004 陽明宮へ
生贄の儀は、それで終わりになった。
この場所から生贄が生きて出たのは、初めてのことだった。
本来なら、神の目覚めは鐘と祝詞をもって国中へ告げられるはずだった。
だが、神が目覚めたこと以上に、誰を求めたかが大問題だった。
神官たちは沈黙し、顔を青くしたまま指示を待つ。
兵たちも、どうこの場を収めるべきか分からず立ち尽くしている。
そんな中で、ただ神だけが迷いなくクウを見ていた。
「歩けるか?」
急に問われ、クウは目を瞬く。
問いかけというより、確かめるような口調だった。
「……はい」
「嘘だな」
朱雀はすぐに言った。
「足が震えてるではないか」
図星だった。
痛みではなく、熱の余韻のせいで膝に力が入らない。
血を抜かれたせいか、視界も少し揺れている。
言い返す前に、身体が浮いた。
「……っ」
クウは息を呑む。
気づけば、朱雀に抱き上げられていた。
「な……」
「静かにしろ」
低い声が耳元に落ちる。
朱雀の腕の中は暖かかった。
クウは思わず身を引こうとした。
だが、朱雀の腕がわずかに強まる。
「逃げるな」
「……逃げて、おりません」
「なら、離れようとするな」
「……はい……」
***
神殿を出る頃には、外の空気はさらに冷え込んでいた。
だが、クウは不思議と寒さを感じなかった。
神の腕に抱かれた場所だけ、まるで別の世界のように熱を帯びている。
陽明宮へ続く長い回廊を進むあいだ、誰ひとり言葉を発しなかった。
回廊の途中で、月苑が歩調を緩め、神の少し後ろへついた。
陽明宮の奥に通された部屋は、驚くほど静かだった。
だが煌びやかさよりも、熱を逃がさぬための閉鎖性が勝っていた。
厚い帳、重い扉、赤と金で統一された室内。
朱雀はようやくクウを寝台の端へ降ろした。
それでも、手は離さない。
クウはおそるおそる顔を上げる。
近くで見るその顔は、やはり現実味がなかった。
眠っていた時よりもずっと生々しいのに、なお人間には見えない。
金の瞳が、じっとクウを見ている。
「……クウ」
名前を呼ばれる。
体がピクッと反応する。
これまでその名は、呼びつけるためにしか使われなかった。
叱責でも命令でもなく、ただ確かめるように口にされたことなど一度もなかったから。
***
夜のあいだ、クウはほとんど眠れなかった。
寝台の端に座らされたまま、朱雀は長いことクウの手首を掴んでいた。
やがてそのまま眠りに落ちたが、指は離れなかった。
部屋の外では、夜を徹して人の気配がしていた。
神官、侍女、護衛、そしておそらくは月苑に仕える者たち。
神の目覚めを受けて、王宮中が動いているのだろう。
それなのに、この部屋の内側だけは、異様なほど静かだった。
朱雀の熱は、眠っているあいだも途切れなかった。
しかし、夜が深くなるほど、少しずつ熱が弱まっていくように感じられた。
やがて、いつも通りの曖昧な朝がやってきた。
太陽のない国では、夜明けもまた不明瞭だ。
帳の向こうの空が、わずかに白さを増しただけでしかない。
だが、変化ははっきりしていた。
クウの手首を掴んでいた力が小さく、弱くなっていたのだ。
「……?」
クウは目を開けた。
寝台の上で眠っているのは、昨夜の朱雀ではなかった。
身体が十にも満たない子どもの姿になっていたのだ。
クウは一瞬、息を止めた。
昨夜、自分を抱き上げた腕の力。
あの低い声。あの異様な美しさ。
それらが、まるで夢だったかのように思えるほど、今の朱雀は幼かった。




