第二百九十五話「夢のような時間(上)」
「はっ――」
突如目が覚めた。いや、ずっと朱音の膝の上に頭を置いていたから夢に落ちたのかもしれない。
青く澄み切った空。その下の札幌駅前広場で二人きり。電話をかけながら早歩きで過ぎ去るサラリーマン、はしゃぐ子供の手を掴んではぐれないように叱る母親、その光景に微笑む父親。複数人と飲み物片手に話を盛り上げる学生達に指を絡ませて見つめ合う男女……ありとあらゆる人影が、二人の前後左右を横切っていく。
「――懐かしいね」
白のワンピースを纏う、普段よりも遥かに女性っぽい格好をした青の短髪の女性……涼宮凪沙は隣で身体を強張らせている青年の手を優しく握りながら呟く。
「ここで、私は君と出会ったんだ。まだまだ幼い頃の……君と」
「……そうだったんですか」
黒のカーディガンに白のTシャツ、ベージュのチノパンを身に纏う黒髪の青年……黒神大蛇は己の記憶を模索する。無意識に、その中はとてもすかすかになっていた気がした。
「君は、覚えてないの?」
「……すみません。ですが、記憶には無くても、身体が覚えている……そんな気がしてます」
「ふふんっ、何たって素の君を1から鍛え上げたのは私なんだから!」
「そ、そうだったんですか……初耳です」
「え~っ、覚えてないどころか初耳とか言われちゃって……お姉さんショックだなぁ……」
「あぁもう、そんな落ち込まないでください。きっとその事実があってこそ、今の関係があるんじゃないんですか?」
「っ……! うん、そうだね! 絶対そうだよ!」
「切り替え早いな……」
表情をころころと変えていく凪沙に、大蛇はため息交じりの本音を零しながらもふと小さく微笑む。
相変わらず、凪沙さんは変わらないな――と。
◇
あれからしばらく思い出話をして、近くのカフェまで歩いては少し大きめのフラペチーノをお揃いで買い、またしばらく歩いて……これ以上に幸福に満ちた1日は無いだろう。
「ふふっ、いい笑顔だねっ」
「なっ……何すかいきなりっ」
「いや~? 君普段全然笑わないから、何かすっごく新鮮で……嬉しくて。ほんとに私といて楽しんでくれてるんだ……幸せなんだってのが伝わるよ」
「……あまり声に出してほしくないんですけど」
「もうっ、恥ずかしがっちゃって……相変わらずツンデレで可愛いなぁ」
くすくすと笑う凪沙に大蛇はため息をつく。無論、乱れてしまった理性を取り戻すためのものだ。本心を読まれた事で動揺してしまった、己の心を落ち着かせるために。
「……ねっ、次ここ行こうよ」
凪沙の人差し指が指すは、目の前にあるアパレルショップ。左腕につけた腕時計が指す時刻は午後15時25分。まだまだ余裕はある。
「……いいですよ。では寄りますか」
そう言って一歩踏み出そうとした直後、凪沙がぐいっと大蛇の腕に手を回して強く抱きしめる。突然の行動に驚きを隠せない大蛇に、凪沙は余裕そうな笑みを浮かべる。
「ふふっ、男らしいとこ見せようとしてたでしょ」
「っ……別に」
「もう、隠せてないよ? そんな君にこうして私もそれっぽくやってるんだけどなぁ~。ほら、行かないの?」
「っ……」
周りの視線が槍の如く背中に突き刺して来る。控えめな胸を腕に押し付け、見事に理性を煽ってくる凪沙に、大蛇は破壊される理性を必死に保つ。
「ねぇねぇ、は~や~く~っ!」
「あぁもう……早く行きますよ! せいぜい迷子にならないようにその腕離さないでくださいっ!!」
もう何もかもが吹っ切れ、もうどうにでもなれと言わんばかりに大蛇がまっすぐアパレルショップの中へと入っていく。顔を赤くしながら怒る大蛇の姿に、凪沙は愛おしさを隠せずにいた。
「――これが、あいつの望んだ世界……だったんだな」
「えぇ……一度奪われ、それでも取り戻した、本来在るべき世界でもあるんだね」
そんな大蛇達の後ろで、優羽汰と日織が微笑ましくその背中を見つめていた。




