動き出し、私に向かって手招きしているように感じられ、気付けば私は、足早に歩きだしていた。
こんな所には居られない。一刻も早くこの峠から出なければ、私の頭はおかしくなってしまう。
しかし行けども行けども、まるで跡をつけられているかのように、後ろから聞こえるガサガサという音が消えることは無かった。それどころか、先刻よりも、音は大きくなっている気すらしてくる。
ふいにガサガサという音の奥にある、大勢の人の呻き声のような、混沌とした響きの中に、いくつかの同じような響きが、何度も何度も繰り返されていることに気が付いてしまう。
何を言っているのかはわからない。それは苦しそうな呻き声の中にあって、妙に嬉しそうな、それでいて恨めしそうな、まるで誰かの不幸を願うような、不吉な響き。呪詛の合唱。地獄の孔がぽっかりと開いたなら、こんな音がするのだろうか。
後ろから迫ってくる不気味な音に、恐ろしい空想の絵具を塗りつけてしまった私は、ついに堪えきれなくなり、堰を切ったように走り出した。
走りながら、迫る音を搔き消すように、叫びに叫んだ。暗い道で木の根に足をとられ、小さな石や段差に躓き何度も転びながら、それでも後ろから迫るガサガサという音から、声から、逃げて逃げて、ただ一心不乱に走った。
立ち止まればもう二度と朝日を拝めない気がした。
一体どれぐらい走っただろうか。足が痛みに痺れて動かなくなって、息も絶え絶えに道の真ん中で大の字に倒れ込む。聞こえるのは自分の激しい呼吸音と鼓動の音だけ。もうガサガサという音も、不気味な声も聞こえなかった。
助かったのだろうか…?息が整うのを待って、少しの希望と共に上半身を起こすと、遠くには小さな町の明かりが点々としているのが見え、東の空が少しだけ白みを帯び始めていた。
ふと左手に違和感を覚える。左手を見ると、すぐにその違和感の正体に気が付いた。ランプを持っていないのだ。必死に走っている間に、どこかに落としてしまったのだろう。とはいえランプのために、またあの峠に戻るなんて考えたくもない。
もうひと踏ん張りと、立ち上がった時、夜明け前の峠道に、カランという音が響いた。流れるように音の方を振り向く。
私の走ってきた道、暗闇の先から小さい何かが転がってくる。石や窪みに引っかかることもなく、私の脇を通り抜けようとするそいつを捕まえる。
見ると、それは間違いなく、ついさっきまで、この手で握っていた私のランプだった。
はて、とランプが転がってきた方向を見る。黒の絵具で塗りつぶしたような真暗闇が、目の前に広がっていた。
眉を顰め、目を凝らし、首を傾げる。
おかしい。こんなに暗かっただろうか。
――がさり。
***
人食い峠で"がさがささん"と出会ってしまったら、絶対に見てはいけない。
人食い峠で"がさがささん"と出会ってしまったら、絶対に逃げてはいけない。
見れば見られてしまうから。逃げれば見つかってしまうから。




