花房猫
ひとまずの標的を花房猫に定めた二人が、足跡などの痕跡を残した個体を追うこと暫く。日が天頂から少しだけ傾き始めた頃合いで、二人の目はそれを捉えた。
太い木の根元で、身体を丸めて休んでいる一匹の獣――花房猫だ。
大きさはおおよそ、大型の犬よりも一回り大きいくらいだろうか。濃い緑の体毛に覆われた身体はまさに猫のような見目をしているが、その背中からは薄桃色の花房や体毛と同じ色の蔦がいくつも生えて垂れ下がっており、猫とはまったく異質の獣であることを物語っている。
うとうとと微睡み、安寧に浸っている様子の花房猫の周囲を彩るのは、ベッドのように地面に敷き詰められたふわふわのクミの実と、それを飾る幾枚かの赤金色の鱗だ。これこそが、特徴的な花房猫の巣である。
花房猫は通常、こうして巣にいることが多い。半植物性であるこの魔獣の摂餌行動には、経口摂取によって木の実などを食べる場合と、尾を地面に突き刺して、植物が根で水分を吸い上げるように土から養分を得る場合の二つがあり、基本的にはその両方を行うことで、生存に必要なエネルギーを確保している。そのため彼らは、こうした木の根元の、土が気に入った場所に巣を作るのだ。
目的の獲物を見つけた男と少女は、互いに目配せをした。ここからは、事前に打ち合わせた通り別行動だ。
この魔獣は基本的には大人しく、のんびりとした性格であることが多いが、いざという時には非常に素早い動きを見せる上、相手に敵意があると判断すれば、脅威を取り除くために硬い尾で敵を穿とうとする勇敢な面もある。
と言っても、自分より強者であると判るものにまで手を出すようなことはしない。ただ勇敢なだけでなく、敵わない相手を前にしたときは、その身の素早さを生かして逃げを打つ賢さも持ち合わせているのだ。
そんな風に賢いはずの花房猫だが、どうしてか、自分より遥かに強者である竜擬狼の鱗で巣を飾りたがり、無謀にも竜擬狼が留守の間にその巣に忍び込んで、命懸けで赤金色の鱗を得ようとする。現在のところ、それがどんな理由によるものなのかは判明していないが、一つ判っていることとして、こういった習性を持ち合わせているために、花房猫は竜擬狼の気配や臭いにいっとう敏感である、という事実がある。恐らくは、竜擬狼の接近をいち早く察知し、彼らに気づかれる前に逃げることができる個体が生き残った結果なのだろう。
そんな花房猫の習性を利用して捕獲を試みる、というのが今回の作戦だ。
男と別れて所定の位置についた少女が、改めて花房猫と自分との位置関係や距離を確認してから、そっと口を開く。
「――それは夢? いいえ 貴方は確かに見たの それは幻? いいえ 貴方は確かに聞いたの」
必要なだけの声量に絞ってできるだけ静かに囁かれたその声に、しかし微睡みの淵にいた花房猫が、ぴくりと耳を震わせて目を開けた。それを見た少女は僅かに眉根を寄せたが、一応ここまでは想定済みである。今から彼女が使う魔法を発動させるには、対象からこれよりも離れる訳にはいかず、詠唱もこれ以上音を小さくしてしまっては声にならない。
(大丈夫。花房猫は慎重だから、竜擬狼並みに強いと判断されない限りすぐに行動を起こすことはないって、ハンターさんが言ってた)
彼女の胸中の呟き通り、目覚めた花房猫は音もなく静かに身を起こしたが、その場から動くことはなく、静かにゆっくりと周囲を見回すだけだった。放置しても良いものか、迎撃すべき敵なのか、はたまたこの場から脱さねばならぬような類なのか。その見極めをするために、相手の出方を窺っているのだ。
それを確認した少女は、意識して気を落ち着けつつ、続く詠唱を口に滑らせることで、魔法を完成させる。
「朝の陽ざしに 蒼穹の下に 目を開けて 耳を開いて 貴方は確かに触れたでしょう」
彼女が詠唱を終えたその瞬間、花房猫は何故か何の前触れもなくすぐ近くに竜擬狼が現れたのを認識し、弾けるようにその場から逃げ出した。
花房猫からすれば、鳴き声も臭いも、気配すらもなく竜擬狼がそこにいるなど、本来ならば有り得ないことだ。竜擬狼の探知に特化したこの獣は、仮に逃げ遅れてしまうような場面であったとしても、初手で竜擬狼の接近をここまで許すなどということは絶対にない。そしてだからこそ、花房猫は強く混乱し、恐慌状態に陥った。
こんな風に焦りや恐れに飲み込まれた生き物というのは、常になく視野が狭くなる。故に、感覚が鋭いはずの花房猫が、逃走経路の途中にある茂みに潜む存在に愚かにも気づかず、そこからさっと飛び出してきた影に、花房猫は更なる混乱に叩き落された。
だが、それでも野生の本能というのは流石なもので、襲い来る影を回避すべく反射的に地を蹴った獣は、影とは逆の側に大きく跳んだ。そのまま、予定にない唐突な方向転換に僅かに崩れた体勢を空中で立て直し、すぐさま走り出すために着地の姿勢を取る。そして――
地に足がつく寸前、傍らの茂みから正確に首を狙って振るわれた一撃に気づくのが遅れた花房猫は、襲い来る凶刃を躱すことができずに、ずしゃりと地面に崩れ落ちた。
花房猫の身体が震え、足がもがくように動く。まだ辛うじて息がある獣の傍らに、茂みから出た影――ハンターの男が、静かにしゃがみ込んだ。花房猫の状態をさっと確認した男は、片手で獣の後ろ脚をまとめて掴み、頭の側が下になるようにして持ち上げた。そうすると、動脈を切られた花房猫の首の傷口からは、後から後から血が流れ出ていく。男が暫くそうしていると、流れる血が徐々に少なくなっていき、それに合わせるようにして、花房猫は完全に動かなくなった。
獲物の死を確認した男は、血抜きが終わった死体を見て満足そうに頷いた。遠目から見ても毛艶が良く、花の色も鮮やかな個体だと思ったが、こうして間近で見てみると、思っていたよりも上物だ。
と、そこで男を呼ぶ声が近づいてきて、彼は顔を上げて声の方を見やった。
「ハンターさん、どうですか~?」
「おう、仕留めたぞ」
成果を問う声に男が答えると同時に、がさりと草をかき分けて少女が姿を現した。合流した彼女は、男が持っている花房猫を見て、わぁとその顔を輝かせた。
「花房猫、本当にここに来たんだ。流石ですね、ハンターさん!」
「まあこれくらいならな。花房猫の相手は前にもしたことがあるし、そう難しいもんでもねぇよ」
「ふふ、ハンターさんの作戦勝ちですね」
そう言うと少女は右手の方に顔を向け、少し離れたところの茂みから飛び出ている、木で組んだ簡素な人形を見て、あれも見事に効果を発揮したんですねぇ、と笑った。
花房猫に最初に襲い掛かった影は、この人形だったのだ。
視認することが非常に難しいアドラクの糸を張っておき、そこを花房猫が通過して糸を切った瞬間人形が飛び出てくるように仕組んだこの罠は、花房猫の逃走経路を予測した男があらかじめ仕掛けておいたものだ。
逃走経路の予想がついているのならば、男自身がその場で待ち構えても良いように思えるが、花房猫は俊敏な獣なので、それでは攻撃を避けられてしまう可能性がある。そのため、男は逃走経路には人形を仕掛け、その人形を避けるために花房猫が跳躍する先を予測してその付近に潜んだ。花房猫の素早さは厄介だが、空中にいる間を狙われれば、その素早さも意味を成さないのだ。
こうして男は花房猫の行動を読み切り、見事にハントを成功させたのである。