ワールズエンド外伝 めい子の夢
夜中の12時。雨がガラスを叩いてる。
夜中の12時ではなかった。雨は降ってなかった。
ーーサミュエル・ベケット『モロイ』
1
芽衣子は夢を見た。
それは化学実験室だった。教授が化学式を言う。芽衣子はそれを訂正した。先生! それは間違っています。正しくは……。
そのとき、芽衣子はどういうわけかその化学式が思い出せなかった。教授はいつものように正確な化学式を言ってくれるのを待っている。ところが芽衣子が黙っているのを見て、ほっと溜息をついて、正しい式を言った。
芽衣子は唖然とした。そして理解した。この先生は、正しい化学式をいつも知っていたのだ。わたしはそれを訂正して優越感にいつもひたっていた。しかしそれも、わたしに勉強をさせるための、一つの策略に過ぎなかった……。それなら、わたしにとって化学とは? わたしにとって大事なのはこの優越感だけで、本当は化学式というものをそれほど愛していないのかもしれない。
芽衣子は急に具合が悪くなった。頭の中の化学式はすべて砂浜のお城のように忘却の大海へとさらわれてしまった。
これは何かしら? 芽衣子は実験中のこの薬品がわからなくなった。芽衣子はそれが黄色かったので、オレンジジュースだと思った。芽衣子はそれを飲んだ。オレンジジュースだった。
2
夢の場面が変わった。芽衣子は自分の部屋にいた。たくさんの人形がある。芽衣子は人形をあっちの壁からこっちの壁まで投げて、今度はこっちの壁からあっちの壁まで投げる、という遊びをいつものように始めた。これを繰り返していれば退屈はしないのだった。
ところが、突然その壁が狭まり始めた。手で押さえてもみるみる狭まっていく。芽衣子はどういうわけか、ドアから外に脱出するということを発想できなかった。ただ、このちょうしだと、あと5分間はこうして生きていられるな、と思った。その5分間を、相変わらず人形を投げて遊ぶことに費やすことにした。
残り1分になっても、芽衣子は悠々としたものだった。まだ時間ならいくらでもある、とでも言うみたいに。しかし、壁と壁との間の距離が、もうあまりなくなってしまっていたので、もう人形を投げても、投げた気がしない。
芽衣子は人形を投げる遊びをやめて、今度は化学式について考える。さっきすべて忘れたはずの式を、今度は全部思い出していた。そればかりか、芽衣子は知らなかった化学式までも知っていた。すべての物質の変化が芽衣子にはわかった。これなら! と芽衣子は思った。これならなんでもできる!
しかしその時にはもう、壁と壁との間の距離は、限りなくゼロに近かった。