第百二十三話「地獄絵図」
――真っ暗な視界にぷかぷかと浮く身体。夜の海にただ一人身体を預けるが如く力が自然に抜けていく。
(畜生っ……催眠系の魔法をかけられたのか。一先ず早く目を覚まさないと北条が何しだすか分からないな)
そうか、ここは夢の中か。それにしては異常に身体の感覚を感じる。実際にここで生きているかのような、そんな感じに。
「――あら、まだ生きているのね」
「……!!」
背後から禍々しい気配と共に聞き覚えのあるような声が聞こえた。振り向いた途端、真っ暗な視界が真っ白に染まっていく。目の前には全く見覚えの無い少女の姿がくっきりと映っていた。
「……お前は誰だ」
「誰だ……なんて、ひどいわね〜。元々私の恋人だったじゃない」
「は……?」
嘘だ。そんなわけがない。真っ白に染まった髪に漆黒のスカートを身に纏うあの少女が俺の恋人なわけがない。
「信じてないのね……ま、無理ないわよね〜。だってこの姿を見るの初めてでしょ。似合うと思わない? このスカートとか」
そう言いながら少女はスカートをひらひらと揺らす。刹那、少女の足元から植物の根が生え、漆黒の花を咲かせては黒い針のようなものを飛ばす。
「っ――!?」
あまりに突然過ぎる攻撃に反応すら出来ず、針の痛みにうずくまる。目の前の白い地が真っ赤に染まる。全身が震える。力が入らない。
「あら、ごめんなさいね。思わず有り余った魔力が漏れちゃって……まぁどの道こうする予定だったしね」
「一体俺はお前に何をしたっ……俺に何の恨みがあるというんだ!」
全く力の籠もらない声で少女に叫ぶ。あまりに小さな声をも少女は聞き取った後、まるで悪魔のような嫌らしい笑みを浮かべながら……
「恨みなんて無いわ。だって貴方は私の恋人だもの……でも、これが本当の私――貴方が時と魂を越えて愛したエレイナ・ヴィーナスなのよ」
「ふざけるなっ……! お前はエレイナではないっ!」
「なら見せてあげる……エレイナである証拠を」
少女がそう言った直後、一瞬だけ強い光が目に差し込んだ。思わず手で遮ってすぐ降ろした後、思わず驚きを口にしてしまった。
「嘘……だろ…………」
前まで黒い少女が目の前にいたはずなのに、今では同じ場所にいつも見慣れているエレイナの姿があった。女神のような純白のスカートに天使の翼、そして淡い栗色の長髪に白い肌。それを見た途端、俺は絶望を覚えてしまった。
あの黒い少女はエレイナであるという事を――
「……ずっと隠してて、ごめんね。もう君の知るエレイナ・ヴィーナスはここにいないの。だから……」
――死んで、大蛇君。
「――!!」
エレイナが右手を横に振り払う。刹那、勢いよく吹く風が俺の身体を粉々にした。痛みすらも感じさせずに、無慈悲に、愛情すら与えずに。
……これ、夢なんだよな。夢なら早く覚めてくれ。こんなの悪夢なんてものじゃ計り知れない。地獄だ。地獄絵図以外の何者でもない。
誰でもいい、早く俺を起こしてくれ。助けてくれ。1秒でも早くここから抜け出させてくれ。
「――何であの時、私を殺したの?」
あの時……そうか、俺は最初の頃に自分の命と共にエレイナを殺したんだっけ。あの時の事、まだ恨んでたんだな。
「いくら私達の命が危ないと言っても、狙いは大蛇君だけだった。本来私はあそこで死ぬはずなんて無かった。だって狙ってたのは私の家族なんだもん。当たり前でしょ?
なのに君は私を殺した後に自分でその命を絶った。本当に自分勝手だよね。他人の命より自分優先なんだ。それで他人を死の運命から避ける? 宿命に反逆する? 馬鹿馬鹿しいにも程があるわ」
更にもう一度風が吹く。更に身体が小さくなっていく。もはや俺の身体は飛び散る鮮血すらも塵と化していた。
「なら私も同じように、自分勝手に大蛇君を殺すわ……さよなら」
――どういう風の吹き回しだ、エレイナ!
北条に何か吹き込まれたのか!? 目を覚ましてくれ! 俺は決してお前を――――
また、風が吹いた。ラメのように輝く光の風が容赦なく塵となった全身を消し去っていく。ここにもう俺の姿は無い。
エレイナは元の禍々しい姿に戻った後、ただ一人笑っていた。
「ふふっ……本当の地獄はここからだよ、マイダーリンッ♡」
それは重すぎる愛か、あるいは殺意か。はたまた呪いか。
闇に墜ちた女神は今消えし地獄に墜ちた英雄を嘲笑う。
もうそこに、恋人としてのエレイナは面影すら完全に消えていた――




