第二百九十七話「夢のような時間(下)」
――眠くなってきた。あまりにも心地が良すぎる。暖かく優しい風が肌を撫で、ほのかな香りが鼻をくすぐる。疲弊しきったこの身を包み込むように柔らかい太ももに頭を……身体を預けているこの時が何より幸福な事か。
「……」
意識が消えていく。もはや声すら聞こえない。でも、もう慣れた。これまでに比べたらずっと優しく、暖かい。木漏れ日が全身を包み込むような感覚だ。俺が昔からずっと好きだった、あの木漏れ日のような――
◇
――時は生前のまた生前、竜族として天界で過ごしていた、ヤマタノオロチだった頃の事。
俺は竜族最強一家の次男として生を受けたにも関わらず、世界に存在した幼い頃から臆病者だった。なのに兄弟竜族が度々行っていた戦争から逃げていた。その度に他の竜に馬鹿にされて、兄や弟からもそれに対する暴行を受け続けていた。当時竜族を統率していた俺の父はそれに耐えられなくなり、追放した。俺を同じ竜族として見る事を捨てた。家族であることを排除した。
「親父も、兄貴も弟もっ……どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ」
怒り半分、嬉しさ半分だった。もう理不尽な戦いや虐殺に関与しなくて済むし、これですぐさま死ねるなら本望だった。辛かった。ただ生きるのが苦痛だった。一つ呼吸を置くごとに胸に無数の棘が突き刺さるかのように痛かった。こんな痛みをこれからずっと背負うくらいなら、死にたかった。
――あの子と出会う、その日までは。
その日は、たまたま見つけた一本の木の下で眠っていた。太陽が無数の葉と枝の隙間に差し込み、その奥で眠る俺を癒してくれた。天界では雨が降らないため、ずっとここに居座って死ぬ気だった。ここが、俺の墓場だとずっと思っていたくらいに。
「――君も、ここがお気に入りなんだ」
この一言が、俺を変えた。俺の中に、生きる希望が発芽した。目の前にふと現れた、白の衣服に背中の天使のような羽が生えた、淡栗色の髪をなびかせる少女によって。
「……たまたま見つけただけだ」
「そうなんだ。ね、ここ……いいとこでしょっ」
見た目は完全に神族……竜族と対立している、竜族以外で唯一天界で生きる種族だ。その中でも彼女は神族で一番力を有している『女神』と呼ばれる一族の五姉妹の末っ子だ。
「……敵族の俺によく話が出来るな」
「だって、戦争なんてくだらないもん。たとえそっち側から仕掛けたものでも、私達神族が竜族を虐殺していい理由にはならない。復讐なんてしても、生むのは復讐だけだから。だから私は、君を殺したりなんかしない。それに君、これまでの戦争でも見た事無いもん。きっと殺すのが怖くて、逃げて、ここまで一人彷徨って来たんだと思うんだ」
……読まれた。全て、正確に。まぁ本人の前で追放された、なんて言えないだろうしな。
「分かるよ、その気持ち。でも、その気持ちは種族関係なく一番大事なんだよ。それを忘れちゃったら……戦う事でしか全てを求められなくなっちゃうから」
彼女は悲しい顔を浮かべながら呟く。でも、今思えばこの言葉はすごく突き刺さる物がある。いつしか俺も、これを忘れて……戦う事だけで彼女を助け、平和な日々を取り戻すなんて事を求めてしまったのだから。
……俺は大馬鹿者だよ。一度根付いた感情だったはずなのに、いつからこんな復讐なんてしようとしたんだろうな。確かに取り戻したものはある。でも、それ以上に失ったものの方が大きい。それらはもう、どれだけ望んでも叶わない。帰ってこない。
どうやら愚かなのは人間だけでは無かったようだ。人間と竜……二つの種族を生きてきたからこそ感じた。きっと亜玲澄も同じように思っているだろうな。確信はない。でも、そうだろうなと信じたい気持ちの方が大きい。あいつは彼女――エレイナの兄であり、何より俺の唯一の相棒なのだから。
「だから……ね、その気持ちはずっと忘れないでね。せめて君と私だけでも、いつか絶対こんな戦いなんかしなくても平和になれる世界になるように……一緒に頑張ってみようよ!」
――過去に置き去りにしてしまった、果たせなかった約束が木漏れ日と混ざり合い、この身に突き刺さる。僅かな痛みを抱えながら、俺はまた夢の中へ落ちていく。
プツンッ――と、何かが糸のように切れる音を鳴らしながら。




