3 昨日振りの再会
学園は休みたい、けれど学園を休んだら彼に会えない。
一目だけでいいから彼の姿を、彼の瞳をまた近くで見たい。
私は何とか自分を立て直し、朝の支度をして登校した。馬車を降りる時、学園で彼を見つけるかもしれないと思うと胸がドキドキしていたが、校舎へと向かうたくさんの生徒の中に彼の姿を見つける事は出来なかった。
昨日彼と出会った階段を上った時にあの枝を見たのだが、ペンダントはもう無くなっていた。きっと朝の光に反射して光っているペンダントを鳥がまたどこかへ持っていったのだろう。とりあえず帰ったら領地にいる両親にペンダントを失くしたと報告をしないといけない。
「おはようございます、アネットさん。ペンダントは見つかりまして?」
背後から来たサラさんが私を見つけて声を掛けてくれた。
私たちは並びながら歩く。
「それが見つかりませんでしたの。また後で学生課に行ってみますわ」
「そうですか、見つかるといいですわね。ところで今日は外国語のテストがあるでしょう?筆記だけではなく先生との問答もありますから、それが心配で今から緊張してますのよ」
「私なんて昨日は何も勉強していませんわ」
「まあ、でしたら朝のうちでも勉強をされた方がよろしくてよ」
こうやってサラさんと話していると、昨日の事なんて忘れて日常が戻って来たような気持ちになる。これまで私は静かにひっそりと生きてきた。感情の荒波に飲まれる事も無く、穏やかな日常が私の愛すべきものだった。
けれども私は知ってしまったのだ、世界が変わる瞬間を。
きっと私は彼のことを探してしまう。私から彼に声は掛けられない。けれども私はきっと彼を見る事はやめられないだろう。彼が他の女性に笑い掛ける姿を見て身が切り刻まれそうな気持ちになったとしても私は彼を見る事がやめられない。そんな強い気持ちが私の中にいつの間に芽生えてしまっていた。
サラさんと話しながらゆるやかな坂道を登っていたら、あっという間に校舎に着いた。
エントランスの正面には広い階段があり、それを上がると二年生の教室が並ぶ。手前から4組、3組、2組と並び、空き教室を3教室分挟んだフロアの一番奥に1組の教室がある。高位貴族ばかりが在籍している1組の生徒たちが使うのはエントランスのとは反対側の先にある小さな階段なので、私たち低位貴族の生徒たちが1組の生徒と交流する機会は少なく、お互いに顔も名前も知らないまま学園生活を送っていた。
エントランスの階段を上ってすぐにある4組の教室の前は2組から4組までのほとんどの生徒が通る。その4組の教室を背にして、階段を上がってくる生徒を見ている生徒がいたので、ついそちらに視線を向けて相手を確認した途端、私は立ち止まってしまった。
「アネットさん、どうしましたの?」
「………」
胸が詰まるような感じがして私は声が出せなかった。
私を認めた彼が、私のところまで歩いてくる。
私は何を言えばいいのだろう?まず彼に謝ればいいの?それとも彼にこの苦しい胸の内の気持ちを伝えてみる?
私の中で色々な思いがぐるぐる回っているうちに、彼が目の前まで来てしまった。
「フォール嬢、だよね?」
「……はい」
「少しだけ、いいかな?」
昨日の彼は、ほろ酔い状態のように上気して赤く染まった頬を見せてくれたが、今の彼は冷静で貴族としての仮面を被っている上にインテリ風の眼鏡を掛けているので、余計に表情が読みにくく感じる。
私は無言で頷いて、彼の後に続いた。
教室へ向かう生徒の流れに反するように私たちはエントランスの階段を下りて外へ出る。校舎裏の人気の少ない場所まできたところで彼が立ち止まった。
「昨日は遅かったから養護室へ寄らずにすぐに帰したけれど、怪我はしなかった?」
ああ、やっぱり素面でも彼は優しい。
「だ、大丈夫です。それよりも貴方はお怪我はなさいませんでしたか?」
「うん、俺の方も大丈夫だよ。それと、これ…」
そう言いながら彼はポケットから私のペンダントを出して見せてくれる。よく見ると彼の髪には小枝が絡んでいた。彼自身が木に登ってペンダントを取ってくれたのかもしれない。
「あの、枝が」
ペンダントよりも彼の髪に絡まった小枝が気になった私は、つい彼の耳元の辺りへ手を伸ばしたら彼の体がびくりと小さく揺れた。
「ごっ、ごめんなさいっ」
慌てて私は手を引いて彼に頭を下げる。名前も知らない彼に不用意に彼に近づき過ぎてしまった。
「い、いや大丈夫。突然で驚いただけだから」
そう言いながら彼は自分で小枝を取ってしまう。残念に感じながらも私は彼の表情を盗み見てしまう。レンズの奥にある彼の瞳は今日も深い青色をしている。朝の光を受けた彼の瞳の濃い青色を、昨日よりもよりもはっきりと見る事が出来た。
「…綺麗な色ですね」
「え?」
思わず呟くように言ってしまった言葉を聞き返されて私は慌てて空を指差した。
朝の空は彼の瞳よりもずっと薄い青で、それはそれで綺麗だけれど私には足りない。
「今日は……お天気がいいから空がっ、すごく綺麗だなって思ったんです」
「ああ、そうだね。それよりもこのペンダントはフォール嬢の持ち物でいいんだよね?」
「そっ、そうです!昨日ずっと探していたものです。お手数をお掛けしてしまい申し訳ありません。わざわざお持ち下さってありがとうございます」
彼が緑色のペンダントを私の手の平にそっと乗せてくれた。このペンダントが体に触れていれば私の魅了の能力は発揮されない。
もう一度魅了をかけてあの時の彼をまた見たい、そう一瞬だけ考えかけたがすぐに思い留めて、ペンダントをぎゅっと握りしめる。
このまま別れを告げれば、私の初めての恋は誰にも知られないまま本当に終わってしまう。
少しでも長く彼のそばにいたい私は自分からさよならとは言えなかった。
きっともうそろそろ予鈴が鳴る。せめてそれまでは彼と同じ場所にいたかった。
「………」
「………」
少しの間お互いに見つめ合ったまま無言の空気が流れる。私はある事がふと頭の中に浮かんだ。
「あっ…」
「えっ、何?」
突然声を上げた私に驚いたように、彼が私の言葉に反応する。
「…あのっ、もしもご迷惑でなければなのですが、今回の事でお礼をさせていただけないでしょうか?」
「あ、ああ。なるほど……。そろそろ授業も始まるから、その件は昼食を食べながら考えよう」
そう言って校舎へ向かおうとした彼を私は呼び止めた。
「あのっ、そっ、それと教えていただけませんか?」
「ん?」
「お、お名前を存じておりませんっ!」
自分の心音が強く高まって行くのを感じながら、私は彼に一番聞きたかった事を尋ねる。
彼は私の言葉にきょとんとした表情を浮かべた後に苦笑する。
「そうだった、まだ名乗っていなかったね。俺の名はレオンス・ラヴェル、よろしく」
そう彼が言った時にちょうど予鈴が鳴り響く。私たちは慌ててそれぞれの教室へ向かう。彼はやはり1組の生徒だった。
(……レオンス・ラヴェル様)
私は教えてもらったばかりの彼の名前を心の中で呟いた。
ラヴェル家というと伯爵家だったはず。私は彼の家の爵位が思っていたよりも高過ぎなかった事に安堵した。