001 光のない国
その日、名前を呼ばれた時、クウはそれが人生の終わりだと思った。
薄暗い地下牢。
湿った石壁に背を預け、膝を抱えていたところへ、鉄扉が軋んで開く。
「出ろ」
いつもなら、外へ引きずり出される時は鎖をつけられる。
けれどその日は、鎖はつけられなかった。
逃げると思われていないのか、それとも逃げたところで意味がないと知っているからなのか。
どちらでも同じだ、とクウは思った。
立ち上がると、冷えた石床の感触が足裏ににじんだ。
痩せた身体を起こすだけで、古傷がわずかに軋む。
それでも顔には出さない。
痛みも、空腹も、寒さも、そういうものを表に出すのはずっと昔にやめていた。
呼吸をするように従順に従っていれば、明日まで生き延びられるからだ。
そうやって十六年、生きてきた。
地下牢を出ると、冬の空気が肺に刺さった。
(冷たい)
けれど、この国の冬はいつもこんなものだ。
空は白く濁り、光は落ちてこない。
朝も昼も区別がつかない、曖昧な世界。
***
この国、南方の耀国<ヨウコク>には、太陽がなかった。
いや、正確には存在するのだろう。
だが厚い雲が天を覆い、誰もその姿を見たことがない。
古い伝承では、この大陸には四つの大国があり、それぞれが四神の加護を受けるという。
東方の青龍。
西方の白虎。
北方の玄武。
南方の朱雀。
そのうち、南方を守護する神は、天の陽をその身に宿す存在だと伝えられていた。
神が王の代に目覚めれば、その王朝は繁栄する。
太陽の光が大地を照らし、万物を育て、王は天命を得る――。
だが、そんな話も今ではただの昔語りだ。
なにしろ神は、何百年ものあいだ目覚めなかった。
それでも国が滅びずにいるのは、王宮の最奥に眠る“守り神”のおかげだと、人々は信じていた。
そして、その祈りを誰よりも執拗に捧げていたのが、第三皇太子・李 月苑<リ ユエン>だった。
彼は、神を信じていたのではない。
神でも、怪物でも、呪いでもなんでもよかった。
皇帝を殺せる力さえ、手に入るのならばーー。
幼い頃、王の妾であった母が冷宮へ追いやられ、病に倒れ、助けを乞う声すら無視されたあの日からずっと。
母を死なせた皇帝を許さぬと誓い、眠れる守り神へ祈りを捧げ続けた。
ーー目覚めよ。
ーーどうか目覚めよ。
ーーこの腐った王朝を焼き払う焔となれ、と。
けれど神は、何年経とうとも、応えることはなかった。
***
クウは奴隷として売られた日から、痛みも空腹も寒さも、生き延びるために切り捨ててきた。
口答えしなければ殴られる回数は減る。目立ちさえしなければいい。そうやって今日まで生きてきた。
「運がいいな、おまえ」
「……何が、です?」
「今日、おまえは神へ捧げられるんだよ」
「……?」
「贄さ。王国の守り神へのな」
背後で兵が笑った。
「奴隷風情にしちゃあ上等な最期だ」
「汚れた血でも役に立てて良かったじゃないか」
「どうせ生きていても屑だ。なら、いっそ役に立て」
”神のもの”
その響きは、奴隷にとっては、主人のもの、商人のもの、と何も変わらなかった。
結局、自分はいつも誰かの所有物なのだと、クウは冷めた気持ちで思った。




