市場から宮殿へーラ・ヴィ・ドゥ・ラ・ロゼイユ
あれ、昨日は何があったんだっけ...
眠たい目をこすりながら無理やり半身を起こそうとすると、ベッドがやけに柔らかいことに気づいた。
いつも寝ている荒布の毛布がこんなに心地いいはずがない。それに朝なのに寒くもない。
(いや、そんなことよりもすぐ朝食を作りに行かないとお義兄さまたちに怒られ....ん?)
そこまで考えて辺りを見回した時、ようやく昨日の事を思い出してきた。
「そうか、俺は...宮殿にきたのか」
天蓋付きのダブルベッドを降りると、部屋にはアンティーク調の化粧棚や鏡それから絨毯が敷かれている。
部屋そのものは狭い方だが、それでも屋根裏部屋に比べれば広く感じる。
窓の外を覗くと、奇麗に整備された庭園が見えた。いつもただ眺めていただけの場所に今いる、それだけで興奮して仕方が無い。
服を着替えようとして立ち上がろうとした時、扉を引っ掻くような音が聞こえた。
不思議に思って恐る恐る扉を開くと、数人の使用人らしき人と貴族らしい人が立っていた。
「おはようございます、ロワール侯爵閣下。これより私達が貴方のお世話をさせていただきます」
「え?は、はい...いや、俺、宮殿の使用人のはずでは?」
今まで受けたことのない丁寧な扱いに戸惑っていると、一番貫禄のある使用人が笑顔で答えた。
「ええそうですが、貴方はロワール侯爵家の当主でもある。宮廷貴族としてこの宮殿内で殿下に仕える様にと仰せつかっております」
状況が良く分からなかったが、どうやら俺は使用人ではないらしい。となると他の貴族のように公務を行わなければいけないのだろうか?政治や経済の事など分からないのだが...
「ともかく、宮廷貴族となられたからにはここの慣習を守っていただかねばなりません」
そう言うと、彼の合図で周りの使用人たちが俺の服を着替えさせ始めた。
「ふ、服の着替えくらい自分で...」
「なりません。これが彼らの仕事ですので」
少し恥ずかしいが、貴族らしい扱いも悪くはない。
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服も着替え終わり、一通り身支度が終わると殿下が目を覚ましたようで会いに行くことになった。
部屋の外に出ると、辺りは豪奢な装いの貴族たちで溢れていた。
使用人が忙しそうに動き回り、貴婦人たちが会話に花を咲かせていた。
「貴方は”起床の謁見”には参加できませんが、これから行われる”着服の儀”の参加が許可されています。こちらへどうぞ」
言われるがままに、王家の回廊を抜け王太子の寝室にたどり着くと扉の前には十数人もの貴族たちが列をなして群がっていた。
「一体どうなって...彼らは何をしているのですか?」
「見ていればお分かりになるかと」
しばらく待っていると間もなくして侍従が扉から次の儀式に移ることを知らせた。
名前を呼ばれた数名の貴族たちと共に俺も中へ入った。
「おはようございます、王太子殿下。最近は暑くなって参りましたので、緑を基調にした新しいコーデを考えてまいりました」
「ん、見せろ」
ひと際派手な装いの貴族が用意していた服を自慢げに見せた。
「”グラン・ガルティエ”に特注で作らせた一品です。フリルは古典的な様式ではなく新しい”ヌーヴェル・シック”を採用しておりまして、さらに宝玉を...」
「下げろ。そもそも緑は好かん。他の服を持ってこい」
得意げに話す彼はその一言で押し黙ってしまった。まるで死刑宣告でも受けたような表情だ。
「殿下。私のご用意したこちらはいかがでしょう」
すると部屋の後方にいた、薔薇を身にまとったこのような可憐な姿をした貴婦人が前に進み出た。
「全体的に水色でまとめました。メルクリオ産の生糸を使った”ソレッレ・アズーロ”の最新作で、被服技法はもちろん伝統的なものを使用しております」
彼はようやくベッドから起き上がり、品質を確かめる様に手で触れる。
「...これはいくらで買ったのだ?」
「1500エシェルでございます、殿下」
(1500だって!?)
俺は耳を疑った。それだけあれば、地価が高騰してるロゼイユでも家を持てる。
「ふん、悪くはない。今日はこれを」
「光栄にございます」
それからも靴選びだの、ハンカチーフ選びだの服を選ぶだけでそれぞれの貴族がプレゼンをする大会とかしていた。
結局、着服の儀が終わったのは1時間後だ。
(もしかして、宮殿って思ってたより大変なんじゃ...)
庶民の方が楽かもしれない、そんなことを考え始めていた。
支度を終えた殿下は周囲を見渡し、俺と一瞬目が合ったように感じた、がすぐに朝食の儀のために臣下たちと共に部屋を出て行ってしまった。
俺もついて行こうとしたその時、背後からの声に呼び止められる。
「あら、貴方見ない顔ですわね。どこからいらしたのかしら」
振り返ってみるとそれは先ほど殿下に服を献上した貴婦人だった。
話し方や立ち振る舞いからも高貴さが伝わってくる。
「あ、えと... 俺はエリゼ、です。昨日宮殿に来たばかりでして..」
「ふぅん。どなたの従者かしら?」
彼女は全身をチラチラと眺めながら見定める様に言った。
身なりから使用人と思われたようだ。
「いえ、俺は一応ロワール侯爵なんですが...」
「え?侯爵なの?あ、あらごめんなさい。あんまりにも若いから私てっきり...」
彼女は自分を恥じる様に髪をかき上げて笑う。
「コホン、ジャンヌ=シャンパーニュ・ド・ソルボンヌよ。これからよろしくね」
「お、お願いします」
さっきの態度よりは幾分か親切になったが、今度は子供に接するような話し方になった。
「貴方はここにくるのが初めてのようだから、色々と教えてあげるわ。こっちへいらっしゃい」
彼女はそう言うなり、部屋を出て殿下が通った道とは逆方向に進んでいく。
「あぁ、お待ちを!」
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「.......とこのように申しておりまして、如何がいたしましょうか?」
王太子の執務室で、大法官が言いにくそうに告訴状を読み上げていた。
そこには”不起訴”と黒文字の捺印が押されているのが分かる。
「どうするもないだろ。そんなものは無効だ!共和派の奴らを野放しにするなど許してたまるか!」
「そう仰いましても...その、私ができることは承認することだけでして...」
舞踏会が行われている間に宮殿には高等法院からの不起訴通知が届いていた。
この間捕らえられた共和派の集団についての件である。
「はぁ? 何故だ。司法は王権に基づくはずだろ。なぜ奴らが決めるんだ」
「...確かにそうですが、それは表向きであり実際に司法行為を行うのは高等法院なのです。これはアンリ良王様がお決めになった伝統ですので...」
宰相の言葉に彼は理解できないといった様子だ。
アントワーヌにとっては王に堂々と背く公的機関があるということが信じられないらしい。
「とは言え、今回の件は確かに妙ですな。これまで共和派の事案は全て最高刑が課されていたというのに」
「そうだろう!? こんなことは認めんぞ。アルジョントレ!今すぐ罪人どもを引き渡すよう法院長に言ってこい」
「えぇ...?いや、しかし...」
彼は権限上不可能なことを言われて戸惑っていると、アントワーヌは呆れたように返した。
「できんのか?もうよい。そもそも司法が王に背くこと自体がおかしいのだ!俺が直々に異議申し立てを行おう」
「そ、それはなりません、殿下。高等法院はかねてより宮廷から独立した市民の領域。それに王族が介入したとなれば...」
フィリップは慌てて阻止しようとする。ただでさえ国民不人気が強いアントワーヌが表立ってそんなことをすれば恰好のゴシップとしてロレーヌ紙の記事にされることは分かりきっていたからだ。
「なんだ?では王太子があの愚民どもに無能と罵られることを黙認しろと言うのか、貴様は」
「そういうことでは... ただ不用意に刺激するのは危険です。彼らはサン=ジュヌヴィ市民に信頼されている」
アントワーヌはしばし沈黙し、やがて不満げに言い放った。
「ハッ、王への反逆を許すとは、アンリ良王とやらのせいで我が国は滅ぶだろうな!」
吐き捨てる様にそう言うと、彼は一方的に去って行った。
こういったことは初めてではないが、フィリップは内心心配していた。本当に法廷に乗り込みかねないと。
「宰相閣下... 大丈夫でしょうか...?」
「はぁ。問題ないだろう。殿下はいつもああいうことを言うが一度も実行に移したことがないからな。
しかし、先が思いやられるな、じきにこの国の王になるというのに」