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盧繁
盧繁(ろ はん、拼音Lu fan)熹平四年(175年)〜甘露元年(260年)は後漢末の軍人・政治家・儒家にして琢初代皇帝。字は子昌。幼名は小勇、渾名は蚩尤。幽州琢郡琢県(現在の河北省保定市琢州市)の出身。廟号は預祖、諡号は勇帝。
盧繁
画像
後漢
琢王・丞相・大将軍
出生 熹平四年(175年)
幽州琢郡琢県(現在
の河北省保定市琢州
市)
死去 甘露元年(260年)
司隷河南尹洛陽県(
現在の河南省洛陽市)
拼音 Lu fan
字名 子昌
諡号 勇帝
廟号 預祖
別名 小勇、蚩尤
主君 霊帝→真帝
年少にして父と共に黄巾の乱で功績を上げ霊帝や真帝の元で各地を転戦した。乱の平定後に禅孝真帝劉協より譲位または禅預を受け預祖勇帝となり息子に位を譲って老皇となった最初の人物。
明代の小説『勇国士演義』『七国志』では主人公として登場する。
生涯
勇帝廟の盧繁像
後漢霊帝劉宏の治世である熹平四年(175年)に生まれる。本籍は幽州琢郡琢県(現在の河北省保定市琢州市)。その出自について『中漢書』にはその祖先は高祖劉邦に仕えた盧綰に連なるとされているが『琢書』には記載されていないかった。しかし昨今の陵墓調査においてDNA鑑定がなされ無関係とも言えない程度には関連性が見られたと言う。
父の盧植は馬融に師事し儒学と古今の学問に通じた学者であった。また文武に優れており九江太守として治績を残したが病を得て故郷に帰った際に産まれたのが盧繁である。
幼少期
此の時に盧植は『尚書章句』『三礼解詁』などを著述していたが、その草案を産まれたばかり盧繁は見続けていたと言う。また盧植は非常に大きな体躯をしており、子の盧繁も非常に大きな赤子だった。
加えて齢五つにして父の書斎に籠って書を読み始め、小馬を乗り回し弓を用いて獲物を狩ったと言う。その獲物は餓える者が居れば分け与えとされ、また大人顔負けの剛力を持っていたと『中漢書』『琢書』に記されている。
此の頃の話として厳冬になり薪も手に入らない事があり琢県でも飢餓が広がった。その際に湖に行って氷を割って集まった魚を雪の中に三日三晩埋めて作る冷堅鱠を考案したと言う。自ら厳寒の川へ入り魚を取り塩を分け与え感謝されたが、異民族にも分けた事で一部の者に非難された。
それに兄の盧延が激昂して盧繁を庇い非難した者達を責め立て謝らせたと言う。
暫くして父盧植が蘆江太守に任じられ家族で移動して蘆江に移り住む。地元の名家である周家と付き合うようになって特に周瑜と知り合う。期間は凡そ一年ほどの短い間だったが兄弟や友人と共に猪を狩り、襲ってきた武陵蛮を討ち倒したりもした。特に周瑜とは非常に親交を深めこれは終生変わらぬ友情となっている。
黄巾の乱
中平元年(184年)黄巾賊が放棄し盧植が北中郎将として朝廷に盧延も十五で出征し、兄盧延が張梁との戦いの最中に流れ矢に当たって死んでしまう。
激昂した盧繁は白い鉢巻を付け鉄板をくくり付けて鉈を吊るし、斧の柄を長い棒に変え弓を背負い馬二匹を連れて飛び出した。しかし当然だが父盧植に止められ鄒晴に無理を言って従軍。馬元義の一族である黄巾の将を討ち取ったが当然の如く父盧植に激怒された。
その後に監査に来た宦官左豊が賄賂を要求した事に激昂し殴り飛ばす。その為に朝廷に召還された父盧植と共に皇帝に謁見。
謀略を仕掛けられた父盧繁は免職となり収監される。その際に盧繁は皇帝に黄巾賊の将の首を取る事で罪を贖いたいと願い皇帝以下を絶句させた。尚この時盧繁は九歳である。
霊帝は盧繁の願いを聞き届け皇甫嵩の麾下に入ることを認めた。ただ此の時の霊帝の考えでは従軍を忠孝深い功績として辞退を図ろうとした様である。『琢書』
しかし盧繁は本当に黄巾の将孫仲を討ち取ってしまい、兄の仇である張梁も討ち取ってしまった。
この兄の仇討ちの際には『中漢書』によると鄒晴に対して「黄巾の賊は将足り得る者は少なく、故に大将を先頭に進軍を行う。以て戦闘の敵を討てば必ずや敵は霧散するでしょう」と進言した。
続けて「彼我の距離を見て広宗まで一度は休まざる終えず陣営が必要で、敵上を鑑みれば駅馬である事は間違いない。
また設備も獣よけの柵程度しか用意できるはずも無く此の陣営を焼き払えば敵を降伏させられるでしょう」と進言。鄒晴に兵の数から陣営の維持が不可能である事を告げられると更に「ならば敵の戦線と城から見える様に焼きましょう。生技を入れれば煙は立ち上り敵兵に陣地が奪われた事を知らしめられる。それに耐えるなど軍兵でも難しく賊でも不可能です。
加えて此の状況で組織立って撤退出来る敵がいればそれは敵大将に他なりません」と進言して張梁を討ち取ったと言う。
その凱旋において洛陽では宦官の策略で捕まった英雄である父盧植と、新たな英雄である子盧繁の感動の再会を見物しようと人が集まったと言う。盧繁は盧植に殴られ叱責された後に強く抱擁され感謝された。
その後に盧繁は功績を認められ二十になると同時に郎官に任じることを約束され洛陽で生活する事になる。
洛陽期
此の時期に董卓と妻の一人である董貴人を始め様々な人物と会合している。特に袁家との繋がりも此の頃であり袁家と董家と婚約を結んだ。
また周瑜とも再会したり曹操に孫子兵法書を教授され、また父盧植の弟子である高誘から師事を受けている。
洛陽に双極の美在り、南より優美周郎、北より勇美盧郎、天下無双がただ揃う。この様に謳われた。
『琢書』『中漢書』によると洛陽周辺で田畑を荒らす獣を狩り民を助けたと言う。
十常侍誅殺
光熹元年(189年)霊帝の死後に袁紹が何進の名を騙り宦官の親族を捕縛させた。それによって張譲が暴発し宦官達によって何進が暗殺された。これにより洛陽が混乱し父盧植から避難する様に言われた盧繁は小平津へ向う。
董卓および袁隗に頼まれ袁皇后と董貴人を連れており料理を振る舞っている。従者も居なかった為でありそれだけ喫緊の状況だった。
小平津で食事を取ろうとした所で張譲と遭遇して捕える。また張譲を尋問し真帝劉協と劉辯を保護し食事を供した。その後に父盧植と合流し更に董卓と合流して洛陽に帰還。
襲ってきた丁原を討ち取った。此の際に呂布と会合している。
功績と能力を鑑み十五で徴召され議郎となり弘農博を兼ね騎都尉となった。宮中で警護を行い真帝と劉辯の教育を担い警護を務める。またこの時から穎川出身者と王允の事を怪しんでいたと言う。
非常に先見の明があったが洛陽の混乱により人手が足らず果断な処罰ができなかった。
司隷で暴れていた白波賊と匈奴を牛輔の指揮下で羽林騎を率いて撃滅。倍の敵を討ち破り威徳を持って全てを麾下に置いて見せ、白波賊から精兵一万を兵とし他を屯田兵と屯田民とした。また於夫羅をも麾下に入れ強力な騎兵を手にしている。
これによって司隷での開墾を進め田畠を広がり『中漢書』によると異民族により物流が活発化したようである。
此の功績により騎都尉と共に北中郎将を兼ねる事となった。また『琢書』によると周瑜と後の蔡貴人の助力を得て白波挙鯨波と言う音曲を作り行進させたとある。
橋瑁・袁紹の乱
初平元年(190年)橋瑁が偽勅を発し挙兵し何進を死に追いやった袁紹を盟主として各所の太守が反乱を起こした。これらは清流派を自称した者達が中心となった事から自封清流の乱とも呼ばれる。更に前々から帝位を狙っていたとされる陳国王劉寵や清流派の一人だった劉表など皇族も参加しており非常な大規模な物だった。
此の挙兵により袁隗は責任を取る形で鴆毒を下賜され舅袁術が洛陽を出奔する事になってしまっている。『琢書』や『中漢書』に代表される此の時代の情報源になった盧繁が記した、または彼の発言や行動を記したとされる『勇帝記』には袁紹を「不孝不忠にして忘恩の輩。能才を天下騒乱に用いた恥知らず」とまでに酷評している。
反乱軍の規模と兗州の状況を鑑みた結果として遷都が決定された。その為に盧繁は住民の移動を徐栄を実際の指揮官として指揮している。そのついでに反乱軍において最強とされた孫堅軍を徐栄が大破し盧繁が別働隊を率いて祖茂を討ち取った。
その後に関で足を止めた敵本隊を徐栄と共に撃ち破っている。この際に盧繁は歩兵七千と騎兵三千を率いており騎兵と共に先行。重装騎兵の突騎、鉄甲を纏った鉄騎、長槍を装備した槍騎、弓を装備した弓騎の順番で敵陣に突撃を二度敢行。橋瑁を捕らえている。
『琢書』には「預祖、賊軍を二度突破し橋瑁を捕え虜万を得る」と簡潔に書かれているが『中漢書』には盧繁の突撃に関して「預祖盧公、騎兵を率いて賊将を突き飛ばす。斧の鉾先、賊軍悉く路傍の骸とす。其の勢大波の如く、大斧人を割り、大斧軍を割る。其の二度の突撃に賊徒悉く濁流の如く崩れる」と記されている。
また『琢書』には橋瑁に関して生きたまま振り回したとあるがこれは『蒙求』の「橋瑁周謀」として広く知られており、橋瑁は此の後に車裂きの刑にされる事となったが激昂した洛陽の民により檻車から引き摺り出され撲殺された。
遷都の後に賊と通じていた張温が皇帝の居室に無断で侵入。此れを捕らえたが侵入を許した事を恥じ解任を望んでいる。
しかし真帝劉協の意向で騎都尉から実権は何ら変わらず一羽林となるに止まった。更に此のすぐ後に相国董卓暗殺を防ぎ直ぐに騎都尉に戻っている。これについては『中漢書』の「弘農譲王伝」によると劉辯に「自省と言えど情勢を鑑みれば不可能」と断じられ漸く了承したと言う。
董卓の暗殺を防いだ際の事を『中漢書』では「刺客を殴り、刺客を埋め、刺客を生やす。洛中一画刺客の畑と化す」と書かれており、どう言う事なのか研究が続いている。
喪中憤激
初平三年(192年)父盧植が病にて薨去。盧繁は喪に服す事になった。盧繁は朝廷の状況から婚約した袁皇后、董貴人、蔡貴人、呂貴人と其の一族。また五百の兵を連れて幽州に向かった。しかし反乱軍が自壊してから袁紹が冀州に駐屯していた為に迂回する事になってしまう。
その為に黒山賊の縄張りを進む事になり、襲ってきた為に黒山賊を全て撃滅した。此の事について『中漢書』では「百兵で万兵を砕く事数多。駆け抜ける所、木も草も皆朱に伏す。遂には賊百万をも砕き張牛角を討つ。以て預祖盧公、人外の武に至り天下に轟く」とある。
後に黒山賊は盧繁の麾下に入り琢郡に駐屯をして麾下に入った。
そうして盧繁は喪に服す。だが琢郡は騒乱の地と成り果てており公孫瓚と劉虞、また公孫瓚と袁紹が争い流民や賊に溢れていた。公孫瓚と劉虞は毎日の様に盧繁へ使者を送り、袁紹軍は幾度も琢郡に兵と物資を要求してたと言う。盧繁はその度に対応する事になり袁紹軍の使者を三度目の時に殺して、報復に来た軍勢を一人で屠っている。
此の時『琢書』によると使者と将軍の首を落とし兵百人を斬り殺したとあり、二度と琢県に袁紹軍は寄り付かなかったという。
しかし琢郡が安全と知れ渡り流民が大挙して押し寄せ盧繁が対応に迫られた。ここで黒山賊が盧繁に降伏を申し出た事で屯田を行い事なきを得ている。
その後に公孫瓚と劉虞に関しても使者を制限させたが、この両者に関しては余り効果はなかった。劉虞に幽州の漢族の認識と所業の危険性を伝え、公孫瓚には矛を収めるように説得。しかし両者共に盧繁の忠告を無視して公孫瓚により劉虞が殺されてしまった。
結果、盧繁は激昂。喪が開けると共に公孫瓚と袁紹の戦場に突撃。公孫瓚と白馬義従を討ち破った袁紹軍、当時最精鋭と言われた麹義の軍勢を撃滅。麹義を降伏させている。
そのまま公孫瓚が袁紹軍にやられて逃げ込んだ易京城へ進軍。援軍と勘違いして出てきた公孫瓚を盧繁自ら殴り倒して捕らえた。盧繁は公孫瓚残党に使者を出し、幽州の各所は盧家の声望に加え、盧繁の怒りを知っていた為に即座に降っている。その為に劉虞残党と公孫瓚残党を麾下に加える事となった。
衝水湖の戦い。
盧繁は長安へ帰還する為に幽州で賄えない兵五万を率いて冀州へ南下。衝水湖で二万の袁紹軍と対峙する事になった。此の戦いの始まりに袁紹軍の陳琳と問答を行い一騎討ちを了承。その間に別働隊を迂回させている。
顔良文醜を騎馬諸共に薙ぎ払い、そのまま全軍で突撃、別働隊の攻撃も加え袁紹軍を壊滅させた。
『中漢書』にて「預祖盧公、衝水湖にて大斧一振。顔文両雄軍馬二頭を水面に沈む。
その勢、激烈にして憤激猛進し、兵水を割り血波を立てて進む。駆け抜ける所、地水も紅く染める」とある。
しかし袁紹軍は大破するが袁紹は捕らえられず青州へと逃げられた。しかし軍略の師である曹操も降り兗州も麾下に入っている。曹操は反乱軍であったが呂布と戦っていた為に降伏を許した。
司隷平定戦
初平三年(192年)盧繁が幽州に帰還すると同時に司徒王允が反乱を起こし呂布が董卓を討った。しかし真帝劉協が即座に徐栄と蔡邕の元に移動し李傕郭汜の逆撃を受けた為に大破されている。皇甫嵩や朱儁と共に并州平定に従軍していた張遼麾下の軍勢以外の并州勢は呂布と共に落ち延びた。
しかし李傕郭汜が仲違いを起こし涼州に割拠していた馬騰韓遂と劉焉の賊が司隷に攻め込む。賊軍は李傕郭汜と樊稠などの董卓麾下の将軍によって撃退されるが李傕郭汜が争い始めた。その隙を突いて王允の残党が馬騰韓遂の元へ逃げ込んだ。
興平二年(195年)その様な状況で盧繁が帰還した。即座に李傕郭汜へ使者を送り慌てて参上した両者を殴打して真帝劉協に謁見。仲違いの原因を作った郭汜の妻を処刑し李傕郭汜を髠刑の上で牢に入れた。余りに凄惨な両者の状況に刑が軽くなったと言う。
そのまま大将軍に任ぜられた。盧繁は親族で無い事を理由に一度断ったが真帝劉協の決定により辛うじて頷いたと言う。唯そもそも断る事の出来る状況ではない。
また成人したので袁皇后、董貴人、蔡貴人、呂貴人を妻に迎えた。
涼州征伐
朝廷の強い要望により涼州へ出征し馬騰韓遂および王宏を討った。
此の戦いについては『琢書』では馬騰韓遂が征伐を知り先手を打とうと進軍した結果、盧繁と偶発的に接敵し撃滅され、そのまま追撃を受けて壊滅したと言う。
また『中漢書』では「預祖盧公、行征涼州、帰持三首、神速之極」と記されており、「盧繁は涼州を征しに行き首を三つ持って帰り神速を極めた」とある。
徐栄を益州の押さえに残し帰還した。此の時に張魯を寝返らせ、法衍を益州へ埋伏の毒として送り込んでいる。此の後は将兵を休ませた。
呂布征伐
涼州の賊を討った事を祝し改元することが決定。健安元年(196年)に将兵の休息と兵糧物資の準備を整え呂布征伐に向かった。
呂布が小沛に駐屯した為に盧繁は大多数の兵で包囲させ、自身は大半の騎兵を率いて敵本拠地の下邳城へ急行。事前に内応していた郭萌と陳宮に城を任せ小沛城包囲軍の元へ戻っている。
盧繁が戻った時には小沛城包囲軍は大きな被害を受けている状況であった。だがそれを成した呂布は降伏を求めて使者を出しており、朝廷と盧繁はそれを許さず攻撃を決定した為に呂布から一騎打ち。此の場合は盧繁との決闘の申し出を受け討ち取った。
此の決闘については『琢書』では盧繁の懐古した際の発言として「将士として愚行、大将として下劣、然れど唯人として断れず」と言ったとされる。
また一方で『英雄記』や『中漢書』では「預祖盧公、賊舅の呂布と相対して並び立つ。天地を割断し、殴り蹴り呂は飛び打擲は六度。斧と戟が瞬ぜ交り数合も見えず、斧が落ち首が落つ」と戦いの内容が記されていた。
その帰りに反乱軍に与し霊帝の頃から野心を疑われていた元陳国王劉寵を袁術と合流して圧し潰している。
『中漢書』には劉寵が放った弩の矢を盧繁が掴み、射返した矢が城壁で指揮していた劉寵を射抜いたとあるが、弩の矢を弓で放つのは不可能であり恐らく流れ矢の類とされており中漢書の信用を一段落としていた。
しかし東観漢記の逸文が発見され、盧繁が弩の矢を放てる程の強弓を用いた事が記されており、此の部分も事実だった可能性がある。
荊州親征
呂布討伐の最中に益州が徐栄により攻略された。残す反乱軍は袁紹と劉表のみとなり袁紹は既に力を喪失。荊州北部の劉表が最大の叛徒の首領となっていた。
健安二年(197年)盧繁は軍師賈詡の進言から真帝劉協の親征を上奏、劉表は皇族であり戦力もあった為に征伐に同意し進発。
此の出陣の際に盧繁は皇帝の馬を引いて進んだと言い『琢書』では「真帝毅然と車馬に立ちて預祖馬引きて控える」とあり、一方の『中漢書』では「預祖盧公、真帝の車馬を先導せんと願う。真帝断るも忠心故に之を認める。その所業は馬丁なれど姿は帝に勝るとも劣らず」と書かれている。これから始まる十年間の政争の源流と目される記述であった。
尚、親征に関しては荊州に到着して武を競わせたところ劉表が降伏してしまい弓馬神事を行って帰還する事となっている。
反乱鎮圧
健安三年(198年)に青州へ出兵。青州で白虹が日を貫いたという。袁紹を捕らえ車裂きの刑にした。青州は進めば降り城の抵抗もほぼ無かったとされる。それと言うのも既に衝水湖畔の戦いで戦力はなく、樊稠により幾度と襲撃を受けていた。
実際に『琢書』では盧繁の言葉として「兵を送り兵を返す事に労を割き、青州の統治にこそ悩む事となった」とあり、また『中漢書』も戦闘に関する記述は少ない。その為に戦闘そのものは僅かだったのは先ず間違いない事とされている。
譲位預位政争
『中漢書』によると漢王朝は既に衰微しており盧繁という個人によって反乱を鎮められたが命脈が尽きた事は衆目の一致するところであった。その為に真帝劉協は盧繁に譲位しようとしたようである。しかし盧繁が断り琢郡公と九錫を褒美とされるに留まった。
尚、此の事について『琢書』では「真帝御乱心」と記されている。これが後の歴史家達に「簒奪を産んだ善道」や「君臣の戯れ」などと評される譲位預位政争の狼煙であった。また丞相についても盧繁は断ったが、こちらは現実的な側面から拒否できなかった様である。
一方『中漢書』では真帝劉協が譲位の意思を告げ盧繁が断ると天雷が振り、公の位と九錫を受ける事に納得した途端に蒼天が広がり白鳥が飛んだという。
四夷征伐
健安四年(199年)に孫策を交州へ進軍させて林邑の区連を討ち破らせた。そして自身は騎兵を連れて匈奴から并州を奪還。そのまま幽州へ進んで駐屯。
凡そ三年をかけて敵対的な鮮卑匈奴を討ち取り烏桓を壊滅させた。この功績で王にする話も出たが盧繁は断っている。そもそも盧繁は自身が交州に行くつもりだったが子供の誕生で思いとどまった。『琢書』の内容を見るに王にされそうであった為に逃げようとした様である。
健安七年(202年)に華北が平定され盧繁は琢郡に帰還。薊県で友好的な異民族との会合を行い盧繁が幽州で行った異民族政策の追認として集まった有力者達を単于とした。その際に単于と小単于に分け分割統治の素地を作っている。単于は人質を出す事で薊県への駐屯と交易が許され、彼ら異民族からの人質の世話は手厚く行われた。
また盧繁は麾下の異民族を大単于とし漢中での商業活動を許可している。
健安八年(203年)盧繁は隠居を申し出るが年齢を理由に拒否された。代わりに盧繁は反乱の鎮圧は成ったとして大将軍の印綬を朝廷に返却。白波兵や黒山兵および麾下の騎兵を琢郡に帰した。その際に武装の大半を朝廷に献上している。
また上奏して幽州の東部を平州、涼州の東部を雍州、益州の南部を寧州とし屯田都尉を設置。隣州から集めた兵戸の者達を指揮させ開墾および屯田を順次各州で行わせた。これは二十年の歳月をかけて形にしている。『琢書・田豫伝・法正伝』『中漢書』
尚、当初この政策は琢郡で白波兵や黒山兵および盧繁に付き従った異民族騎兵を用いて検証されており平州、并州、幽州、冀州で最初に行われた。『琢書・田豫伝』
健安十年(205年)真帝劉協が禅譲を発布。盧繁が天下を乱してしまったと琢郡に自主的に蟄居した。譲位を推進する劉協派閥と譲位を阻止する盧繁派閥の政争が最も激化した時期である。
盧繁が政務を放り出した事で天下に激震が走り真帝劉協は譲位を撤回。しかし今度は真帝劉協の方が断食の上で未央宮に引き篭もった事で盧繁は慌てて帰還した。
政務を行いながら何とか真帝劉協を引っ張り出そうとしたが叶わず、賈詡の進言を受け王となる事を了承して劉協の逼塞を辞めさせている。
『琢書』では「天下此れ真帝也、天下劉家こそ望み、天下盧家を望まず。天意を背負いては陛下の心労を解す。されど天意に逆らうを良しとせず」と書かれている。
一方『中漢書』では「天意は預祖盧公の元に有り、また真帝は天子の責を知る。以て真帝食を断ちて天意を伝える」とあり、また派閥に関しても譲位派が非常に多かった様で盧繁は追い詰められていった。
健安十二年(207年)に長年の功績を讃え参拝不名、入朝不趨、剣履上殿を許された。しかし盧繁はそれらを欠かさなかったという。ある人は朝議で当塗高を持ち出し盧繁を諌めたが逆に言い負かされ劉協に取りなされた。
特に詳しく書かれている『琢書』によると「以前にも申し上げましたが漢に変わるは当塗高とあります。十余年近く陛下も天下万民も其れを盧王と考えている。何せ天下騒乱の道中にあって貴方ほど高く在られた方は居ない。如何か陛下を思い、万民を思い、陛下の意を汲まれませ」と言われ盧繁は「私の姓は盧、名は繁、字は子昌である。当も無く、塗も無く、高も無し。なぜ当塗高など言えようか。翻意と取られかねぬ言、迷惑千万である」と返したとされる。
禅預
健安十三年(208年)胡亥や孺子嬰の例を出した真帝劉協と息子を簒奪者にしたいのかという賈詡の説得を受け入れ盧繁は帝位に着く事を漸く了承した。しかし禅譲ではなく帝位を預かると言い放ち禅譲ではなく禅預だとゴネて劉氏に必ず帝位を返す事を了承させている。
『琢書』では一族に事ある毎に「琢とは玉を磨く字である。故に帝位という至宝の玉位を盧に入れ預かり磨き上げて返上するのだ。天下もまた分不相応に預かるのみ。それを努努忘れるな」と言ったとされ事実として十三代返帝盧樹により後漢初代皇帝返帝に帝位が返されている。
また跡を継がせた盧延を始め一族には皇帝の仕事を必ず手伝わせ、皇帝という立場の危険性と責任について長々と語っており、『琢書』では非常に長大な帝位への不満と子孫への詫び言が残され研究者を辟易とさせた。
真帝劉協は漢中皇王とし劉辯を沛王とした上で真帝劉協には皇帝の時と同じ生活を保証している。厳密に言えば盧繁が全く言及しなかった為に真帝劉協が自ら賈詡と相談の上で皇帝の権威等を放棄した。それでも盧繁は真帝劉協に対して皇帝にするべき対応を堅持した上に一族にもそれを不文律として言含めている。
壮年期
その後の盧繁は息子盧延や劉安などを側に置き政務を見学させ後進を育てた。屯田を広げ銭を流通させ道を整備し治水事業なども完遂させている。また小規模な反乱や異民族の攻撃を返討ちにして平定した。
老年期
劉安が帝位を拒否した事ことから盧延に帝位を譲り老皇を名乗る。
また袁皇后との子盧延の息子盧広を汝南王とし、董貴人の子盧韋を隴西王に、蔡貴人の子盧階を陳留王に、呂貴人の子盧虎を五原王として其々を宮殿の四方に建てた汝南宮、隴西宮、陳留宮、五原宮に住まわせた。また次男以降も長男と同じ封地名を冠したが公として別途食邑を与える事にしている。
沛国王を加えた五王家は食邑一万戸を上限として漢中皇王のみ一万五千戸とし、劉家が帝位に無き場合に限り盧王家より帝位に着く事を言含め、また王家の中からのみ皇帝を出す様に言い付けている。
老皇として唯一の政治的行動は人材登用の素地作りだった。文官の選定を厳格化させ博士弟子の射策を参考に試験を導入、不合格者は劉家や盧家であっても文官職から外され、これは幾度かの改訂を経て後の科挙の元となっている。また州毎の大学と郡毎の塾の設置を行い官吏の養育を指示。
これと合わせ爵位と食邑を再度直結させた。盧繁に合わせ以前から食邑の返上が行われており五王家の食邑が決定された背景があったとは言え豪族の反発もあった。しかし食邑が数千の規模でそれ反対意見を述べる以上のことは出来なかった様である。これにより盧王家に権力が集中。盧王家は少なくとも幼少期は首都で過ごした為に結束が硬く成っている。また盧繁に倣い皇帝の仕事を学ぶ前に四方へ行き見聞を広める事を絶対とした。
甘露五年(260年)に崩御。遺言として「簒奪者には哭も不要、喪も不要、副葬など以ての外。ただもしも辛いと思ってくれるのなら白帯を三日巻いて欲しい」と述べた。しかし白帯を巻く事以外は異民族に至るまで誰も従わなかったと言う。
人物
非常に整った顔立ちで体躯立派で勇壮だったという。洛陽では周瑜と共に街を散策し優美と勇美の両雄と噂された。
非常に知性に溢れていたが温和かつ大らかで冗談を好んだ。加えて気安く飾らない質であり分け隔て無い鏡の様な性質を持っていた。人を悪様に言う事は先ずなく非常に慈悲深い人柄だったという。
しかし怒らせた場合は非常に短絡的かつ突発的に動いた。その場合は大抵の場合で敵軍が壊滅し賊の首が切られている。
剛力無双、人外の武、万軍不敵と評されるほどの怪力で知られる。鍛錬に大岩を殴り続け砕き石闕を作ったという。稀にだが当時の副葬品に大きな拳の痕が残る岩が出てくるが、それは盧繁の鍛錬に用いた石であるとされ科学的に否定されていない。
この為にどれ程に立場が上がっても最前線に出続けており、しかしそれが許容される空気が出来てしまった。
『笑話集』『戦覚書』『礼政融折案』など数百の書物を残したと言う。散逸した物も多いが写本などで大半が残っている。
極めて大食漢であり食べようと思えば馬と同じ程に食事を取れたと言う。帝位を譲ってからは料理を良く作り家具を作っていた。客人の為に寝台や食事を用意する事を何よりの楽しみとしたと言う。
子供や孫の育成に積極的で十五を超えた頃から政務を見せていた。またそれには劉家の王子達も招かれており誰も帝位を継ぎたくなくなったと言う。勤勉を通り越して恐怖されていた。
琢王朝が官撰によって残した『琢記』では漢王朝こそ正統として琢王朝は天下を預かっているだけである事を何度も記していた。寧ろ卑下とまで取られる記述が見られ、逆に真帝劉協の書かせた『漢記』では盧繁を異常なまでに賛美する内容が書かれた。また一豪族の残した物で残っている物はほぼ漢記の記述が近しい。この珍妙な状況は漢王朝と琢王朝の間でしか見られない。この事から盧繁は本気で帝位を嫌がっていたのではないかとされる。
また盧家は儒学の家であった為に書物を事の他に大事にした。陳寿などの著者に援助を与え歴史書を好きに書かせたと言う。誹謗中傷の類は許さなかったが極めて自由に書くことができた様で謝承の『謝承後漢書』には「暴食無尽」と言う暴言とも取られかねない表現があり逮捕されたが盧繁が笑って許している。その後に実際に巨大な鼎に粥を作らせて瞬く間に平らげ「有りのままを記されよ。起きた出来事を愚直に残す事こそ好ましい」と激励を送った。
評価
当時の評価
徐栄は評価を聞かれた際に「同郷と言う事を差し置いて彼程に将兵に慈悲深い将は居ない。また同時に頼もしさが恐怖にまで至るのは彼だけだろう」と評した。
賈詡は李傕郭汜が暴れた際に「盧北中郎将が帰って来る事が分かっているから李傕郭汜の騒乱はこの程度で済んでいる。戦場に出た事のある人間で彼の御方の怒りを買う事の愚かさを知らぬ者は無い」と言った。
軍略の師であった曹操は呂布との決闘を見て「戦は将兵など用いず万事大将軍御一人で良いのでは無いか」と言ったとされる。
蔡邕は嫁ぐ娘に「子昌殿の隣は天下の半数から嫉みを受けるだろう。しかし離れてはならない。彼に尽くし彼の隣を平穏にする事に努めよ」と激励した。
友である周瑜は孫策に「盧繁ほどの勇者は無く、盧繁ほどの知者はなく、盧繁ほどの天真無し」と言っている。
真帝劉協は帝位を断る盧繁に対して常々「完璧を人とすればそれは盧繁の事であろう。徳は天より高く、心は海よりも広い。見目天祐、武勇天祐、才知天祐。帝位を持たずして何とするか」と不満を漏らしていた。
盧延は孫の盧殖に対して「私人として慈並ぶ者無く、公人として厳並ぶ者無し」と語っている。
『七国志』を記した陳寿は「徳は天下に轟き慈は天上を突く。勉学を良くし親愛は深く武勇は人智を超えた。欠ける事など無く論ずる術もない」
後世の評価
一貫して英雄として扱われる。人外の傑物として畏敬されると同時に好まれた。ただ否定的意見が全く無い訳では無く禅譲簒奪の先例を後の悪人に示してしまったと言う評価も僅かながらにある。
希少な例だが後漢十六国時代に後漢最後の皇帝である後文帝を圧殺した王偉に対してある人が「後漢の皇族を討った貴方の末は如何なるか。それは臣にはわかりませぬ。しかし裔の先は決まりました。盧公を真似られずとも倣うべきでは御座いましたな」と言って王偉の元を去ったと言う。王偉は「それが出来るのは神仙のみである」と答えたとされる。その後に王偉は琢王盧琳により討ち取られたがこれを以て唐宋八大家の欧陽脩は「中華の世の徳は漢王朝から琢王朝へ渡り、琢王朝から漢王朝へと帰り途絶えてしまった。高徳の行いが不徳を助けてしまったのだ」と嘆いている。
『金楼子』では周瑜の見解として「光武帝は神の如き知謀を持ち勇帝は神の如き武勇を持った。彼等の家臣は韓信、周勃に並び張良、陳平に劣らないが賞賛の受け難い功績を重ねる事になったのだ。光武帝の家臣は難事を未然に防ぎ勇帝の家臣は治世と輜重に努めた」と記す。
この様に盧繁は基本的に光武帝と並び称された。
逸話
後年こと劉協と協力して賈詡が帝位禅譲を推し進めていた事を知らず、それを詫びられた際に盧繁は宮殿を震わせる程に絶叫したという。「絶対裏切りは許さぬ」と言ったとされるが特に罰はなく強いて言えば一月の間、賈詡は不満そうな顔を向け続けられた。
宮殿を抜け出して飯屋により城下の民達とよく関わったと言う。当然の如く刺客に狙われたが大抵一人で片付けてしまった。また腹を空かせた子供がいると直ぐに食べ物を分け与えたという。
非常に愛妻家であった。袁皇后が貶された際に激昂し讒言した何顒を締め上げている。また袁紹を事の他嫌った理由の一に『中漢書』や『琢書』に加えそれらの先行資料群にも残っている通り妻の立場が危うくなった事も含まれていた。
また董貴人、蔡貴人、呂貴人についても逸話や史書などに事欠かないが、特に蔡貴人については音曲などの文化活動に敬意を払っている。
また公人としては厳しく長男以外を順次爵位を下げ皇族であるからと食邑を与える事を良しとしなかった。しかし私人としては非常に気を配っており、子や孫に頼まれれば師の斡旋し暇があれば自ら様々な事を教え、何かがあった場合は即座に駆けつけたと言う。
周辺の異民族は盧の字を殊更に恐れた。琢王朝の間は異民族の侵入や反乱が激減した理由とされている。実際に後漢になり内側から崩れさる迄は非常に盤石だった。琢王朝は凡そ二百五十年続き後漢も百年程続いたがそれだけ異民族に恐れられていたのである。
七国志演義
賈詡と周瑜が入れ替わる。また曹操を師と呼んでいないなどの改変があるが概ね史実と相違ない。圧倒的な強さと親しみやすい人柄で今でも人気が高い。
父母
盧植(贈コウ氏公)
催氏
兄弟
盧延(贈鄴王)
盧毓(薊公)
妻子
袁皇后
長男:盧延(文帝)
次男:盧林(汝南公)
女子:盧祝(汝南公主)
董貴人
男子:盧韋(隴西王)
男子:盧泰(隴西公)
女子:盧宝(隴西公主)
蔡貴人
男子:盧階(陳留王)
女子:盧寿(陳留公)
女子:盧福(陳留公主)
呂貴人
男子:盧虎(五原王)
女子:盧清(五原公主)
男子:盧晴(五原公)




