003 目覚め
ざわめきは、誰も声にできないまま広がっていった。
神官たちは伏したまま、互いに視線を交わすことすらできずにいる。
兵たちもまた、固まっていた。
誰もが分かっていた。
今ここで起きたことは、吉兆などという言葉で片づけられるものではない。
長い眠りについていた守り神が、ついに目を覚ました。
それだけでも、王朝の均衡を覆すには十分すぎる。
だが、さらに異様だったのは――目覚めた朱雀が、ひとりの贄から手を離そうとしないことだった。
クウは動けなかった。
首筋に置かれた神の指先は、肌が焼けるように熱い。
だが不思議と嫌じゃない。
それどころか安心感すらあった。
クウにとって、これまで与えられてきたものは、痛みか命令ばかりだった。
温かさなど、誰かの手から受け取った記憶がなかった。
「朱雀様……」
最初に声を絞り出したのは、年嵩の神官だった。
彼の声は震えている。
それは、神への畏れか、それとも想定外の事態への恐怖か、もはや区別はつかない。
「その者は、あくまで贄にございます。御身の御心のまま、捧げ物として――」
「捧げ物だと?」
朱雀が、ゆっくりとその言葉を繰り返した。
先ほどまでの掠れた声とは違う。
低く、静かで、妙に耳に残る声音だった。
金の瞳が、神官を鋭く睨みつける。
「これは、俺のものだ。お前たちごときが、捧げ物だと?」
「そ、そのようなつもりでは……」
「ならば、黙れ」
神殿の奥に閉じ込められていた熱が、朱雀の怒りに呼応するようにうねった。
クウは思わず目を見開いた。
「……怖いか?」
不意に、朱雀が言った。
クウは息を呑む。
すぐ近くで、あの金の瞳がこちらを覗き込んでいる。
「……少し怖い、です」
かすれた声が、自分でも驚くほど素直に出た。
朱雀はしばらく黙っていた。
怒るかと思ったが、そうではなかった。
「恐れることはない。私はお前を傷つけない」
その声音は奇妙なほど穏やかだった。
***
「朱雀様のお望みであれば、その者は陽明宮に留め置くべきでしょう」
静かに響いた声に、全員の視線が集まった。
李月苑だった。
彼は、ひどく落ち着いて見えた。
たった今、どんなものより価値のあるものが他者の手に落ちたというのに、
その顔には怒りも焦りも浮かんでいない。いや――隠しているのだろう。
月苑は祭壇の前まで進み、深く一礼した。
「お目覚めくださったこと、燿国の皇太子として感謝申し上げます」
朱雀は答えない。
クウの肩を抱き寄せたまま、じっと月苑を見ている。
「その者を御身のそばに置くことをお望みならば、私どもに異論はございません」
「殿下……!」
神官が思わず声を上げる。
「神意に逆らうつもりか?」
月苑のその一言に、誰も口を挟めなくなる。
クウは息を潜めた。
神はクウを腕の中へ引き寄せる。
まるで誰かに奪われるのを防ぐように。
「俺とクウを引き離すことは許さない」
はっきりとした声音だった。
先ほどの幼い響きはもう薄い。眠りから覚めるとともに、神性の重みが言葉へ滲み始めていた。
月苑がうやうやしく頭を垂れる。
けれど、その唇はわずかに笑っていた。




